第33話 休息
目を開けたリーベンは、薄暗い空間に視線を漂わせた。
まだ、生きているのか……。
確かめるように胸の中で呟いた。体がだるく、あちこちが痛い。だがそれがかえって、命があることを実感させる。
……ここはどこだろう――。
地下の独房でない事はすぐに分かった。清潔で、暖かい場所――彼は自分が寒さに震えていないことに気がついた。頬に感じる空気にも冷たさはない。
見ると、体には綿入りの暖かな布団が掛けられている。一人で使うには広すぎる大きさの、立派なベッドに寝ているのだ。
考えもしなかった状況に困惑して、そろそろと頭を巡らせて辺りを見回した。腫れている瞼のせいで極端に視界が狭かったが、それでも様子は窺える。自分の寝かされている部屋が、華美に過ぎることなく品よく
ゆったりとした広さのある部屋のようだった。窓には繊細な模様が織り込まれた厚手のカーテンが引かれている。ベッドから少し離れたところには小ぶりの丸テーブルと椅子が置かれ、壁際には美しい彫刻を施したチェストが並んでいる。その上のスタンドライトからは、乳白色のシェードを通して仄かな光が壁の一角を淡く照らしていた。足元の方は窺えないが、恐らく暖炉があるのだろう。乾いた薪の燃えるにおいが部屋を満たしている。時折、ぱちぱちと薪が爆ぜる小さな音も聞こえた。
――ここはどこだ。
体を起こそうとして、思わず声を上げた。体中が一斉に悲鳴を上げたように激痛が走ったのだ。
しばらく息を詰めてじっと耐えていたが、ようやく痛みが落ち着いてくると、左腕に点滴の管が繋がれているのが目に入った。自分の体に手当てがしてあるのを見て、訳が分からず混乱した。おずおずと、ほんの僅かな希望が生まれる。
その時、足元の方で不意に人の気配があった。
反射的にぎくりとして体が硬直する。視界に現れたのはクルフだった。リーベンは失望と落胆の色を隠せなかったに違いない。
立ったまま、唇の端に苦笑を浮かべてクルフが言った。
「残念ですが、ここはあなたの国ではありません」
クルフはワイシャツに制服のズボンだけのくつろいだ格好だった。どうやらベッドの向こうに置かれた長椅子で横になっていたようだった。両肩をほぐすように軽く回すと、着崩れた襟元を正し、額にかかった前髪を後ろに撫でつけた。
「どういうつもりだ」
リーベンは、うっかりすると熱のために朦朧となりそうになる頭をなんとか働かせ、そう訊ねた。
「衰弱が激しかったので、こちらに移しました。しばらくはここで休んでいただきます」
『しばらくは』――その言葉にリーベンは押し黙った。
彼らは決して自白を得ることを諦めたわけではない。体力が回復すれば、また地下に戻され容赦のない追及を受けることになるのだろう……。
そう考えると、体の痛みを急にはっきりと感じ始めた。地下で受けた苦痛や恐怖がまざまざと蘇り、思わず声が漏れそうになる。リーベンは自分を落ち着かせようと、とっさに目を閉じ小さく喘いだ。
大丈夫だ、今まで耐えられたんだ。この後だって同じように
彼ははっと目を開けた。踵を返して部屋を出ようとしていたクルフを呼び止める。
「バートは……ダルトン軍曹は」
半ば振り返ったままで、クルフが答えた。
「ご心配なく。あなたのことを心配しながら地下で待っていますよ」
「危害を加えていないと、誓って言えるのか?」
「ええ、誓いましょう」
その言い方はあまりに淡々として、真実味に欠けていた。だが、ここでいくら問い詰めたとしても、この尋問官の
リーベンが口を閉じたのを見て、クルフは背を向けると部屋を出て行った。
ベッドの上で横たわるしか、今のリーベンにはできなかった。痛みが体中を苛み、頭は靄がかかったようにはっきりしない。仰向けに寝かされていたので、鞭打たれた背中の裂傷が押し潰されて激痛が走る。
耐えきれず、無理にも手足に力を込めてシーツから背中を引き離し、もがくようにしてどうにか体を横向きにした。
警棒で力任せに繰り返し殴られた腕や肩が体重を受けて悲鳴を上げる。胸の火傷も、少し上体を動かしただけでも引き攣れて、神経を突き刺すように痛んだ。それでも、仰向けの時に比べればまだ何とか耐えることができた。できる限り動かず、ともすると薄れそうになる意識の中でただじっと息を詰め、痛みをこらえていた。
しばらくして、ドアを開ける音がした。びくっとして重い瞼を上げる。
「食事です」
その声に、入り口に顔を向けたリーベンは目を
枕元にその皿が置かれた。中には、根菜類がたっぷりと入り、ソーセージまで添えられた――野菜の切れ端が申し訳程度に浮かんだ、塩気ばかりが強く水っぽいスープとはまったく違う――シチューが入っていた。
リーベンは思わずクルフを見上げた。
これは何かの懐柔策だろうか――それとも、口にした途端、また激しい暴行を受けるのではないか?
クルフの真意が分からず、リーベンの中で様々な憶測が巡る。
戸惑うリーベンの視線を受けて、クルフは表情を変えずに言った。
「召し上がらないのであれば下げますが――士官学校で、食べられるときには食べておけと習いませんでしたか?」
そう言われ、リーベンは起き上がろうともう一度手足に力を込めてみたが、思うように動かすことはできそうになかった。
仕方なく、体を横にしたままの姿勢で枕元に置かれた皿に手を伸ばす。固い軍靴の底で酷く踏みにじられた指はまだ十分に動かせず、幼い子どものように不器用にスプーンを握った。
湯気のたつシチューをそっと口に運ぶ。まともな、しかも温かな食事を口にできることが信じられなかった。思わず体が震えた。空の胃が燃えるように温まっていく。
だが、二、三度スプーンを口に運ぶと、それだけでもう疲れ果て、食事の手を止めてぐったりとベッドに体を沈めた。たったこれだけの動作でも数分と続けられないことに、自分がどれほど衰弱してしまったのか改めて思い知らされる。
ベッドの傍らに立ってその様子を見下ろしていたクルフが、不意に皿を取り上げた。食べる気がないと判断して皿を下げるつもりなのかと思いきや、そうではなかった。
クルフは黙ったまま、柔らかく煮てある野菜をスプーンの背で潰してスープと混ぜると、それを掬い取ってリーベンの前に突き出した。
想像もしない行為だった――リーベンは虚を突かれて再びクルフを見つめた。
「さあ」
クルフは無表情でリーベンを促した。
リーベンは戸惑いを隠せないまま、クルフの手で繰り返し運ばれるシチューを口にした。クルフがまだゆっくりとしか食事を摂れないリーベンに合わせてスプーンを運んでいることが何となく伝わってきた。
体の芯から冷え切っている手足の先の方へ、染み入るようにじんわりと体温が戻ってゆくのを感じる。食事で満たされて温まった体は休息を求めていた。抗いがたい眠気を覚えた。
「ありがとう。美味しかった、本当に……」
リーベンは重い眠りに意識を手放す前に、どうしてもクルフに伝えておきたいことがあった。ふっと眠り込んでしまいそうになる中で、なんとか言葉を続ける。
「一つ頼みがある……ダルトン軍曹にも、食事を……。あいつも、何も食べてない……頼む……」
そもそも無理な依頼であることはリーベンにも分かっていた。捕虜の頼みを聞き入れてもらえると期待する方が間違っている。だが、それでも言わずにはいられなかった。
懇願の言葉を口にしながら、リーベンは耐え切れずに眠りに落ちた。
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