第43話 追憶

久しく忘れていた気がする石鹸の香りが部屋の中に漂っている。


リーベンはベッドに仰向けになって、イリーエナに髪を洗ってもらっていた。


朝食の前に、彼女が水を張った大小様々な大きさのたらいやバケツを部屋に運び込み、暖炉の前にぎっしりと並べているのを不思議に思いながら眺めていたのだが、食事を終えてから、彼女の身振りの様子でどうやら洗髪をしてくれるのだと初めて分かったのだった。


彼女はロウ引きされた大きな布を何枚か抱えてくると、それを端から丸めて器用に土手のような形を作り、もう一枚の布と組み合わせて水の捌け口のある池のような形を作った。ベッドから半ば垂れるような位置にされた口の下には大きなバケツを置く。そしてリーベンに、土手の上に首筋を載せて寝るように指示した。


イリーエナが、手にした水差しからゆっくりと水を注ぎながら、血や泥で汚れてごわついた髪を指で梳いて丁寧にほぐしてゆく。袖をまくりあげているために露わになった彼女の白い腕がすぐ目の前に見えて、リーベンは思わず目を逸らした。


彼女が気を遣って暖炉の前で温めておいた水は、冷え切ってはいないという程度の温度だ。しかし、冷たさは気にならなかった。泡立てられた石鹸で久方ぶりに汚れを流されて、塞ぎがちになる気分まで洗われるようだ。


彼女の手つきは慣れており手際が良かった。だが、本来ならもう少し作業がしやすい環境で行うものなのだろう。間に合わせの道具を使ってひとりでこなしているので、彼女は暖炉とベッドの間を何度も往復して水の入った盥を運んだり、バケツに溜まった汚れた水を捨てに行ったりと忙しなく動き回っている。


念入りに石鹸をすすぎ流し、髪をしごいて軽く水を切ると、新しいタオルで水気を簡単に拭き取ってからリーベンの体を起こした。そしてもう一度しっかりと髪を拭くと、頭が乾くまでは起きているように――恐らく、そういう意味だろうとリーベンは察した――と身振り手振りで言って、作業を終えた。


汚れがすっかり落とされた頭はずいぶん軽くなったように感じる。気分まですがすがしい。


「ありがとう。久しぶりにさっぱりしたよ」


労いの言葉をかけると、イリーエナも満足そうに微笑んで頷いた。彼女は使い終わったタオルや道具類の片付けの作業に戻っていった。


薄暗い寝室の中では、静かで、穏やかな時間がゆっくりと過ぎていた。


こうしてベッドの上に体を起こし、暖炉の中で揺らめく炎が一瞬ごとに姿を変える様を眺めながら何をするでもなく時を過ごしていると、これまでのことが悪い夢だったのではないかとさえ錯覚してしまうようだ。


クルフは思い出したように時折寝室に顔を出しては、煙草をふかし、ぶっきらぼうにリーベンと幾つか言葉を交わして戻ってゆく。尋問する気があるのかどうか、本題に関係する話題に至ることはなかった。

たまに現れる拷問官たちも診察の真似事のようなことをするだけで、特にリーベンをどうかしようという意図は窺えなかった。大柄な兵士などは、傍で見ていても明らかなほど、本来の自分の仕事とはまったく別の目的で足繁くこの寝室を訪れていた。

イリーエナは若者らしい雑念に気もそぞろな兵士をうまくあしらいつつ、看護婦として誠実に立ち働いている。その様子をリーベンはいつも感心しながらベッドから眺めていた。


当初のぎこちない態度はすっかり消え、折に触れて朗らかに声をかけてくる。もちろん言葉は分からない。それでも、彼女のお喋りを聞いているのは楽しかった。

歌うような音の響きの合間に、時折口の中で柔らかく発せられる摩擦音が耳に心地よく余韻を残す。それは、穏やかな陽の光に暖められた土と草の匂い、豊かに実りを結ぶ麦、黄金色の穂をしならせながら、なだらかに続く丘陵を吹き渡ってゆく風――この国にまだ残る、美しく、郷愁を誘う原風景を思い起こさせることばだった。


今も、洗髪の後片づけを終えた彼女は、取り込んだ洗濯物をベッドの脇で畳みながらリーベンに話しかけている。

仕事をする時のしっかりした態度から大人びて見えたが、話をしながら大きな目を伏せてはにかむように微笑む顔を見ると、実際はもう少し若いのかもしれない。


歳の離れた一番下の妹を思い出す――今年で二十歳はたちになる妹のアンナは小さいころからリーベンに懐いていて、今でもよく戦地に手紙を送ってくる。最近のものでは、「地元の郵便局で正式に働くことが決まったから安心して欲しい」という嬉しい報告が書かれていた。

今までの手紙には働き口を見つけるのに苦労していることがそれとなく書かれていたので、リーベンもずっと気にかけていたが、前回の手紙を読んでようやく安堵したところだった。


目の前では、イリーエナが洗濯物の山から洗い立てのシャツをひっぱり出していた。

手で綺麗に皺を伸ばしてから、リーベンが着ているものを脱がせ、新しい上着を注意深く着せる。動かすとまだあちこち痛みが走る体を気遣ってくれていることが分かる。シャツの襟元から石鹸の香りが感じられた。


イリーエナの女性的な心配りに接すると、つい感傷的な追想に浸ってしまう。


食事の度に、彼女は自分のソーセージや卵などの栄養のあるものをリーベンに与えたがった。無理矢理にでも受け取らせようとする彼女の熱心さは、妻のジーナと変わらなかった。


故郷での休暇も終わりに近づき戦地に戻るための荷造りをしていると、必ずジーナは両手にあふれんばかりに色々な物を持って部屋にやってきた――使いきれそうにないほどの量の石鹸に歯ブラシ、何組もの下着と靴下、束になったマッチ箱、肉の缶詰、氷砂糖、ナッツやドライフルーツの詰まった袋、等々……。

どれも現地で支給されるから心配ないといくら言っても、ジーナは何としても持たせたがった。


『必要ないと思っても、もしかしたら何かの時に役に立つかもしれないでしょ? いらないなら周りの人にあげてもいいから、ね、持って行ってちょうだい』


彼方の地に赴く夫が少しでも不自由のないようにという強い願いは十分過ぎるほどリーベンにも分かっていたし、そんなジーナを愛しく感じるのだったが、日用品や食品の詰まった大きな荷物を下げて部隊に戻ると、必ず部下たちに冷やかされるのには敵わなかった。


世話を焼きたがる女性と言うのは、きっと世界共通の存在なのだ――イリーエナの姿を見ながら微笑ましくもそう思う。


彼女は洗濯物を畳む手を止めると、傍らの丸テーブルの上に置いてある箱を手に取った。細かく描かれた花々が小箱を上品に飾り、中にはゼンマイ式の20弁ほどの小さなオルゴールが入っている。この収容所のどこにそんなものがあったのかは分からないが、彼女が数日前に部屋に持ちこんだものだ。


キリキリと底のゼンマイを巻く音が響き、静かな部屋の中でオルゴールがゆっくりとひとつの曲を奏で始めた。


その硬質な澄んだ音色を聴いていると、結婚する前、リーベンがまだ士官学校の学生だった頃の事が思い浮かぶ。


休日にジーナと二人で街をそぞろ歩いていた時、オルゴールを並べている街角の出店の前で彼女が足を止めた。

冷やかしに幾つかの箱の蓋を開けてみては流れてくる曲を楽しげに確かめていたが、何度目かに手に取ったオルゴールを手のひらに載せて耳を近づけると、しばらくその調べにじっと聴き入っていた。


『この曲、好きなの』


そう言って題名を教えてくれたが、音楽というものにまるで疎いリーベンには、それが流行りのものなのか古い曲なのかも分からず、結局名前も覚えられなかった。

そんなに高いものではなかったが、買い求めてジーナに贈ると彼女はとても喜んだ。結婚してからは寝室の枕元に大切に置かれていた。二人でベッドに横になってオルゴールの音を聴きながら、出会った頃の思い出話をしては、ジーナはいつもリーベンをからかった。


『デイヴィット、あなた初めて会った時、緊張しすぎてまともに喋れなかったわよね。ほら、士官学校のダンスパーティーの時』


リーベンの腕に頭を載せていたジーナが顔を上げ、そう言って含み笑いを浮かべる。


『ダンスもしたことがないのに同期に連れてこられて、しかも知らない女の子と踊らなきゃならないなんて、そりゃあ緊張もするさ』

『あの時、何遍足を踏まれたかしら。あれから少しは上達した?』

『後にも先にもダンスなんてしたのはあの一回きりだよ。もうこりごりだ』

『じゃあ、そういう機会があったらまた私、足を踏まれなきゃならないのね』


大袈裟に悲しそうな顔をしたジーナの体を抱き寄せ、リーベンは笑みを浮かべて彼女の耳元で囁いた。


『その時は鬼教官が事前に特訓してくれるだろうから、心配ないだろう?』

『もちろん任せてちょうだい。華麗なステップが踏める素敵な紳士に仕上げてあげるわ』


ジーナはリーベンの腕の中で得意気にそう請け合い、伸び上がって彼の頬にキスをした。


二人だけの寝室にはやがて小さな息子が加わり、その半年後に再び休暇で帰宅した時には、思い出のオルゴールはティムの好奇心の的になっていた。

記憶の中ではいつまでも生まれたばかりの赤ん坊の姿だったティムが、次に会ってみると、もうお座りをしていることに驚く。

ティムはむっちりとした肉付きのいい足の間に両手をつき、少し前かがみになってにこにこしながらベッドの上に座っていた。そうして、両手の下にオルゴールの箱を挟んでリーベンを見る。蓋を開けてやると、鳴り出した音に喜んで手を打ち、いっぱいに指を広げた手のひらで叩くようにして蓋を閉め、また催促する顔でこちらを見る。


音が鳴ったり止んだりするのを不思議がっているのか、単に蓋を閉めるのが楽しいのか、蓋を開けては閉めることを繰り返すだけの単純な遊びに、ティムは声を上げて笑った。その様子はどんなに見ていても見飽きることはなく、リーベンは一緒にベッドに腰掛けていつまでも息子の遊びに付き合っていた――今では遥か遠い昔のことのように思える。思い返せば、家族と過ごした時間よりも、戦地にいる年月の方が遥かに長いのだ……。


目を落とし、自分の手のひらをじっと見つめる。

帰った時にはよくティムの頭を撫でてやった。会う度に、息子の頭に添わせた指の曲げ具合が浅くなり、我が子の成長を感じた。


生まれた時にはこの手のひらに頭がすっかり収まるほど小さかったのに。前に帰った時はこのくらいだったな――爪の無い、傷だらけの5本の指をほんの少し曲げてみた――今はどれくらいになっただろう……。


そう考えた途端、胸が締め付けられそうになるほど切なくなる。

もう一度自分の腕で、ジーナを、ティムをきつく抱きしめたかった。しかし同時に、自分にはもう過去の思い出をいとおしむことしかできないのだと思い知る――この先に思い描くことのできる未来はない。


いつの間にか、オルゴールの音は止んでいた。


立ち上がって宝石箱に手を伸ばしかけたイリーエナが、ふとこちらを振り向いて微かに息を呑む。つられるようにリーベンも顔を上げた。真っ直ぐに自分に向けられた彼女の大きな目は見開かれ、驚きと困惑とが入り混じり、今にも泣きだしそうだった。リーベンは戸惑って彼女を見つめ返す。


その時、自分の手のひらに何かがはたと落ちたのを感じた。

水滴だった。

しばらくその雫を見つめた後、ようやくそれが自分の涙だと理解する。とっさに彼女の視線を避けるように顔を背けた。慌てて涙を拭う。


「……いや、何でもない。大丈夫だ」


笑顔を作ろうとしたがうまくいかなかった。


こんな若い娘の前で大の男が泣くなんて、見苦しいにも程がある――。


どうにか気持ちを落ち着かせようとするが、涙があふれて止まらない。


おずおずと、ためらうように彼女の手がリーベンの髪に触れた。腕が肩口に回され、そのままそっと抱き寄せられる。


異国の娘の胸に頭を預けたまま、彼は声を殺し、じっと項垂れてただ静かに涙を流すのだった。

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