第46話 決着の時
やっぱりだ。危惧したとおりだ。傷ついた男と看病する女、二人きりで一緒にいれば情が湧くというものだ――クルフは苛立たしく思いながら廊下を足早に進んでいった――しかも男は温厚で忍耐強く、包容力があり紳士的だ。
つい先刻、ライヒェルが執務室に飛び込んでくるなり唾を飛ばしながら激しい剣幕で喚いていった。曰く――許しがたい反逆行為が行われた、捕虜の反抗的な態度は見過ごすことはできない、売国奴の女と厚かましい捕虜には厳罰が必要だ――云々。
その騒ぎの様子を思い起こしながら、クルフは苛々として落ち着かなかった。親身に世話をするイリーエナと穏やかな笑みで応じるリーベンの姿が浮かび、苦々しい思いで顔をしかめる。事を必要以上に大袈裟に騒ぎ立てる未熟な部下にも腹立ちを覚えた。
だが、苛立ちの一番の原因が自分自身にあることは彼にもよく分かっていた。互いの言葉は理解できないまでも、イリーエナとリーベンが打ち解けている様子は実際に何度も目にしていた。彼女がリーベンにほのかな恋心と言っても間違いではないような好感を持って接していることも知っていた。気づいていながら、何となくそのまま放っておいてしまったのだ。はっきりとした理由もなく――ただ、何となく。
歯噛みする思いだった。その曖昧さと自身の判断の甘さが、彼を最も憤慨させていた。
俺らしくもない。すべてのことに厳密に対処してこそ、尋問の成果は最大限に引き出されるものなのに。
ぶつけどころのない激しい憤りに、先日、リーベンの前で意図せず醜態を晒してしまったことに対する気後れは完全に吹き飛んでいた。
荒々しく寝室のドアを開けると、ベッドの横に立っていたイリーエナがぎょっとしたように振り返った。リーベンの上半身に包帯を巻いている最中だった。泣き腫らしたように目を充血させ、頬は涙で濡れている。その片方は赤く腫れていた。
クルフの姿を見て、イリーエナが竦み上がった。クルフが彼女の方に体を向けかけた時、掠れた声が彼を呼び止めた。ベッドにうつ伏せになっているリーベンが僅かに瞼を上げて、クルフを見上げていた。
「大尉……彼女を責めないでやってくれ……。彼女は悪くない……」
疲れ切っている様子だった。今、上半身は包帯で巻かれて傷の程度を確認することはできなかったが、巻いたばかりの包帯のあちこちに滲み出している赤い染みや、いまだに動揺が収まらないイリーエナの様子から察するに、相当激しく暴行されたようだ。シーツや床に敷かれた絨毯には点々と細かく血が飛び散っている。
クルフは不愉快さを隠せずに吐き捨てるように皮肉った。
「乙女の身代わりとなって我が身を差し出すとは、尊敬すべき騎士道精神です」
リーベンは目を瞑って力のない声で答えた。
「彼女が悪いんじゃない。彼女の好意に甘えていた俺がいけなかったんだ」
「だからと言って、あまり褒められた行為ではありませんね。せっかく治りかけてきたものが台無しです」
「そんなことはいいんだ。どちらにせよ俺はもう――」
そこまで口にして、リーベンはほとんど聞き取れないくらいの声で何か呟いた。クルフは敢えて聞き返すことはしなかった。
何てことだ。全てが水の泡だ。この後、勢いに任せて地下に戻したとしても、この男はもはや自分の命に執着を見せることはないだろう。
注意深く慎重に積み上げてきたものが、音を立てて一気に崩れ去っていくような気がした。今や尋問が完全に失敗したことは明らかだった。
クルフは震えながら泣き続けている看護婦をむっつりと見やった。そしてベッドに横たわって浅い呼吸を切れ切れに繰り返している捕虜を憎々しい思いで見下ろし、最後に天井を仰いだ。短絡的で直情的な部下のように喚き騒ぎ、大声で罵倒したい気分だった。
一体どこまで自己犠牲の精神に殉じるつもりだ――どうして自分の利益を考えない――。馬鹿な男だ。救いがたいほど馬鹿な男だ――なぜ自分のために生きようとしない……!
尋問の失敗に対する憤りと、それ以上に激しく湧き上がる、この男の生き方に対するもどかしさが混ぜこぜになって暴風のように体の内で荒れ狂っていた。
怒りを抑えようときつく唇を噛みしめた時、控えめにドアがノックされた。腹立ちまぎれにぞんざいに返事をすると、開かれた扉の向こうにサバルディクの姿があった。
クルフは違和感を覚えて眉を寄せた。今まで急ぎの用事があっても、サバルディクが尋問の場でもあるこの寝室を訪れたことは一度もなかったのだ。
若い副官は入り口に立ったまま、シュトフが呼んでいることを告げた。いつも柔和な物腰のこの副官には珍しく、硬い口調で表情も心なしか強張っている。
クルフは短く了解の意を伝えると、再び看護婦と捕虜に向き直った。大粒の涙をこぼしてすすり泣いているイリーエナに、余計な同情や感傷は捕虜を不利な立場に追い込むだけだときつく伝え、それ以上の強い叱責はしなかった。
彼女はうなだれて、打ちひしがれた様子で小さく返事をしただけだった。
踵を返すと、クルフは副官と共にすぐさまシュトフの執務室を訪れた。
シュトフは机の向こうの窓辺に立って腕を組み、結露を拭ったガラス窓の隙間から収容所の様子にじっと目を当てていた。クルフが入ってゆくとおもむろに振り返り、常とまったく変わらない口調で言った。
「ミルトホフが包囲されつつあるということだ」
ミルトホフ――それこそが、この数週間昼夜を分かたず追求し続けた答え――リーベンが意地になって守り続けた、たったひとつの街の名だった。
つい今し方までの激情がしんと静まり返った気がした――クルフは言葉もなく立ち竦んだ。
「今回ばかりは負けたな、ヨヴル」
シュトフは、まるで賭け事の勝敗を告げるような頓着のない明朗さでそう告げた。
「ズノーシャが突破され、敵軍が北上している。北部戦線では敵方の兵力が数倍に増強されたそうだ。そう遠くないうちにズノーシャから進撃してきた部隊と合流するだろう。となると、この場所が敵の手に落ちるのも時間の問題だ」
壁に張られた地図に目を向けて語るシュトフの口調は、この後予想されるその事態が他人事であるかのように冷静だった。
「お前はこれからすぐに情報局に戻れ。サリューシュならまだ心配はないはずだ」
「――中佐」
クルフは唾を飲み込み、ようやく口を開いた。声が掠れた。
「私は失敗しました」
『成果をあげ続けることができるなら、私はお前を庇護しよう』――その言葉が今ほど重苦しく意識されたことはなかった。自分は失敗した、完全に負けたのだ。自分の存在価値を周囲に知らしめるうえでの絶対的な拠り所としていたものが、今やあっけなく消え去った。
呆然と立ち尽くし、クルフはシュトフの言葉を待っていた――自分の身の破滅を宣告する言葉を。
シュトフが微かに眉を上げた。契約のことを言っているのだと察したようだった。改めて向き直ったシュトフの薄い青灰色の瞳は、クルフが予期した冷淡でよそよそしいものではなかった。
「お前の立場はたった一度の失敗程度に左右されるものではない。それほどの実力を身につけ、実績を作ってきた。もはや私の庇護など必要ない。そうじゃないか?――クルフ大尉」
クルフは息をすることも忘れて恩師の声を聞いていた。
シュトフは立派に成長した我が子を頼もしげに眺めるような和らいだ眼差しをしばらくクルフに向けていたが、やがて思いきるように口調を変えた。
「すぐにここを発て。だがその前に――」
次の言葉を継ぐ一呼吸の間に、その目に冷然とした光が差した。
「例の捕虜は始末しろ。もう必要ない」
クルフは執務室としてあてがわれている書斎に戻ると、倒れ込むように椅子に腰を下ろした。
頭の中は僅か半時ほどの間に起こった様々な出来事が細切れになって入り乱れていた。何ひとつ系統立てて考えることができなかった。唯一はっきりと自覚できたのは、自分はこれからも生きられるのだという、その事実のみだった。
だが感慨に浸っている時間はなかった。シュトフが命じたとおり、すぐにも荷物をまとめて首都サリューシュに向かう列車に乗るべきだった。そのためには最後の後始末を済ませなければならない。不必要な事実は遅滞なく抹消する――つまり、今回の尋問に関わった捕虜2名は速やかに抹殺する。
そこまで考えた時、クルフの目の前にリーベンの姿が浮かんだ。
『よく頑張ってきたな、大尉』
事あるごとに無自覚にクルフを戸惑わせ、苛立たせたあの男――。だがクルフの人生の中で、彼の努力と苦労に理解を示し、あれほどまでに自然に認めてくれたのはリーベンが初めてだった。
今までクルフはあえて考えを逸らしてきたが、確かにあの時初めて実感したのだ――誰かが共感してくれることが、冷え切って硬直した気持ちをどれほど
――俺は何をそう感傷的になっているんだ。
クルフは馬鹿馬鹿しい雑念を払いのけようと、きつく眉をしかめた。
早いところ終わらせよう。何をためらうことがある。簡単なことだ。森の中にでも連れて行き、あの男の後頭部に銃口を向けて引き金を一度引きさえすれば、それでおしまいだ――。
クルフは無意識のうちに制服の内ポケットを探り、煙草を取り出した。マッチを擦ろうとして、自分の手が細かく震えていることに気づく。明らかに動揺している自分を忌々しく思って、放り出すように煙草とマッチを机の上に投げやった。
両手の拳を固く握り締め、体の前で腕を組み、
ついにクルフは目の前の電話の受話器を取り上げると、二人の部下が待機する兵舎を呼び出した。電話口に出たヴェスカーリクに告げる。
「私だ。尋問は全て終了とする。地下の捕虜を執務室に連れてこい。事が片付き次第、サリューシュに戻る」
それだけで要件は伝わったはずだった。
受話器を置くと、クルフは立ち上がった。制服の上着の下に携行している小型の拳銃を取り出し、弾が装填されていることを確認する。手の震えはまだ収まっていなかった。
二人の部下が地下にいるダルトンを連れてくるのを待ちながら、コートをきっちりと着込み、制帽を手に取った。そして自分自身に決定づけるように胸の内で呟く。
安っぽい感傷など必要ない。いずれにせよ、始末はつけなければならないのだ――。
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