第4話 信頼と敬愛と
外は吹雪になっていた。
しかし、ここだけは常に変わらぬ熱気でむせ返るようだった。
駐屯地の一角にある酒場の中はタバコでけむり、何種類ものアルコールと料理のにおいが混ぜこぜになって鼻を刺激し、大声で騒ぐ兵士達の声が絶え間なくあちこちで飛び交っていた。
「よお! また会えて何よりだ――嫁さんから手紙は来たか?――こんど奢れよな!」
知った顔を見るたびに、お互い軽口を叩きながら無事を喜び合う。
そんな馴染みの喧騒の中、リーベンの中隊の兵士達はグラスを片手に一人の娘を囲んで盛り上がっていた。彼らが任務に就いている間に新しく来ていた娘――と言っても、本国でそれなりに経験を積んでいる酒場の女ではあるが――だ。
ロレーヌという名のその娘を取り囲んで、ほどよく酔いも回ってきている男達は、彼女の気を引こうと下世話な話を始めたり、自分達の武勇伝に多少の色をつけて吹聴したりしている。
ダルトンは、ロレーヌの周りにできた人垣に混じって男達が騒ぎ立てる様子を楽しく眺めながらも、ちらちらと酒場の入り口を気にしていた。
遅えな、デイヴ。先に潰れちまうぞ――。
ロレーヌはカウンターに身をもたせかけ、男達の話に耳を貸しながら酒を用意していたが、唐突にダルトンの前にウイスキーがなみなみと注がれた新しいグラスを差し出した。濃くアイシャドーを塗った目に含み笑いを浮かべて言う。
「軍曹さん、お代わりをどうぞ――さっきから気もそぞろのようだけど、誰かお目当ての
「え? ああ、いいや――俺達の中隊長も来るはずなんだけどな」
呟くようにそう言って、ダルトンは再び入り口に目を向ける。
つられるように周りの人間も目を転じた。
「そう言えば、遅いですね」
「途中で寄り道してたりな」
意味ありげな発言は、しかし、たちまち周りから却下される。
「ありえねえよ。仕事だ、仕事」
「真面目な人だからなあ」
そんなやり取りから始まって、話は自分達の敬愛する中隊長の話題に変わった。よその中隊長とは違う、と第1中隊の男達は得意気に胸を張る。
暫く経ってからようやく、くすんだ焦茶色の髪の、幾分小柄な姿が酒場の入り口に現れた。ダルトンはリーベンに見えるように伸び上がって手を振った。
「デイヴ、ここだ、ここだ!」
「悪い、待たせたな」
上着を脱ぎながら急ぎ足でやってきたリーベンは、すぐさま彼の部下達に腕を取られ、陽気で賑やかな円陣の中に連れ込まれた。
「中隊長、中隊長!」
既にアルコールが回っている男達は、浮かれた気安さでリーベンに呼びかける。
「俺達が出かけてる間に新しい
「ロレーヌです。初めまして、中隊長さん」
そう言ってロレーヌはリーベンに微笑みかけた。
「何にします?」
「ビールを――軽めので」
二人の何気ないやり取りを見ていたダルトンは、ふと目を見張った。リーベンを見るロレーヌの目に、好奇心と好意が入り混じった光が閃いたのを認めたのだ。
デイヴのやつ、どうするだろう?――思わずニヤリとして、高みの見物を決め込む。
リーベンはロレーヌの感情には全く気付いていないようだった。彼女から濃い赤褐色のビールの入ったグラスを渡され、「さっきまで皆さんから少佐のお話を聞いていたんですよ」という言葉を聞くと、苦笑して言った。
「そのほとんどは愚痴かな?」
「とんでもない」
ロレーヌは形良く整えられた眉を引き上げた。
「とても部下思いで愛情があって、どこまでもついて行きたいって」
「みんな、随分とまわりくどくおべっかを使うな。言いたいなら俺に直接言ってこいよ!」
リーベンは笑いながら周りの男たちを軽く睨む。するとすかさず、
「それじゃ、遠慮なく――中隊長、愛してます!」
呂律の怪しくなった陽気な声が上がる。隊で一番のお調子者のパウター上等兵だ。仲間たちも悪乗りして口々に愛の言葉を叫び始めた。
リーベンは「しまった」という表情で、慌てて大きく手を振った。
「もう分かった、分かったから! みんなありがとう、光栄だよ!」
横で様子を見ていたロレーヌが笑い声を上げた。
「本当に部下の皆さんに慕われているんですね。それだけ勇敢で頼りがいがあるってことなんでしょうね。中隊長さん、ご存じかしら――男の評価は男に訊け、って。それも、部下や後輩からの評判が一番間違いないものなんだそうですよ」
ふっとロレーヌが声を潜めた。その体が徐々にリーベンに近づく。間を詰められたリーベンはさり気なく
「――ぜひお近づきになりたいものだわ」
ロレーヌの手がリーベンの腕に触れたとき、リーベンはぎょっとしたようにあからさまに身を引いた。
「申し訳ないが……俺は結婚していて子どももいる」
「ええ。そんなこと、指輪を見れば」
ロレーヌはさっと腕を捉えて豊満な体を押し付けると、動揺して強張ってる相手の頬を官能的に指でなぞった。
リーベンは後ずさり、何度も唾を飲み込みながら必死に言葉を探している。
「いや……とにかく俺は、何より妻を……妻を愛しているんだ」
うろたえて言葉をつかえながら、何とかロレーヌを引き放そうとするが、彼女は目に熱を帯びてますますリーベンに迫ってくる。
「話のとおり、誠実な方ね。大丈夫、本気になってほしいなんて言わないから。一晩だけでも一緒に付き合っていただけたら。もちろん、ベッドの中でね」
「……!」
こんな時、気の利いた言葉も言えず、うまくかわす術も知らないリーベンは、とうとう耳まで赤くなって絶句してしまった。
周りを囲んでいた男達は、生真面目で堅物の上官が女に言い寄られて狼狽している様を互いにニヤニヤと目配せしながら面白そうに見守っていたが、ついに堪えきれなくなったように一斉に吹き出した。
「中隊長! 顔が真っ赤ですよ!」
「普段の姿からは考えられないよな!」
「ほんとウブですよねぇ!」
部下達が口々に囃し立てる。
「お前たち、からかうな!」
リーベンはしどろもどろになりながら躍起になってこの騒ぎを収めようとしている。
ダルトンは皆と一緒になって笑いながらも、どこか誇らしい気分で目の前の様子を眺めていた。
普通であれば、士官と下士官以下の人間が共に酒を酌み交わすことなど滅多にない。下の者は酒の席で上官に気を遣わなければならないことを嫌う。
だが、この第1中隊の兵士達は違った。特にこうして酒が入った場面では殊更、自分達からリーベンに親しげに声をかけ、リーベンもごく自然に彼らに接している。彼らはリーベンに対して「中隊長」という役職名を、限りない尊敬と敬愛の念を込めて呼んでいるのだった。
ダルトンにとっては、自分の同期で、今は上官でもある一番の親友がこうしてその部下達に慕われているのを見ると、素直に嬉しく思うのだった。
ダルトンは意地悪く傍観するのを中止して、ようやくリーベンに助け舟を出した。笑いを堪えながら円陣の中に割って入る。
「ほらほら、中隊長が困ってるじゃないか。このへんで勘弁してやってくれよ」
そう言って仲間達をなだめ、リーベンを人垣の外へ引っ張り出した。
リーベンとダルトンの仲を知っている中隊の隊員たちは、騒ぎ立てながらもようやくリーベンを解放した。
二人は酒場の奥のほうに空いたテーブルを見つけ、席を占めた。腰を下ろすと、リーベンはぐったりしたように大きく息を吐き出した。
「ここに来てどっと疲れたよ――どうもああいうのは苦手だ」
「彼女、あからさまにお前を口説いてたな。あながち冗談でもなさそうだったぞ」
ダルトンは、まだこちらを見ているロレーヌの姿をリーベンの肩越しに見やってそう言った。ついつい笑いがこみ上げてくる。
「お前までからかうなよ」
仏頂面でリーベンが睨む。ダルトンは「悪い悪い」と軽く両手を掲げて見せ、わざとらしく咳払いをした。
「ずいぶん遅かったじゃねえか。何か問題でもあったのか?」
「いや、そういう訳じゃないが、ちょっと厄介な件でね」
リーベンはようやく平静を取り戻した様子でグラスに口をつけたが、その顔には――先の騒ぎのためだけではない――幾らかの疲労が見て取れた。数週間にわたる戦闘地域での行動では気を張り詰め、ようやく帰営してからも休む間もなくこの時間まで足止めされていては、それも当然のことと思われた。
現場の最高指揮官としての責任の重みを、一下士官のダルトンが実感できる由もない。また、リーベンもその苦労を決して表に出すことはなかった。そのためになおさらダルトンは、寡黙で忍耐強いリーベンを常に気遣っていた。
「あんまり無理すんなよ」
言っても仕方のないこととは分かっていても、つい口をついて出てしまう。
「ああ。大丈夫だよ」
リーベンはダルトンの言葉に微笑んで頷いた。
ビールを二杯空け、ウイスキーに移る頃になって、ようやくリーベンの表情もほぐれてきたように見えた。
「マリアさんから手紙は届いてたか?」
リーベンがからかうような笑みをその目元に浮かべて、そう訊ねてきた。
「ああ、もちろん!」
ダルトンは左胸のポケットを叩いた。そこには新婚の妻からの何よりも大切な手紙が入っている。
「読むか?」
リーベンは笑って手を振った。
「いいよ。読んでるこっちが気恥ずかしくなりそうだから」
ダルトンは、親友に自慢の妻からの手紙を読んで聞かせられないのを若干残念に思いながらも、身を乗り出して急き込むように言った。
「早くおまえに、俺の最愛のマリアを紹介したいよ。マリアもおまえに会いたがってるんだ。国に帰ったら、俺のところとおまえの家族で一緒にバーベキューをやろうな。なあ、デイヴ、俺達絶対に一緒に帰るからな!」
「絶対に一緒に帰る」――それは、戦地で再会した時に交わした、お互いの無事を信じての固い約束だった。
ダルトンにとって、リーベンは同期であると同時に、兄にも似た頼りがいのある、かけがえのない存在だった。
軍に入隊し、初めて親元を離れての厳しい集団生活は、今まで大した苦労もせずに育ってきたダルトンにとって戸惑うことばかりだった。大雑把で、深く考えずに行動に移ってしまう性格が災いして、ベッドの整頓ひとつとってもきっちりとこなせない。靴を磨くにも、銃の手入れをするにも、必ずやり直しを命じられ、結果、何をするにも人より時間がかかった。作業が遅れると、連帯責任として同部屋の同期にも罰が課せられる。己の不甲斐なさと同期に対する申し訳なさに、身の縮む思いで毎日を送っていたダルトンをいつも支えてくれたのが、同部屋の8人のうちのひとりだったリーベンだった。
『大丈夫だ、バート。落ち着いてやればうまくいく。まずは周りをよく観察するんだ。どうすればうまくいくのか、どう動けば効率よくやれるのか、できる人間から学ぶんだ。学び取ったら、後はひたすら練習する。そうすれば、必ず結果はついてくる』
そう言って、リーベンはダルトンを引っ張り続けてくれた。
ダルトンだけではない。体力に劣っていたり、要領が悪かったり、不器用だったりして皆の足を引っ張るような厄介者に、リーベンは必ず声をかけ、励まし、さりげなく支えていたのだった。
そんなリーベンが士官学校を目指し、数年後にダルトンの所属する中隊に新任の小隊長として転属してきた時、共に過ごした期間に目にしていたその姿から、ダルトンはリーベンの指揮官としての素質を信じて疑いもしなかった。
だが、小隊の隊員たちは違った。若く経験のない小隊長に命を預けることに、不安の声が漏れていた。最前線に身を置く兵士たちは、自分たちの命運を左右する新しい指揮官を、警戒と疑いの眼差しで迎える。実戦経験がないために初めての戦闘で動揺し、無謀な命令を下して小隊が全滅したという話は決して珍しいものではなかったからだ。
衛生兵として中隊に配属されていたダルトンには、兵士たちの声が直に聞こえる。だが、小隊の一員でもない一下士官の立場では、小隊長としてのリーベンの所作を見守るしかなかった。
しかし、ダルトンの心配は杞憂だった。
着任当日、リーベンは小隊の最古参である先任曹長を呼んでこう告げたという。
『自分は最前線での経験はここが初めてとなる。君たちがそれを不安に感じているのは承知している。だからまずはここでのやり方を見せてもらいたい。一通り把握してから、君たちの命を預かろうと思う』
小隊長として虚勢を張ることのないリーベンの率直な言葉に、その曹長は当初の懸念をあっさりと捨て、若い小隊長を育てる役目を自ら引き受けたということだった。
経験を積むことで、戦闘時におけるリーベンの的確な指示と判断力は確立されていった。それに加えて、自ら先頭に立って進む行動力、部下への愛情、そして何よりリーベンの温厚で誠実な人柄が、月日を経ずに隊員達の信頼を得ていった。
しかしダルトンは、周りの人間が気づかないところでリーベンがどれだけ努力しているのかも知っていた。新兵時代、他の同期が休養日に外出して羽を伸ばしている時にも、リーベンだけはひとり黙々と鍛錬を続けていたように――。
「俺は、どんなところだっておまえについていくぞ。おまえは最高の指揮官だ。俺の誇りだよ。同期として誇りに思ってる! おまえになら安心して自分の命を預けられる! 分かるか、デイヴ? 俺が――俺たちが、どんなにおまえのことを信頼しているか……」
ダルトンは心地よい酔いに思考を任せながら、目の前の親友に向かって力説し続けた。
リーベンの穏やかな焦茶色の瞳は、「やれやれ、また始まったぞ」という苦笑いを浮かべてダルトンに向けられている。しかしそれは、いつまでも続くこどもの他愛ないおしゃべりに根気良く耳を傾ける親のような、温かい眼差しだった。呂律が回らなくなっても、ダルトンは気分良くしゃべり続けた。
そうやってしばらくリーベンに絡んでいたが、じきに瞼は上がらなくなり、そのままテーブルに突っ伏して寝てしまった。呑み過ぎて行き倒れても、頼りがいのある親友が兵舎まで連れて行ってくれることは分かっているので、いつも心置きなく酔っ払うことができるのだった。
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