第39話 兵士という人間

「マルシャ、手当ての仕方を教えて欲しいんだ」


朝食が終わり、イリーエナがいつものように炊事場に片付けに行こうと食器をまとめていると、がっしりとした大柄な兵士――ライヒェル伍長がのっそりと部屋に入ってきて、親しげに声をかけてきた。彼女がこの部屋で仕事にあたるようになったその日から、朴訥として愛想のいいこの兵士はちょくちょく部屋に出入りしていた。


「教えるは構いませんけど――」


イリーエナは途惑ってライヒェルを見た。


「片腕を怪我していてできますか……?」


そう言うと、ライヒェルは「同意を得たり」という表情で大きく頷いた。


「そうなんだよ! そう思うだろう? でも、今のうちに包帯の巻き方くらいしっかり覚えておけって、やたらと軍曹がうるさいんだ」


情けない顔をして、人懐こそうな小さな目で縋るように彼女を見る。

イリーエナは思わず苦笑した。


「それなら――これから包帯を交換しますから、とりあえず、どう巻くのか見るだけでも勉強にはなるかもしれませんよ」


そう提案すると、ライヒェルは「じゃあ、それで頼むよ」と嬉しそうに頷いた。


なぜ彼が手当ての仕方など教わろうとするのか、なぜヴェスカーリク軍曹がそう指示するのか、イリーエナは余計な詮索はしない。訊かれては不都合なことが誰にでもあるものだ。相手が自分から話し出すようであれば親身に耳を傾けるが、そうでなければ根掘り葉掘り訊ねることはしなかった。


彼女は食器の入った籠をいったん脇へ置くと、包帯と消毒薬を持って捕虜に向き直り、掲げて見せた。男は頷き、起き上がるために体を動かし始めた。


男がひとりで上体を起こすまでには途方もなく時間がかかった。それを見越して先に声をかけ、その後で洗面器に水を用意したり、手当てに必要な道具の準備を始める。


横になった体勢から、肘をついて腕を突っ張り、上半身をベッドから引き離すという、普通であればものの数秒で終わる動作にも、患者は数分も必要とした。途中で痛みをこらえるように顔をしかめてじっと呼吸を止めることもあれば、震えるように何度か大きく息を吐き出すこともあった。何とか起き上がっても、手当ての間ずっとそのままの姿勢を保っていることが辛いようで、倒れまいとするかのようにシーツに突いた手に力を込めているのだった。


膿が染みた包帯を注意深く解いてゆくと、何度見ても思わず顔をしかめたくなるような傷が現れる。

体中の打撲痕と腫れ。数えきれないほどの線状の裂傷が縦横に走る背中。胸には火傷の痕のようなものが幾つもあり、爛れて化膿している。手や足の甲は一面擦過傷に覆われ、爪は一枚もない。両手首の周囲の皮膚は擦り切れたようにすっかり赤剥けている。下肢全体はことに酷く腫れ上がり、足首のくびれが分からないほどだ――それらの生々しい傷痕は、この捕虜がある期間、体の自由を奪われ激しい暴行を受けていたことを物語っていた。


イリーエナのすぐ隣に立って、処置の様子を見守っているライヒェルの腰に下がっている鞭が目に入る。

今はもう、彼女にもこの捕虜の傷がどういうものなのか、だいたい察しはついていた。ライヒェルが大きな体を屈めるようにしてイリーエナの手元を覗き込む度に、反射的に体を強張らせる男の反応を見れば、少なくとも背中の裂傷の原因は明らかだった。


だが、おしゃべりで女好きの善良そうな田舎の青年の姿と、無慈悲なまでに引き裂かれた患者の背中の傷痕が、彼女の中でどうしてもひとつにつながらなかった。


でも――。


イリーエナは思う。その妙な感覚は、いつでも同じなのだ。しっくりくることはない。

野戦病院では、砲弾の破片に手足を引きちぎられていたり、銃弾に貫かれて体に穴の開いた兵士たちが担ぎ込まれてくるのを数多く見てきた。泥と煤にまみれ、硝煙のきついにおいが染みついた血まみれの体を震わせて、うわ言に母親を呼ぶ、弱々しく寄る辺ない姿。だがそんな彼らは、数刻前まで銃を手にし、向こう側にいる人間を同じような有様にしていたはずなのだ。


今、目の前にいるこの捕虜に対してもそれは同じだった。

熱は下がったとはいえ体はまだ相当痛むのだろう、土気色の顔色をして、額には常にじっとりと脂汗が滲んでいる。だが、苦痛を訴えることはなく、不機嫌に喚き散らすようなこともなかった。物静かなこの捕虜は、いつも疲れ切ったような翳りのある表情で、ただじっと横たわっていた。彼女が何かしてやると、それでも笑みを作って律儀に感謝の態度を示す。その様子からは、とても人を殺すような人間には見えなかった。


これが戦争なのだと彼女は思う。

後方の療養所で出会った傷病兵たち――半身不随になってベッドに寝たまま、軍に志願して初めて親元を離れたと語った、まだ幼さの残る表情をした若者。様子を見まわる看護婦を引きとめては、男手がなくなってしまった自分の店を気にかけていたパン屋の親方。壊死した片腕を切り落とされた後、「俺は街で一番の腕前だったんだ」と寂しそうに笑った指物師――戦争がなければ、誰もが皆、ささやかな喜びに心を躍らせちょっとした悩みに思い煩う平凡な日々を送っていたはずだ。


では、もし戦争がなかったら――この国の資源を我がものにしようとする周辺の国々に対して抵抗しなかったとしたら――この国は、自分たちの生活は一体どうなっていただろう……?


そこまで考えが及ぶ度に、イリーエナは決まって混乱してくるのだった。


彼女はそっと息をつき、自分の仕事に意識を戻した。

傷口を洗い終え、消毒薬に浸した脱脂綿が入っている容器を手元に引き寄せる。ピンセットの先で一塊の綿をつまみ、容器の内側に押し付けて余分な液を絞る。


「まず、消毒する時には必ず最初に傷口にあてて、それからこう、円を描くようにだんだんと周りに広げて――。新しい脱脂綿を取り出す時には、そこの、消毒済みのピンセットを必ず使って――そう。お互いのピンセットには触らないようにして渡してください――そうです。じゃあ、今度は伍長さん、やってみますか?――」


男の体の傷は、消毒薬のシャワーを浴びたほうが早いのではないかと思えるほどに広範囲にわたっていた。消毒を済ませるにもかなりの時間がかかる。たどたどしい手つきでピンセットを使うライヒェルに処置をさせているので、今回はなおさらだった。


ライヒェルの補佐をしながら、イリーエナはちらりとその表情を窺う。


――自分が故意に傷つけた相手の手当てをするのは、どんな気分なのだろう。


だが、この青年は特に何を感じている様子もなく、集中するあまり手元に不必要に顔を近づけて、熱心に消毒薬を塗り付けていた。


汚れた脱脂綿がシャーレに山積みになり、ようやく傷口の処置が終わると、ライヒェルは別のシャーレの上にピンセットを落としてうんと伸びをした。


「ああ、疲れた――肩が凝っちまったよ」

「でも、これで傷の処置の基本は覚えましたね」

「これだけ消毒の練習をすればもう完璧さ」


自信たっぷりの口調でそう言うライヒェルに笑みを返したイリーエナは、いつもより長い時間体を起こしていなければならない患者が、俯いたまま息を詰まらせたのに気付いた。

彼女は急いで、膿んでいる胸と背中の傷を薬液に浸したガーゼと油紙で覆うと、手早く上半身に包帯を巻きつけていった。


「包帯はきつく締めすぎないこと。肌の上を転がすようにして巻いていきます。手足に巻く時は、指先の方から体の中心方向へ。関節の部分は、こう折り返して――」


本来なら全身に包帯を巻くべきところだが、物資不足で使える量には限りがあった。いつものように上半身と左足の銃創部分だけを覆って、処置は済んだ。


「これで終わりです」


そう告げると、患者はほっとしたように微笑んで異国の言葉を呟いた。礼を言ったのだということは彼女にも想像できた。


男は傷ついた体をぎこちなく動かして、時間をかけてまたベッドに横になろうとしていた。

イリーエナはずいぶんためらってから、少しだけ手を貸してやった。男が顔を上げた。驚いたような眼差しで彼女を見つめ、また先程と同じ言葉を小さな声で口にした。


「俺の包帯も君に交換してもらえたらいいのにな。軍曹は乱暴なんだ、余計に具合が悪くなりそうだよ」


間延びした声にイリーエナが目を移すと、ライヒェルが暖炉の前のソファーに陣取って手足を伸ばしていた。そうしながら何くれとなく彼女に話を向けてくる。

イリーエナは親しくなり過ぎず不愛想にもなり過ぎないように受け答えしながら、患者の下着や包帯などの汚れ物をまとめていった。早く洗濯を済ませてしまいたかった。そうでないと、少ない数でやりくりしているために、必要な時に使いたいものが乾いていないという困った事態になるのだ。


あまりにのんびりとした様子でライヒェルが寛いでいるので、イリーエナはとうとう水を向けてみた。


「そろそろ戻らなくていいんですか? 処置の練習にしても、さすがに時間がかかりすぎだと思われそうですよ」

「そうだった。また軍曹にどやされる」


あたふたと立ち上がると、ライヒェルはドアを開けながら振り返り、「じゃあ、マルシャ、また何かあったらよろしく頼むよ」と調子よく言い置いて部屋を出て行った。


その姿を見送り、仕事に戻ろうと振り返ったイリーエナは、こちらを向いて横になっている男とふと目が合った。どちらからともなく曖昧な表情になる。どうやらこの男にも、言葉は理解できないまでも、体よくライヒェルが追い出されたことが伝わったようだった。


彼女はばつが悪いような思いでぎこちない笑みを微かに見せると、「仕方ないことだから」という意味を込めてさっと肩をすくめた。それを受けた男も、つられるように苦笑した。


この、ほんの些細な出来事が、たった二人だけの気詰まりな空間の雰囲気を和らげた。


何となくほっとしたような気持ちになって、洗濯物を入れた籠を持ち上げようと彼女が身を屈めた時だった。


「……フシュカ・イリーエナ――」


遠慮がちに突然名前を呼ばれて、彼女は驚いた。しかも、丁寧に未婚の女性に対する敬称まで添えられている。ここ何年か看護婦として兵隊たちを相手に働いてきたが、きちんと敬称付きで呼ばれた記憶などなかった気がした。将校は姓を呼び捨てにし、傷病兵たちからは名を呼ばれた。

慣れないことに思わずどぎまぎして、彼女は口ごもるように言った。


「……マルシャ――マルシャで、いいです……」

「マルシャ」 


男は頷いて、小さく繰り返した。


「あの……あなたは? あなたの、名前……」


控えめながらも身振り手振りで伝えてみる。


「リーベン。デイヴィット、リーベン」


男はゆっくりとそう発音し、微笑みを浮かべて右手を差し出した。

彼女はおずおずとその手を取った。

肉が落ちて骨ばった、傷だらけの手がそっと彼女のてのひらを握った時、不意に彼女は感じた――目の前の男が敵国人という群れの中の一人ではなく、一つの名前と人格を持ち、故郷に家族や日常の平穏な生活を残してきた、自分たちと変わらぬ人間であることを。


『よろしく、マルシャ』


穏やかな眼差しで真っ直ぐに彼女を見て発せられた異国の言葉がそういう意味だと察せられて、彼女もつられて思わず微笑んでいた。


手を戻したリーベンが、チェストの上に視線を投げて何か言っている。その身振りから、水が欲しいのだと予想がついた。

イリーエナは水差しを取ってコップに注ぎながら、頬が上気しているのをおかしく思われはしないかと、そればかりを心配していた。

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