第23話 銀のナイフ
脱走事件があった翌日の昼前、クルフはシュトフの自室に赴いた。シュトフからの外食の誘いを、副官のサバルディクが伝えてきたのだった。
昨夜の件で叱責されることを覚悟していたが、コートを着込み身支度を整えて部屋から出てきたシュトフは、いつもと変わらぬ鷹揚な様子でクルフに訊ねてきた。
「ひと騒動あったようじゃないか。怪我の具合はどうだ」
「ええ、まあ……打撲ということですが……」
ホールへ続く階段をシュトフと並んで下りながら、クルフは首筋の付け根をさすった。どの方向に頭を動かしてみても痛みが走り、ひどく不自由だった。
「その程度で済んで良かったじゃないか。そこを殴られたら、下手をすれば死ぬこともある。あの男が無傷でなかったことが幸いしたな」
その時のことを思い起こす度にぞっとする出来事だった。いつ銃弾が頸動脈を引きちぎっても不思議ではなく、頭蓋骨を叩き割られてもおかしくない状況だったのだ。
迂闊だったことを自分自身で認めざるを得なかった。まさかあの怪我の状態で、ああまで体が動くとは想像していなかったのだ。
「捕虜が発砲したそうだが、損害はあったのか?」
「補佐官が肩を撃たれましたが、命に別状はありません」
「不幸中の幸いだったな。警備犬は1頭殺されたが。なかなか大した奴のようだ」
感心したように言って、シュトフは続けた。
「――抵抗する気力も体力も、徹底的に削いでおいた方がいいかもしれんな」
正面玄関を出て、既に幾つもの靴跡がついた新雪を踏みしめながら、鉄条網沿いになだらかな坂道を下ってゆく。
昨夜の荒れた天気が嘘のように、今は穏やかな様子だった。風はなく、曇ってはいるが雲は薄く、時折薄日が覗いた。
「お前とこうして歩くのも久しぶりだな」
シュトフが楽しそうに口を開いた。
互いが情報局勤務だった頃、二人は仕事が終わると連れ立って、行きつけの料理屋<麦の穂>で夕食をとるのが日課のようになっていた。
クルフはふと思い出して言った。
「<麦の穂>のリビェヌイ夫人が、もし機会があれば中佐によろしく伝えてほしいとおっしゃっていました」
「コスチェルナ嬢か」
シュトフの表情が和らいだ。
元々の店主であるワリューシャ夫人の引退後、店を継いでいたのが娘のコスチェルナ・ワリューシャ――結婚後はリビェヌイ夫人となった――だった。
「懐かしいな。変わりはないか」
「ええ。今もお一人で店を切り盛りされています。夫人も店も、昔と何も変わっていませんよ」
シュトフが転属でコスタルヴィッツに赴くことを告げた時の、夫人の落胆した様子は、今でも強くクルフの記憶に残っている。
リビェヌイ夫人がまだ若く独身だった頃から、10歳ほど年の離れたシュトフのことを兄のように慕っていたことを――そして、憧れに似た恋心を抱いていたことを――クルフはシュトフに初めて<麦の穂>に連れてこられた時から気づいていたのだった。
「ただ――」
クルフは笑みを消して続けた。
「2年前にご主人を東部戦線で亡くされました。その後すぐに、息子さんも」
前方に視線を向けたまま、シュトフが嘆息した。
「確か、まだ若かったろうに」
「19だったそうです。志願兵で、前線に送られてすぐだったと」
「そうか」
それ以上シュトフは訊ねることはなかった。
しかしクルフには、シュトフが夫人の嘆きを思って沈黙したのだと想像できた。
収容所沿いの道から外れてしばらく歩くと、堅い枝葉に重そうに雪を乗せた針葉樹の木々の間に、こぢんまりとした家々がぽつぽつと見えてきた。
白銀のヴェールのように美しい新雪に覆われ、うっすらとしか残っていない轍を踏み分けてゆく。歩く度に、きゅっ、きゅっ、と足元で小さな音が鳴った。
幾つかの家の煙突から、細く煙が立ち上っている。その中の一軒に向かってシュトフは歩いて行った。この辺りでは普通に見られる、丸太組みの平屋造りの家だ。
シュトフから、かつては避暑客相手に食事を振る舞っていた店だと聞かされていたが、軒先に忘れられたように下がったままの錆びた鋳物の輪が、今は取り外された看板の存在をひっそりと伝えているようだった。
ドアをノックしようとしたシュトフが手を止め、クルフを振り返って目配せした。
「先に言っておくが、酒はないぞ。まだ昼間だからな」
クルフは笑って頷いた。
来訪を知らせると、すぐにドアが開かれ、幾分背の曲がった、痩せた老人が姿を見せた。
「ご主人、世話になる」
「こりゃあ所長さん、お待ちしておりましたよ。今日はお連れの方がおありと聞いていましたので、いっそう張り切ってみました」
相好を崩して二人を出迎えた老人は、クルフを見ると年配者特有の遠慮のなさで穴の開くほどまじまじと見つめていたが、単純な驚き以上の感想は浮かばなかったようで、すぐにまた皺に埋もれるような笑顔になった。
部屋の中は暖炉の火で心地よく暖められ、料理のいい香りがあふれている。
「このあたりの郷土料理を食べさせてくれるんだ」
案内された席につきながらシュトフが言うと、老主人は大仰に手を振った。
「そんな大層なものじゃあございませんよ。ただの田舎料理ですよ」
奥の方から、前掛けをつけた恰幅のよい老夫人が出てきた。両手に持った皿には山盛りに料理が載り、湯気が立っている。
夫人はシュトフとクルフに挨拶し、皿をテーブルに置きながら、訛りの強い言葉で続けた。
「サバルディクさんにはいつも気にかけていただいて。ありがたいことです」
「あれがお役に立っているなら良かった」
「ほんにいい青年で。可愛い孫のように思えてなりませんよ」
主人も夫人も料理を運んでくるごとに賑やかに立ち話をしていった。すぐにテーブルにいっぱいの料理が整えられた。
赤カブの酢漬け、根菜や豆と牛肉の赤ワイン煮、川魚の香草焼き、キノコと玉葱のクリームスープ……どれも家庭料理の飾り気のない温かさを感じさせるものばかりだった。
この時代によくこれだけ一度に食材が手に入るものだとクルフは驚いたが、シュトフと夫人の先の会話を思い出し、どうやらシュトフの何らかの口利きがあるようだと推測した。
料理を口に運びつつ目を上げて恩師を見ると、シュトフはいたずらを見咎められた子どものような含み笑いを浮かべ、悪びれた様子もなく言った。
「所内で義務的に作られた食事ではなしに、こういう家庭料理が無性に食べたくなる時がたまにある。そういう時には材料を渡して作ってもらうんだ」
テーブル横の窓からはイヨール湖が見下ろせた。湖面は凍りついているようで、水辺の樹木の黒々とした姿が、まるで磨りガラスを通したように鈍く映し出されている。
白と黒の二色だけを使って描かれた風景画のような雪景色の中で動くものは何もなく、時間が止まったかのような眺めだった。
微かな風に吹かれたのか、軒先に積もった粉雪がほろほろと舞い落ち、薄日に照らされてきらめいた。
とりとめのない思い出話を語り合いながらすっかり食事を終え、カモマイルで淹れたという甘い香りのミルクティーを飲みながら、ゆったりとシュトフが訊ねた。
「どうだ、そろそろ馴染みの女でもできたんじゃないのか?」
「いえ――まったく」
クルフは苦笑交じりに即答した。
「所帯を持てば、お前のその偏屈な性格も少しは丸くなるのだろうが」
「私は結婚には向かない男です」
他人のために自分を犠牲にするという意識を持ったことのないクルフにとって、結婚などというものは到底理解しがたい行為にしか思えなかった。
そして、自身もまだ独身であるにもかかわらず、クルフには妻帯を勧めるシュトフが
「何だ、ヨヴル?」
笑いを滲ませた声でシュトフが促す。
「何か言いたそうな顔をしているが」
完全に心の内を見透かされ、思わずクルフは微かな苦笑を口元に浮かべた。
小さな陶器の壺から蜂蜜をひと匙すくうと自分のカップに落とし、ゆっくりとかき混ぜる。器の中でミルクが揺れる様を何とはなしに見ながら、クルフは口を開いた。
「――中佐は……結婚を考えたことはないのですか?」
そしてややためらった後、「コスチェルナ嬢とは」という言葉を飲み込んだ。
「そうだな――」
否定とも肯定ともつかない言葉を呟いて、シュトフは視線を窓の外へ向けた。
同じ街で働いているという若い家具職人とコスチェルナの結婚が決まった時、シュトフとクルフは彼女に銀のナイフを贈った。結婚の祝い品として好んで選ばれるもので、この国の風習では災いを遠ざけ幸運をもたらすと言われている。
休日に何軒もの店を回って決めたものだった。ナイフの
美しく整えられた包み紙を開けた時、コスチェルナは心から嬉しそうに微笑んだ。
その彼女の表情を、クルフは今も覚えている。
だが、ずっと想いを寄せてきた相手から結婚の祝福を受ける彼女の心情が一体どんなものであったのか、その表情から窺い知ることはできなかった。
そして、彼女の想いを知っていたであろうシュトフの気持ちも――今、改めて考えてみても、クルフには分からなかった。
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