第22話 賭け

暗闇の中で、リーベンはじっと息を詰めていた。独房の扉の隙間からは、僅かに弱い光が漏れているだけだ。


体中が痛い。自分の置かれた状況が、刻一刻と危機的なものになっていることをひしひしと感じていた。このままでは彼らのなすがまま、無抵抗に衰弱してゆくだけだ。


ここから出なければ。体の動く今やらなければ、試みるチャンスは二度と巡ってこないだろう――。


痛みのために思考がうまく働いていないことは自覚していた。これから実行しようとしている計画の詰めが甘すぎるということも。


だが、もう悠長なことを言っていられる状況ではないのだ。どんなに無謀な行動であっても、僅かな可能性に賭けるしかない。


とにかくこの地下から、この建物から外に出て、バラックに駆け込みさえすれば何とかなるはずだ。そこには、たとえ捕虜の立場とはいえ、人の目がある。相手もそうは横暴な行動に出られないだろう。


そのためには銃を奪い、この地下から出る――。


クルフが護身用の小型の拳銃を所持していることは知っていた。制服の上着に隠された右側の腰のあたりが不自然に膨らんでいるので、容易にそれと判る。尋問の対象者に不必要な刺激を与えないための配慮のつもりだろう。


だが、銃を持っていたとして、果たして事務方であるクルフが不測の事態にそれを使いこなせるのかどうかは大いに疑問だ。


リーベンは覚悟を決めた。


痛みをこらえ、どうにか体を起こす。床を突っ張っている腕も脚も、体の重みを受けて頼りなく震えた。全身の痛みに心臓は激しく打ち、脂汗が吹き出す。少し動く毎に深呼吸して息を鎮める。這うようにして扉側の壁際まで移動した。


どのくらい経ってからか、遠くから扉を開閉する気配が伝わってきた。

耳に神経を集中させる。足音は二つだ。先に歩き出したのが――床を踏みしめるように歩く男。後に続くのが――確固とした迷いのない足音。大柄な兵士とクルフだ。


それが分かると、リーベンは頭の中で素早く自分の行動を組み立てた。


壁を肩でにじるようにして立ち上がり、扉のすぐ脇に体を寄せた。ゆっくりと息を吐きながら、足音が近づくのをじっと待つ。鍵を開ける音がして、扉が開かれる。


今だ――!


外側の把手に掛けられた手を掴んで力任せに引き込むと、もう一方の手でよろめいた相手の肩口を鷲掴み、そのままぱっと身を翻して相手の脇の下にもぐり込んだ。兵士の巨体がリーベンの背中の上で弧を描いて宙を飛ぶ。相手を床に叩きつけ、掴んでいた手首を勢いよく捻った。くぐもった鈍い音に潰れたような悲鳴が重なる。


すぐさまリーベンはその後ろにいたクルフに跳びついていた。

突然のことに棒立ちになっているクルフの腰から拳銃を抜き取る。そして背後に回り込むが早いがその首に片腕を回して締め上げた。クルフの肩越しに、床に転がった兵士に狙いをつけて引き金を絞る。

その時、リーベンの腕の下でクルフがもがき、銃を握った手がぶれた。銃声が予想以上に大きく地下全体に反響する。弾は兵士の左肩を貫通した。


外した――。


とどめを刺そうと銃を構えなおしたが、階上の人間までが気づきそうなほどの大きな音を何度も響かせたくなかった。時間も無駄にしていられない。

兵士は血が流れ出る左肩を押さえ、罵声を上げながらのたうっている。すぐに追いすがってくることはないだろう。


銃口を返し、クルフの首筋に押し付ける。


「リーベン少佐――」

「黙れ」


押し殺した声で厳しくクルフを制した。


「少佐、あなたは――」


いつもは落ち着き払っているクルフの声が、今は掠れていた。


「こんなことをして、ただでは済みませんよ」

「黙って歩くんだ!」


普段であれば息が上がることなどない動きだったが、今は肩が上下するほどに呼吸が苦しい。この体の状態では無謀な行為としか言えないのはリーベン自身十分承知していた。だが今更後戻りするつもりはなかった。

ともすれば体の痛みに遠のきかける意識を何とか繋ぎ止め、背後から腕を回して首を締め上げたままの状態で、クルフを促して出口へと向かう。


階段を上がり、閉ざされたドアの前でリーベンは低い声でクルフに命じた。


「扉を開けろ」


クルフが覚束ない動きで上着の内ポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。

その瞬間、リーベンは突き付けていた銃の握把を翻してクルフの首筋に振り下ろした。

声もなくクルフはその場に崩れ落ちた。


倒れた体をまたぎ、地下の外へ出る。


廊下は明かりが落とされ、建物の中は静まり返っていた。夜――おそらく夜中だった。人の気配は感じられない。それでも彼は慎重に進んでいった。壁に手をついて支えにしながら狭い廊下を進む。


視界が開けると、そこは見知った場所だった。尋問で呼び出される度に通った玄関ホールだ。広い空間を横切り、重厚な扉をそっと開ける。


とたんに猛烈な風が雪を巻き上げて吹き込んできた。耳元で激しいうなりを上げている。地吹雪だった。リーベンは息を詰め、細く開けた扉の隙間から外へ身を滑らせた。


管理棟から捕虜のバラックまでは、広大な広場を横切らなくてはならなかった。

鉄条網の間に一定間隔で建てられた監視塔に据え付けられた探照灯は完全に沈黙していた。この天気に監視兵は勤務を免除されて温かい屋内に閉じこもっているのだろう。

リーベンは横から激しく吹き付ける風雪の中に足を踏み出した。風下のほうへ顔を背けて息をつく。

夜闇と巻き上がる雪のために視界は完全に遮られていた。数歩先も霞んでいる。うっかりすればこの広場で自分の位置さえ分からなくなってしまいそうだった。振り返って背後の管理棟の位置を確認しつつ、その向こう正面にあるはずのバラックを目指した。不自由な体を騙し騙ししながら、もがくようにしてできる限りの速さで先を急ぐ。


すぐに管理棟の姿も白い視界にかき消された。あとはただ自分の感覚を頼りに進むしかない。

絶えず吹きすさぶ凍てついた風に弄られて、急速に体温が奪われていく。身に着けているものは素肌の上に防寒ジャンパー1枚と戦闘服のズボンだけというリーベンに、暴風は容赦なかった。寒さに体が強張ってゆく。雪を踏みしめる裸足の指先はもう既に感覚を失っていた。拷問で受けた傷の痛みも激しく主張している。左足は使い物にならず、強い負担を課せられている右足はがくがくと震えた。度々ふっと視界が暗くなる。


まだだ、まだ踏ん張れ。バラックまでたどりつくんだ。


リーベンは歯を食いしばって手足を無理やりにも動かした。


突然、風の唸りをつんざいて、辺りに甲高い警笛が鳴り響いた。

幾つもの探照灯が収容所内を煌々と照らし始め、眩しさに目が眩む。遠くに一瞬、動物の吠え声を聞いた気がした。


地面の窪みに足を取られて膝をつく。立ち上がりかけたリーベンは、突然横から激しい力で押し倒された。

何が起きたのか分からない。だがとっさに体を回して反撃の体勢をとる。

のしかかってきたのは大型の軍用犬だった。

彼は反射的に発砲した。

細かい血が飛び散り、短い叫び声を上げて大きな体が跳ね上がる。

しかし、間髪置かずにもう一頭が跳びかかってくる。その横面を銃の握把で殴りつけた。

更に別の一頭が激しく吠えかけ、右手に噛みつこうとする。

彼は再び拳を振りかざしたが、その腕に容赦なく牙が食い込み、思わず握っていた銃を取り落とした。

数頭の軍用犬ともつれ合い、雪の中を転げまわりながら、リーベンは死に物狂いで抵抗した。


人の怒鳴り声が切れ切れに聞こえてきた。足元の方から数人の兵士が強風によろめきながら駆け寄ってくるのが見えた。


犬が引き離された。怪我を負った体に無理強いして激しく格闘したリーベンは、ぜいぜいと喉を鳴らして呼吸するのが精一杯だった。この上更に立ち上がって兵士に抗う体力は僅かばかりも残っていなかった。


兵士たちは小銃の銃口をリーベンに向けたまま、強風の中、大声で何事かを言い合っている。この天気の中で脱走を試みた捕虜をどうすべきか、戸惑っているようだった。


遅れてもう一人走り寄ってきた。

その姿を目にして、リーベンはこの試みが完全に失敗したことを悟った――現れたのはクルフの部下の兵士だった。険しい表情でリーベンを見下ろしている。探照灯の光を背にして立っているために顔は陰になっていたが、それでも、元々の白い肌が蒼白になり、見開かれた目が異様に光っているのがはっきりと見て取れた。


兵士に囲まれ、雪の中に横たわったまま、リーベンはぐったりと目を閉じた。

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