第6話

 タクシーの中で、私と志賀さんは饒舌だったけれど、崇はむっつりと黙り込んで、窓の外を眺めていた。そんな崇の不機嫌を、志賀さんはおかしそうに笑う。

「急にお邪魔しちゃって、本当に大丈夫なの」

 助手席に座った志賀さんが、こちらを振り向いて尋ねる。私は頷いた。

「多分」

「多分、ねえ」

 喫茶店の電話を借りて、今日二人お客を連れて行ってもいいか、と尋ねたら、木崎は「構いませんよ」と言い、二人の苦手なものや、飲むお酒を尋ね返してきた。その声はいつもの通り穏やかだったけれど、内心どうかまでは、わからない。そういえば、木崎が気分を害したところを、私は見たことがない。見たことがないからと言って、木崎はめったなことでは気分を害さない、と考えるほどに彼を理解しているという自信は、私には、まだ、ない。そんな不安定なことを思うのは、以前の私を知っている人たちに会ったせいだろうか。父と母の娘である私を知っていて、それしか知らない、人たち。

「このあたりに来るのも、久しぶりだなあ」

 志賀さんが懐かしそうにつぶやく。家は、もうすぐそこだ。子供のころは、志賀さんと一緒に父の煙草や母からの頼まれものを買いに、この辺りを歩いた。弟も、時には崇も一緒に。そういうとき、志賀さんは一番小さな弟の手を握り、私は崇と手をつないだ。仲がよかったのではない。ただそういうものだった。崇の手は、いつも熱くて、湿っていた。記憶にじっとりと沁みこんだ、けれどもう口に出して懐かしむこともない類の、遠い思い出。思い出はどれほど近しくとも、過ぎた時間はすべて、取り戻すことができない。

 家の前でタクシーを止める。料金は、志賀さんが払ってくれた。そのまま志賀さんが呼び鈴を鳴らす。返事を待たずに私は鍵を開け、戸を開いた。おだしと醤油のいい匂いが、あたたかく鼻を撫でた。今日は何を作ってくれたのだろう。

「ただいま」

 声をかけると、少し間があって、木崎が出てきた。朝と同じトレーナーにジーンズという格好。

「おかえりなさい」

 と私を見て笑い、

「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」

 と二人に向かって言った。そっとしまって置いた宝物を人に披露するようで、なんだか私が落ち着かない。けれど志賀さんも崇も、それから木崎も、ごく穏当な挨拶をしただけだった。

「これ、結婚祝いです」

 志賀さんが、本屋で私を待たせて二人で選んだ何かを木崎に渡す。中身を知りたくなって、志賀さんに尋ねようかと思ったけど、黙っていた。私はこの家の子供なのか、この家の妻なのか、あるいは主人なのか。どの立場でものを言えばいいのか、ふいにわからなくなったのだ。

 志賀さんがわざとらしく小鼻を動かした。

「いい匂いですね」

「ありあわせですが」

 志賀さんと、木崎が話す後ろを、私と崇がついていく。崇の持った本屋の紙袋が、かさかさと鳴る。崇の本屋の滞在時間は十分ほどだったけれど、その間に四冊買っていた。崇の書物に関する熱心さは、私を少し気後れさせる。資料でもない限り、私は本を、楽しむためにしか読まないから。

 崇は不機嫌、と呼ぶには少し険がありすぎる目つきで、木崎の顔を見つめている。もし視線が力を持つなら、木崎の顔は傷だらけだろう。そんな目つき。気づいていないのか、気にしていないのか、木崎は崇の方を見ない。木崎と崇はそう年は変わらないはずなのに、こうしていると、大人と、子供のように見える。

 居間はもう夕食用に調えてあった。手伝おうか、と一応聞いてみると、木崎は座っていてください、と首を振った。おかずが順々に、食卓に並んでいく。

 お刺身、新じゃがを甘辛くしたもの、キャベツと桜えびの煮びたし、蓮根と牛肉の金平、あと白菜ときゅうりの漬物に、それから筍ごはんのおむすび。いい匂いと食卓にぎっしりと美味しいものが並んでいる光景に、お腹よりもさきに胸が満ちる。ビールも運ばれてくる。

「おいしそうだねえ、ゆすらちゃん」

「美味しいですよ」

 偉そうに私が頷くと、木崎と志賀さんが笑った。崇は、つまらなそうに食卓を眺めている。私と違って、食べ物には懐柔されない性質なのだ。昔から。

「あと揚げ物があるんで、先にはじめてください」

 そういう木崎を志賀さんが、「とりあえず一杯だけ」と引き留めて、座らせる。そして、とりあえず全員ビールで乾杯、ということになった。小ぶりのコップに、金色の液体が満たされる。

 では、と志賀さんが音頭を取る。

「僕たちの可愛いゆすらちゃんと、素晴らしい料理の腕を持つ木崎氏の結婚を祝して」

 乾杯、と、各々軽くグラスをぶつけ合う。志賀さんと崇は、あっという間にコップを乾した。木崎はいつものように、ゆっくりとおいしそうに、飲んでいる。私も一口飲んだ。たまに飲むと、ビールというものは美味しくて、ちょっと驚く。舌を包んで滑っていく泡。ほどよい苦味のあとに残る甘味。

 志賀さんは醤油皿にたっぷりとお醤油を出した。透き通った鯛のお刺身に醤油をつける、というよりも浸して、口に運ぶ。その仕草に、ああ、志賀さんだな、とおもいながら私は蓮根と牛肉の金平に箸を伸ばした。昨日食べたすき焼きのお肉の残りだろう。いい脂が蓮根をきらきらと光らせている。もちろん、美味しい。こっそりと、前歯だけで蓮根を齧って歯ごたえを楽しみ、木崎を見て美味しい、と伝えるために笑った。ちゃんと意図が伝わったようで、木崎も微笑み返してくれる。崇はビールをもう一杯手酌でついで、無言で飲んでいる。崇はお酒を飲む方だけれど、お酒に強くないので、それだけで白い頬と目尻がぼうと赤く浮いている。料理には手をつけない。

「何か食べる?」

 鬱屈を隠さない姿に落ち着かなくて尋ねると、ちろりと眼鏡の下の黒眼が私を舐めた。

「いらねえ。食いたくなったら自分で食う」

 愛想のない返事だけれど、声からは少し鬱屈が抜けていた。志賀さんが笑う。その笑い声の軽さにほっとする。

「お刺身、美味しいよ崇君」

 崇は眉をわずかに寄せただけで、ビールのコップを口に運んだ。コップ半分ほどを一口に飲むと、唇に残る泡を、瑞々しい色の舌で舐め取る。

 木崎はビールを飲み終えると、失礼、と告げて立ち上った。

「揚げ物って、なに?」

 尋ねるが、

「おたのしみです」

 と言われてしまった。

「楽しみだね、ゆすらちゃん」

 志賀さんに言われて、素直にうなずく。崇は一人でビールを飲み続ける。台所からは、油の音が聞こえてくる。

「ゆすらちゃん、崇君に注いであげなよ」

 崇のコップが空になったのを見計らって、志賀さんが言う。どうしてそんなことを、と思わないでもないけれど、今日の崇は客なので、そうするべきなのかもしれないと考え直す。崇はやっぱり眉をわずかに寄せただけで何も言わないけれど、コップは空のまま注ぎもしないので、私が注いでも構わないのだろう。崇は、自分の意志をそういうふうに示すのだ。少なくとも私に対しては。

 手を伸ばしても皿が邪魔なので、私は膝で崇のそばにいって、ビールの瓶を持つ。コップを持つ崇の手と私の手がちょうどよい距離を取るためにぎこちなく動き、軽くぶつかった。酔いのせいかわずかに赤いその手の熱さと湿り気に、肌が驚いた。動揺を静めて、慎重に、こぼさないように、注ぐ。コップの縁ぎりぎりに、粗く泡が盛り上がる。こぼさなかった。

「どうぞ」

 勧めると、崇はまた、ちろりとこちらを見やり、無言でビールを飲んだ。ひといきで、コップを空けてしまう。コップを私の方に傾けて、また注ぐように、仕草で催促してくる。しかたなく、私はもう一杯注いでやる。

「ご飯も食べないと、身体に悪いよ」

 崇はさも鬱陶しそうに眉を顰めたけれど、黙って刺身に手を付けた。木崎の作ったものを食べればいいのに、と思ったけれど、さすがに差し出がましいかと口に出さなかった。

「ゆすらちゃん、甲斐甲斐しいねえ」

 志賀さんがビールのコップと箸を持って笑う。私がどういう顔をするべきか迷っているうちに、崇が顔を顰めた気配がした。居心地が悪くて、自分の席に戻った。キャベツの煮びたしをつまみ、ビールをちびちびと飲む。春のキャベツは味も食感も柔らかい。

「ゆすらちゃん毎日こんなごはん食べてるの。いいなあ」

 志賀さんがじゃがいもをビールで流し込んで言う。自分が褒められたわけでもないのに、なんだか得意になってうなずく。

「いいでしょう」

「ゆすらちゃんは、こういう人が好みだったんだねえ。なんだか意外だけど」

「意外?」

 志賀さんは頷く。

「先生みたいな人と、結婚すると思ってたからね」

 先生みたいな人。父みたいな人。

 志賀さんは、視線は向けずに、意識だけを崇に向けていた。崇は私と志賀さんから顔を背けている。少年のようになめらかな首筋が、のぼせて赤く光っている。人の世に染まらない、子供のままに傲慢で気難しくて、でもそれを他人に許容させてしまう崇。父が私の相手にと、望んでいただろう人。

 崇はとうさまには似てないよ。

 口には出さずに、反論する。崇は、父には似ていない。顔も、性格も、ちっとも似てはいない。けれど、崇と父は、同じ世界の人間だった。そして私も、そこに属していた。馴染み深く、よく知った、私たちの世界。

 私は木崎の後ろ姿を見やる。悠々と、楽しげに、揚げ物をしている男の人。私の人生に、不意に訪れた、見知らぬ人だった木崎。私たちの世界の外側で生まれ、育った人。私の、夫。私が自分で望んで、選んだ人だ。父とは関係のない場所で。

「とうさまみたいな人とは、結婚したくないな、私」

「そう?」

「私はかあさまみたいにはできないから」

 ほんの一拍の間を置いて、そうか、と志賀さんはいつもの気安さで笑った。誰にでも気安く、親切で、あけっぴろげなようで、その実誰に対しても、もしかしたら志賀さん自身に対してさえ、肝心な部分を触れさせずに守っているような、いつもの志賀さんの笑い方。

「はい、かきあげです。そら豆と新玉ねぎ」

 そう言って木崎が白地に青い蔦模様の大皿を、食卓の真ん中に置いた。私の小さな鬱屈は、衣の下に透けているさみどりのそら豆への期待で、蹴散らされてしまう。塩で食べる。噛み砕かれた衣が、さくさくと音を立てる。玉ねぎは、かきあげにするとどうしてこんなに甘いのだろう。そら豆のみずみずしい苦味。唇についた衣のかけらを舌で舐めとる。小ぶりのかき揚げは、一かけらの幸福を残してあっという間に口の中に消える。

「おいしいですか」

「すごくおいしい」

 よかった、と木崎は笑い、私の隣に座る。私はビールを注いであげる。

「仲がいいねえ」

 と志賀さんが笑い、大きな口を開けてかきあげを食べる。衣のかすが、ぱらぱらと志賀さんの前に散る。

「春の味だ」

 崇君も、と志賀さんが勧めると、崇は志賀さんと私と木崎を順に見遣り、しぶしぶ、と書かれたような顔でかきあげに箸をつけた。はじめての土地で出された不審なものでも食べるかのように、前歯だけで小さく噛み切って、咀嚼している。

「美味しいよね」

 志賀さんの誘導に、しぶしぶ、という顔は崩さないまま頷いた。

「よかったです」

 と木崎は、普段の穏やかさで言う。

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