第9話 拭いきれない不安
「デューリェ! デューリェ!」
辺りが白々と明るくなり、ようやく夜闇の名残が薄れはじめた頃、監視の兵に急かされながら捕虜の一群が収容所を出発していった。
高緯度地帯にあるこの国では、冬の季節は日が短い。朝8時でも太陽はまだ地平線の下にあり、夕方4時を過ぎる頃には夜の気配が漂ってくる。そしてほとんど毎日厚い雪雲に覆われている空の下は、その短い日中でさえも薄ぼんやりとした明るさにしかならなかった。
この季節、捕虜たちは朝暗いうちから出発し、収容所の裏手に広がる針葉樹の森の中で、ひたすら材木の切り出し作業にあたる。
吹き付けた雪がそのまま凍り付いた太い幹にのこぎりの刃を立て、かじかんで感覚の鈍くなった手に力を込めて二人がかりで木を挽いてゆく。その振動で、葉に重く積もった雪の塊が絶えず頭上に降り落ちてくる。全身雪まみれになりながらの辛い作業だ。切り倒され、枝葉を落とされた大木が長いトレーラーに積まれて運ばれてゆくのを見送りながら、それが何に使われるのか知っている捕虜は誰一人いなかった。
一日の始まりにもかかわらず、僅かな食料でその日のノルマをこなさなければならない彼らは皆一様に押し黙り、大鋸やスコップを重そうに担いでいた。誰も彼も疲れ切った足取りで収容所のゲートをくぐってゆく。
今日は何人が医務室に運ばれてくるだろう……。
沈鬱な集団を横に見ながら、血や膿のついた包帯やガーゼでいっぱいになった籠を脇に抱えたダルトンは、収容所の一角にある医務室を目指して足早に歩いていた。
「医務室」と呼ばれているバラックは、7棟並ぶ収容棟の一番奥にある、捕虜のためのものとしては比較的丁寧に造られた建物だった。
そこは捕虜の軍医と衛生兵が担当し、時折この国の軍医も他の収容所から監督に回ってきた。入院のためのベッドは10床しかなく、医薬品は常に不足していたが、何かあればこの収容所に勤務する兵士も受診しに訪れていた。
ここに収容されてすぐ、ダルトンは医務室付きになった。
衛生兵という職種柄、不自由なく収容所の中を行き来することができた。今も、医師から作業不可の判定を受けてバラックで臥せっている怪我人や病人を回って、傷の消毒や包帯の交換を終わらせてきたところだった。
戸板で作られたドアを開け中に入ると、そのまま右手の病室部分に進んだ。10台並んだベッドは常に病人や怪我人で満床だった。その一番奥にリーベンが横になっていた。
ダルトンが覗き込むと、リーベンは眠っているようだった。
「なんだ、寝てるのか」
思わず呟いたダルトンに、近くにいた若い衛生兵が振り返った。昨晩当直にあたっていたミラー上等兵だ。
「リーベン少佐はさっき戻られたばかりで、ひどくお疲れのようでしたから……」
「どこかに行ってたのか?」
「昨日、夜中に呼び出されていたんです」
「呼び出されたって――誰に?」
「詳しくは分かりませんが、尋問を受けていたとおっしゃっていました。突然連れ出されて、5、6時間も経ってようやく戻られました。何しろあの足の怪我でここからずっと向こうの建物まで歩かされたんですから、少佐にとってはかなりしんどかったと思いますよ」
ミラーはリーベンに目をやると、気の毒そうにそう言った。
二人は小声で話していたが、その声でリーベンが目を覚ました。ベッドの傍らに立ったままのダルトンと目が合うと、ふと息を吐いて何度か瞬きをした。
「悪い、起こしちまったな」
「バート。どうかしたのか?」
「今聞いたが、呼び出されて尋問されたって?」
「ああ、そうなんだ」
リーベンはそう言って、ベッドの上で体を起こした。確かに疲れているようだった。目にいつものような力がない。
ダルトンは、備品の確認作業に向かったミラーの背中に声をかけた。
「包帯の交換は終わってるのか?」
「いえ、これからです」
「それなら俺がやる。道具を持ってきてくれ」
そう言うと、リーベンが掛けている毛布をめくり、ズボンを脱がせた。包帯を解くと、内側に血が滲んでいた。
汚れたそれを足元の籠に放り込んで、ダルトンは注意深く傷の具合を確認した。
「良かった、大丈夫そうだ。傷口は開いてない」
ミラーが処置具を乗せたトレーを運んできた。包帯もガーゼも新品のものではない。慢性的な物資不足が影響していた。
ミラーの話では、切実な思いで医薬品の申請を上げても、数ヶ月経って実際に支給されるのはその何十分の一程度か、酷い時には完全に黙殺されるということだった。
そのため、包帯でもガーゼでも注射針でも、使えるものは何度でも使った。丁寧に洗って念入りに煮沸消毒し、また使えるように整えておくのは、ここの衛生兵の大切な仕事のひとつだった。
ダルトンはリーベンの傷口にガーゼを当て、丁寧に包帯を巻きつけながら、改めて話を戻す。
「それで、あいつら、一体おまえに何を求めてるんだ?」
「ズノーシャを突破した後の目的地を知りたいらしい」
「で、お前は知ってるのか?」
「いや。その後のことは知らされていない」
「それなら、そんなの適当に言っとけよ。その怪我であんな遠くまで歩かされたら堪らん」
ダルトンは憮然とした。まるで自分の事のように腹立ちを覚えた――重傷の怪我人を歩かせるなんて、奴ら一体どういうつもりだ。
リーベンは苦笑し、横になっていたせいでところどころ跳ね上がっている短い髪を無造作に手で梳きながら言った。
「そうもいかない。適当に言ったことで、別の戦線に思わぬ影響が出る場合だってある」
「そういうもんか? 厄介なもんだな」
ダルトンは鼻を鳴らした。
「尋問って、厳しくつつきまわされるのか?」
「今のところはそうでもないな。コーヒーが出されたり――」
「へえ!この国はまだ余裕があるってことか?」
「手に入るのは一部の上の人間だけだろう。実際、話をした尋問官も手に入りにくくなったとは言っていたし――そういえばあの男、混血だったな……」
ふと思い出したようにリーベンが呟いた。その言葉にダルトンは目を見開く。
「まさか! 今のこの国で、軍部にか? 他の民族の血が混じっていると分かったら、即座に殺されるこの国で?」
「だが、あの将校は確かにそうだった」
リーベンは自分の記憶をもう一度確かめるようにゆっくりと頷いた。ダルトンは不安を覚えた。眉を寄せ、声を潜める。
「おい、デイヴ。おまえ気をつけたほうがいいぞ。もしそうだとしたら、このご時世に生き残れるやつなんてよっぽどの切れ者か、そうでなかったら何かある人間だぞ」
「ああ、そうだな。注意するよ」
リーベンはダルトンの忠告に素直に頷いたが、ダルトンの胸にはまだ言いようのない漠然とした不安感が居座ったままだった。何とかそれをうまく伝えられないものかとしばらくリーベンの顔を見つめていたが、どう言い表したらよいか分からずに、結局諦めて体を起こした。
「まあ、とにかく今はゆっくり寝とけよ。飯は取っといてやるから」
手当てを終えてズボンと毛布を元通りにすると、そう言ってリーベンの肩を軽く叩いた。今度は隣に寝ている怪我人の包帯を替えながら、彼は胸の内で呟いた。
デイヴのことだ、俺が心配しなくたってうまくやれるさ――。
あえて自分にそう言い聞かせてみたが、得体のしれない居心地の悪さをすっきりと拭い去ることはできなかった。
入院患者の手当てを全て終え、足元に置いておいた籠を抱えると、ダルトンはそれでもなお釈然としない面持ちで洗濯場に向かった。
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