第32話 生きるための契約

ようやく勢いを増してきた暖炉の炎が、動き回る人影を薄暗い部屋の中に大きく映し出している。

この邸宅に幾つかある客人専用の寝室で、ヴェスカーリクとライヒェルが忙しなく瀕死の捕虜の処置にあたっていた。

暖炉の火は入れられたばかりで、部屋はまだ十分に温まっていない。


捕虜を温かい場所に移す必要があるというヴェスカーリクの意見を受け、クルフは所長付き副官のサバルディクの居室に電話を入れたのだった。


就寝時刻をだいぶ過ぎていたが、サバルディクはすぐに管理棟にやってきた。寝間着の上にコートを羽織り長靴を履いた格好で、外の冷気に頬と鼻を赤くしながら、それでもこの人の善い副官は嫌な顔を見せることなく、すぐさま部屋をひとつ用意してくれた。


ベッドカバーやカーテン、絨毯などは深緑色を基調にして整えられ、艶やかな黒胡桃材で揃えられた上質な家具類と相まって、室内は落ち着いた雰囲気を醸し出している。

そんな部屋のベッドに寝かされた、傷だらけでやつれ果てた人間の姿は、この場には明らかに異質な存在だった。


ヴェスカーリクがライヒェルに薬剤の説明をしながら点滴の準備をしている。タオルのような長い布を持ってきて、ベッドの枕元の支柱にガラスの点滴瓶を器用に括り付けた。

それが済むとナイトテーブルの上に置かれていたシェードランプを手元に持ってこさせ、ひとつひとつの手順を細かく解説しつつ、捕虜の静脈を探って針を刺している。


クルフは二人の向かい側で作業の様子を見守っていたが、後は部下たちに任せて自室に戻ろうと踵を返した時、ふと、リーベンが息をついた。高熱に浮かされて、途切れ途切れに何事かを口走る。


クルフはしばらく足を止めてリーベンの様子を見下ろしていたが、思い立って足早に部屋を出た。尋問のための執務室として使っていた書斎の本棚から適当に数冊の本を抜き取ると、再び部屋に戻る。

もしかしたら、譫言うわごとから些細な手がかりでも得られるかもしれない――大した期待はしないまでも、そう考えたのだった。


「クルフ大尉」


リーベンの上に身を屈めて傷の状態を検めていたヴェスカーリクが振り返った。


「どの程度の回復を期待されますか」

「死ななければいい。意識が戻って喋ることができれば十分だ」


持ってきた本をベッド脇のテーブルに無造作に置きながらそう答えると、ヴェスカーリクは頷いた。


「では、これで一応の処置は終わりました。後は時々様子を見に来ようと思いますが」

「分かった。私はしばらくここにいる。君たちは必要に応じて対処してくれ」


二人の部下は処置に使った器具を片付けると、部屋を出て行った。


室内の寒さが和らいできたので、クルフはコートと制服の上着を脱ぎ、ベッドの横にアームチェアを引き寄せて腰を落ち着けた。ネクタイを緩め、取り出した煙草に火をつけると、一息大きく吸い込む。

テーブルに置いておいた大判の厚い本を一冊手に取って、表紙をめくった時だった。


煙草の煙にむせたのか、リーベンが激しく咳き込んだ。意識はないが、切れ切れに息をつき、引きつったような呻き声を漏らした。苦悶の表情で、何かから逃れようとするかのように必死に顔を背ける。拷問の場面が再現されているのだろう。額には脂汗が玉のように浮かんでいる。


クルフはしばらくリーベンの様子に目を当てていたが、別段興味を引く言葉が出てくるようでもなかった。開いた本に再び目を落とす。国内の美術館の名品を載せた画集だった。ページをっていくと、見覚えのある絵画の写真が幾つも載っている。


ふと、昔の記憶が蘇る。


『美術館に行くが、お前はどうする、ヨヴル?』 


休日になり自分がどこかに出かけようとする前には必ず、シュトフはクルフにそう訊ねた。ぶらりと出かけるシュトフについて、まだ10代の前半だったクルフも博物館や美術館、演奏会などに足を運んだ。


路地裏での生活から一転して、シュトフと共に暮らすようになってから、クルフはひたすら貪欲にあらゆる知識を吸収しようと努めた。

どこから手に入れてきたのか、シュトフが持ち帰ってきた学校の教科書を使って、ひとりきりになる平日の日中は独学で勉強を進めた。読み書きを覚えることから始まり、数年間かけて義務教育課程の知識を身につけると、その後は州立図書館に通って様々な分野の本を手当たり次第に読み込んだ。


不思議なことに、小綺麗な身なりをして本を小脇に抱え、堂々と顔を上げ足早に歩くクルフに、あえて絡もうとする者はいなかった。この時期に、少年のクルフは人がいかに見た目だけに判断を大きく左右されるかということも同時に学んだ。


共同生活を送る中で、シュトフはクルフに対して一度も何かを強制するということがなかった。分からないことについて質問すれば丁寧な答えが返ってくるが、後は全てクルフの自主性に任せているというような態度だった。


契約なのだと、クルフはそう理解していた。


『お前がもし私の望む役割を果たし、成果をあげ続けることができるなら、私は混血児であるお前を庇護しよう』


初めて会った時に言われた言葉。それが、その後の彼の行動指針のすべてとなった。


生きるために、契約は確実に履行する。そのための努力を惜しむことはない。

そしてそれは、今も同じだった。 


膝の上に広げられた画集の見開きには、古い時代の宗教画が載っていた。手を差し伸べる天使と、その足元に蹲る罪人の姿に目を当てながらも、クルフの意識はその絵を通り抜け、少年だった頃の自分に注がれていた。その時の固い決意を、今また、新たにする。


失敗はあり得ない――この男には、必ず自白してもらう。


ベッドを見やると、瀕死の捕虜は荒い息の下で繰り返しひとつの名前を呼んでいた。

それがリーベンの荷物の中にあった手紙の差出人の名であることに、クルフはすぐに思い至った。


「……すまない、ジーナ……。もう……頼む……。ああ……ティム……。そう、こっちだ、ほら……」


その言葉すべてをはっきりと聞き取ることはできなかったが、リーベンがしきりに妻と子の名を呼び、語りかけていることは分かった。点滴の管に繋がれ、上掛けの上に置かれた傷だらけの手が、何かを求めて握りしめようとするかのように時折痙攣した。閉じられている両の目尻から、涙が筋になって伝い落ちていた。

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