第10話 路地裏の少年
その少年の姿を見かけたのは、ほんの偶然だった。
シュトフが34歳の時だ。中央情報局の尋問官として既に十数年の経験を積み、仕事の内容も充実して肩で風を切っていた彼に、思いもかけなかった辞令が下った。後進の教育担当官として、臨時に尋問官養成課程に転属――というものだった。
『私が何か不始末をしたということでしょうか』
情報局のエリートたちが集まる第1情報課から、養成課へという「格下げ」の異動の理由にまったく心当たりがなく、むしろ同僚よりもはるかに成果を上げていると自負しているシュトフは、直属の上官に食ってかかった。
『いやいや、決してそういうことではない。君はよくやっている。今回の話は、課程学生たちに、現役の優秀な尋問官から直接指導を受けることで刺激を与えたいという意図があってのことだ。2年間の期限付きだ。その後はまたここに戻れる』
上官はとりなすようにそう言ったが、シュトフはそうそうすんなりと納得できるものではなかった。第一線の現場から外される自分がひどく惨めに思えた。
しばらくは釈然とせず、新しい職場でも不満を露わにしていたシュトフだった。
だがその後、不本意ながらも日々教壇に立つうちに、彼の心境は大きく変化していった。
自分は選ばれた者だという意識と高い愛国精神を持ち、知識と技術を得ることに貪欲な若者たちを相手にしているのは、尋問の現場とはまた違った張合いがあることだった。
人を育てるのも悪くない――前向きにそう考えられるようになっていた頃のことだ。
夕刻もだいぶ過ぎ、翌日の授業の準備や学生の成績整理にきりをつけ、いつも夕食をとる馴染みの店に向かおうと、大通りから外れて入り組んだ路地を歩いていた時のことだった。
人の声に目を転じると、横道の暗がりの中で、酒に酔っているらしい二人の兵士と薄汚い身なりの浮浪児が向き合って言い合っている。
『このクソガキが、こんな酒にそんな金を払えると思うか!?』
『とっとと消えちまいな、さもないと痛い目に遭わすぞ!』
二人の兵士は少年の手から酒瓶をひったくると、自分たちの半分ほどの背丈しかないこどもに向かって恫喝した。
恐らく密造酒か盗品か、その類のものだろう、兵士相手にそれを売りつけようとした少年から難癖をつけて酒を巻き上げ、代金は支払わないつもりらしい。
粗暴な兵士に凄まれ、しかし、少年に怯む様子はなかった。ムキになって言い返すでもなく、その場から逃げ出すわけでもなく、淡々とした態度で何かを言った。
シュトフはふと興味を引かれて、その場に足を止めた。その時、視線を感じたのか、少年がゆっくりと振り向き、一瞬目が合った。痩せた顔に暗い色の瞳がやけに大きく見えた。
少年は自分を見ている軍人など気にも留めない様子で再び顔を戻すと、兵士たちに短く何かを告げた。
その途端、二人の兵士の態度があからさまに変わった。ちらりとシュトフの方を窺うと、ごそごそとポケットを探って少年に金を押し付け、シュトフの視線を避けるように足早に立ち去って行った。
シュトフは目を瞠り、思わず笑みを浮かべた。
――これはこれは! なかなか大したこどもだ。何を言ったか知らないが、私を出しにまんまと厄介な男どもを追い払うとはな。
少年は手に入れた金をズボンのポケットに突っ込むと、何事もなかったかのように歩き去ろうとした。すかさずシュトフは呼び止めた。
『ちょっと待て。私にも一本分けてくれ』
振り返った少年は一瞬身を翻しかけたが、それではかえって怪しまれると思ったのか、その場に踏みとどまって平静を装っていた。
綻びが目立つ大人用の大きすぎる帽子を被り、その下からは手入れのされていない、黒みがかった濃い金髪が幾束か無造作にはみ出している。シュトフを見上げる濃紺の瞳は鋭い光を帯びていた。
シュトフは努めて穏やかな口調で訊いた。
『幾らだ?』
『もう今日は持ってない』
『そうか。それは残念だ』
『――まだ何か用が?』
ぞんざいな口をききながら、少年の右手がさり気なくポケットに入る。おおかた、ナイフでも握り締めているのだろう。シュトフは肩をすくめた。
『その物騒なものは必要ない。私は少し話がしたいだけだ。ついて来い』
そう言って少年に背を向けて歩き出した。ついて来るのも来ないのも、少年の判断に任せるつもりで振り返りもしなかった。
しばらく歩き、行きつけの店<麦の穂>の入り口の前で、初めてシュトフは振り向いた。
少し離れて、用心深く窺うような眼差しの少年が立っていた。
<麦の穂>は中央情報局の庁舎からそう遠くない静かな裏通りにある、こぢんまりとした料理屋だった。
一日の仕事を終え、静かに宵の口を過ごしたいと願う客人を温かく迎え入れてくれるのが、店主であるワリューシャ夫人とその娘のコスチェルナだった。押しつけがましくなく、控えめで穏やかな母娘の人柄がそのまま表れた小さな店。落ち着いた柔らかい光が滲む居心地の良い空間で、夫人の作る家庭料理を味わいながら、客は皆、口数少なく思い思いに疲れを癒すのだった。
『お連れの方がいらっしゃるなんて、初めてのことですね』
少年を伴って席に着いたシュトフに、コスチェルナが飲み物を給仕しながら話しかけてきた。シュトフの前にはいつものように白ワインのグラスを、少年の前には炭酸水の入ったグラスを置く。汚く貧相な恰好の少年を見ても、彼女は眉を顰めることなく他の客と同じようにもてなした。
シュトフは軍服の上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら頷いた。
『ああ、そうだったかもしれないな。この店のことは自分だけの特別な秘密にしておきたいのでね』
『まあ。そんな風におっしゃってくださって、本当に嬉しいです』
コスチェルナははにかんだ。そして、二人分の注文を受けると静かに厨房に戻って行った。
シュトフは改めて少年に向き直った。
『まずは自己紹介をしよう。私はシュトフ大尉。尋問官として中央情報局に勤務している。お前の名前は』
『ヨヴル』
『姓は』
『知らない。みんなが俺をヨヴルと呼ぶから、俺もそう名乗ってるだけだ』
『よろしい。ではヨヴル、ちょっとした質問だ――彼女をどう思う』
他のテーブルに料理を運んできたコスチェルナをそっと目で示して、そう訊ねた。
途端にヨヴルは迷惑そうに顔をしかめた。
『なんで俺があんたの色恋沙汰の相談に乗らなきゃならないんだよ』
『相談しているつもりはない。彼女について何を思うか聞いているだけだ』
『あんたは、そんなことを聞きたくて俺をここに連れてきたのか?』
面倒くさそうに吐き捨てたヨヴルに、シュトフは答えを促すように目を当てたまま黙っていた。
ヨヴルはシュトフを睨んで溜め息をついた。
『分かったよ――。あの人、あんたのことが好きなんだろ』
『どうしてそう思う』
『そんなの、見れば分かる』
『他には』
『「他には」って、何だよ』
ヨヴルは意図の見えない話を打ち切りたがっているようだったが、相変わらずシュトフが黙って発言を待っているのを見ると、苛立たしげに舌打ちしてつっけんどんに答えた。
『歳は20を少し過ぎたあたりかな。この店は、多分母親と二人でやってる。控えめで気立てがよさそうだ。あんた、結婚したらどうだ』
投げやりに発せられた年端もゆかない少年の言葉に、シュトフは思わず声を立てて笑った。
――この混血の浮浪児は、なかなか筋が良さそうだ。
痩せており、体に合わない大きな服を着込んでいるのでなおさら小柄に見えるが、恐らく12、3歳前後だろう。
ほんの僅かなそぶりや言葉から相手の感情を読み取る観察力と洞察力。その時々の環境を巧みに利用して、自分に有利な状況を作り出す瞬時の判断力。それをこの年齢で、しかも勉学の機会など全くなかったであろう彼の境遇で身に着けていることに、シュトフは目を瞠る思いがした。
一介の浮浪児に対する好奇心が抑えがたく湧き上がってきた。
運ばれてきた煮込みスープと丸パンを頬張りながらも、さりげなく周囲の様子を窺っている混血の少年を前に、シュトフの心は決まった。
一通りの食事を終え、ヨヴルがようやくその手に握っていたスプーンを置いた時、シュトフは切り出した。
『さて――私からひとつ提案がある』
少年の濃紺の瞳にさっと警戒の色が現れた。だが、シュトフの言葉を当然予期していたかのように、落ち着いた態度は変わらなかった。
シュトフは淡々と続けた。
『お前がもし私の望む役割を果たし、成果をあげ続けることができるなら、私は混血児であるお前を庇護しよう。この提案を受けるかどうかを決めるのはお前の自由意志だ。どうする』
さすがに驚いたようだった。ヨヴルはしばらく探るようにシュトフの顔を見つめていた。
『あんたの望む役割って』
『この国で一流の尋問官となること。そして、尋問官としての成果をあげ続けること』
『国のために働けっていうのか』
『そう言えば、お前は即座に断るだろう。だから私はそう言うつもりはないし、そもそもそんなつもりもない』
少年は、シュトフの意図がなかなか掴めないことに苛立った様子で、神経質そうにぴくりと眉を動かした。
『尋問の結果得られた情報が国のためになろうがなるまいが、そんなことは私にはどうでもいい。お前はただ、私のために、優秀な尋問官になれ』
シュトフの言葉をこの少年がどう受け取り、理解したかは分からない。だが、ヨヴルはシュトフの提案を受け入れた。シュトフの尽力で、クルフという新しい姓を名乗り、数年後に軍の尋問官養成課程に入校してからは、予想を遥かに超えた成長を見せた。
そして今、シュトフが目をかけて育て上げた教え子は、情報局内でも一目置かれる存在となっている。そのクルフがここでどんな成果を上げるのか、純粋にシュトフは楽しみだった。
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