第5話 決断
暗く、ぼんやりと空を覆う雲から絶え間なく粉雪が舞い落ち、しんしんと降り積もっていた。
急峻な起伏が続くズノーシャ丘陵の大地はどこまでも白い世界に変わり、点在する黒々とした森は灰色に塗り変えられている。厚く降り積もった雪は、それ自体がぼんやりと発光しているかのように夜の闇を薄めていた。
その静謐な世界が、今や凄絶な戦闘地帯と化していた。
銃弾に吹き飛ばされた木々の破片や抉り飛ばされた泥と雪が、混ぜこぜになって降り注ぐ。迫撃砲の直撃で幹を撃ち抜かれた大木が、軋むような悲痛な音を立てて倒れかかってくる。耳を聾する銃声と怒号、そして負傷者の呻き声。
そんな状況の真っ只中で、リーベンは神経を張り詰めていた。
彼の第1中隊は丘と丘の間の窪地を突き進んでいた。両側の斜面にそれぞれ第2、第3中隊が展開し、第1中隊が突破するのを援護しつつ北進する。
ところが、3マイルほど進んだところで、リーベンは状況の変化にいち早く気付いた。
おかしい――。
正面からの攻撃に加えて、左翼からも銃撃を受けている。
強力な火力に前進を阻まれているのか、左翼を護るはずの第2中隊が追いついて来ていないのだ。そのせいで、窪地を進む第1中隊は、2方向から集中砲火を浴びていた。
応戦する部下達の間に容赦なく着弾する迫撃砲。激しい破裂音と閃光。爆風が強烈に体をあおり、いくつもの銃弾が甲高い音を立てて耳元をかすめてゆく。すぐ近くの部下が次々に血を噴き出して倒れる。負傷した仲間を助けようと身を屈めて駆け寄った兵士達が、必死に衛生兵を呼ばわる叫び声。
リーベンは少し離れた掩蔽に身を隠しながら銃撃を繰り返している通信手のバウマンに届くように大声で怒鳴った。
「第2中隊長に状況を確認しろ!」
相手の戦力を見極めようと前方を注視する。だが、降りしきる雪のために視界がけむり、夜の暗さも加わって遠目が利かない。
リーベンが背にしている積み上げられた丸太にも、バチバチと音を立てて銃弾がめりこんでいる。
兵士達は迫撃砲の着弾でできた穴の中に身を隠しながら何とか前進を試みようとしているが、激しい銃撃と、着弾の熱で溶けた雪と泥でひどくぬかるむ地面を相手に、思うように進むことができない。
「中隊長!」
バウマンが叫んだ。
「応答がありません!」
「それなら誰でもいい、第2中隊の小隊長を呼び出せ!」
バウマンは無線機に向かってしばらく必死に呼びかけていたが、顔を上げてリーベンを見ると絶望的な表情で首を横に振った。
リーベンは奥歯をきつく噛み締めた。
まずい――ほぼ間違いなく、左翼の第2中隊は撃滅されている。このまま強引に進もうとすれば犠牲だけが増える。この先あと10マイルをこの戦力で突破するのは無理だ。ぐずぐずしていれば背後にも回りこまれる――。
バウマンの無線から、こちらを呼び出す第3中隊長フォグスターの切羽詰った声が切れ切れに聞こえてきた。バウマンの元に向かおうと、身を屈めて丸太の陰から飛び出した時だった。
バシッという音と同時に、強い力で激しく叩かれたような衝撃を下半身に感じた。左足に焼けるような熱感が走る。足がもつれ、体がのめって雪の中に倒れ込んだ。
「中隊長!」
バウマンが飛び出してきて、倒れたリーベンを抱きかかえようとする。リーベンはそれを制して叫んだ。
「無線を貸せ!」
二人は頭上を銃弾が飛び交う中で、遮蔽物もなく雪の中に突っ伏した。応答すると、フォグスターが無線機の向こうから叫んだ。
『正面と右翼からの砲撃に阻まれて、これ以上前進できません!』
リーベンは歯を食いしばり、激烈な様相を呈している周囲に忙しなく目を配りながら決断した。声を張り上げてフォグスターに応答する。
「こちらも2方向から集中砲火を浴びている。左翼は崩れた。突破は無理だ。囲まれる前に退却させる!」
『了解!』
フォグスターとの交信を切ると、すぐさま自分の中隊指揮系統の無線を取った。
「中隊長より全小隊へ。2小隊以下、速やかに退却! 1小隊は援護にまわれ――ブラニング、10分でいい、持ちこたえろ!」
即座に動きが変わった。友軍の兵士達が可能な限りの速さで退却を始める。長い十数分間が過ぎた。退却の指示を受けた小隊長から無線が入る。
『2小隊長より中隊長へ。3個小隊は
「よし」とリーベンは呟き、すぐさま無線機に怒鳴った。
「1小隊は直ちに退却開始!――全小隊長へ、以後の指揮は先任小隊長が執れ。繰り返す、以後の指揮は先任小隊長が執れ!」
それだけ指示を出すとリーベンは無線を切り、傍らにいるバウマンの肩を押した。
「ここはもういい、お前も早く行け!」
「だめです、中隊長!」
バウマンがリーベンの腕を自分の肩にまわし、引っ張り上げようとする。
「俺は大丈夫だ、早く行け! すぐに囲まれるぞ!」
そう言われてもバウマンは諦めなかった。リーベンを抱えて立ち上がろうとする。
その時、耳元で弾けるような音がした。二人は再び倒れこんだ。細かい血飛沫が降りかかる。
「大丈夫か!?――」
体を起こしながら振り返ったリーベンは、ヘルメットに開いた穴から血を吹き出して既に絶命しているバウマンの姿を見た。思わず歯軋りする。
手にしていた拳銃を腰に戻すと腹這いになり、バウマンが持っていた小銃を引き寄せた。左の太腿に受けた銃創が焼け付くように痛み始めている。目の端で傷の程度を確認する。破れた戦闘服の布地は血を含んでべっとりと腿に張り付き、流れ出す血は雪を溶かしながら赤黒い染みを広げていた。
リーベンは歯を噛みしめ、敵の銃弾が絶え間なく発射される彼方の塹壕に向けて立て続けに引き金を引いた。
僅かな間で空になった弾倉を交換しざま、振り返って自軍の状況を確認する。飛び交う銃弾の中を1小隊の兵士達が雪原の窪みに身を隠しながら走り去って行く。
早く行け、早く、早く……!
祈るような気持ちで呟いていたリーベンの目が、予想もしなかった事態に見開かれた。
退却する兵士達の間を縫うようにして、一人の兵士が身を屈めながら猛然とこちらに向かって走り寄ってくる。そのヘルメットには赤い十字のマークが大きく描かれている。
大柄な衛生兵、あれは――。
「何やってる! どうして戻ってきた!」
リーベンは思わず声を荒げていた。
雪と泥水を跳ね上げて駆け寄ってきたのはダルトンだった。その勢いのまま倒れているリーベンを脇に抱え込むと、一番近い掩蔽に飛び込んだ。そして息つく間もなく自分の雑嚢から止血帯と消毒薬を取り出し、手早く傷の手当てを始めながら、さも当然という口ぶりで答えた。
「一緒に帰る約束だろ」
リーベンは苦虫を噛み潰したように唸った。
「お前はまた、考えなしに行動して……!」
「今更言うなよ、昔から分かってただろ? 第一な――」
分厚いガーゼを傷口に押し当て、ダルトンは包帯をきつく巻きつけた。
「怪我したお前を置いて逃げられるわけない」
なぜ負傷したことが分かったのかと、リーベンは一瞬訝しげな表情を浮かべた。
ダルトンはいたずらっ子のようなその黒い瞳を上げると、得意気にニッと笑った。
「たまたま最後の無線を聞いてな、ピンときた」
そう言うと、一息にリーベンを肩に担ぎ上げた。
「行くぞ」
二人は掩蔽を飛び出した。雪と泥に足を取られそうになりながら、ダルトンは遮二無二走った。
タタタ……という背後からの乾いた音がいくつも重なり、同時に足元の雪と土が爆ぜる。ダルトンは何度か足を止めかけたが、すぐに勢いを取り戻して走り出す。続いて数発の銃弾が二人のすぐ脇を掠め飛んで行った。それが前方から発射されたものだと、一瞬の感覚でリーベンは悟った。
ダルトンはついに立ち止まった。
二人は、自分達を確実に狙っているいくつもの銃口の気配に息を呑んだ。
囲まれた――。
背中を冷たい汗が伝ってゆく。
降りしきる雪に霞む木々の間から、幾つもの人影が湧き出るように現れる。前からも、そして後ろからも。
「くそっ……」
ダルトンが呟くのが聞こえた。もはや逃れる術はなかった。リーベンはダルトンに、自分を下ろすように促した。
銃を構えて次第に近づいてくる何人もの敵兵に向かって、二人は観念してゆっくりと両手を挙げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます