第3話 木彫りの小鳥

リーベンは重苦しい気持ちでキースの部屋を辞した。


次の作戦で、自分達が言わば「捨て駒」となることは分かっていた。運良くズノーシャの丘陵を攻略できれば、利を得たものとして大規模な部隊を北上させることができる。仮に失敗したとしても、戦闘によって詳細が判明する敵部隊の火力をもとに、参謀たちは新たな作戦を練り直すことができる。


ここ中部戦線における長年に亘る戦況の膠着状態を覆すべく、何らかの戦果を挙げようと司令部も切羽詰っている状況が推し量られた。

その結果練られた作戦がどんなに理不尽なものであったとしても――リーベンは胸の内で自分自身に言い聞かせた――いったんその命令が下されれば、最善を尽くして遂行しなければならない。任務の達成のために、そして何より、自分に従う部下たちの命を守るために。


腕時計を見ると、既に2時を少し過ぎた頃だった。食堂での食事は諦め、居室へと向かう。

何週間も不在だったために簡素な部屋はすっかり冷え切っていた。重い背嚢を下ろし、ストーブに火を入れる。


ドアがノックされた。

入ってきたのはリーベンの中隊で1小隊長を務めるブラニング中尉だった。ブラニングは手に持った飯盒と紙包みを差し出して言った。


「中隊長、食事をお持ちしました」


身を屈めてストーブの火を調節していたリーベンは、驚いて体を起こした。


「ありがたい。缶詰を開けようかと思っていたところだった」

「大隊長の所に行かれたのを見て長くかかるだろうと思いまして、炊事班に頼んでおきました――駐屯地に帰ってきた時くらいはうまいものを食べてくださいよ」


ブラニングは笑って言った。

4人の小隊長の中では最先任となる彼は、平時であっても戦闘時であっても細かいことに目を配って動くことのできる、リーベンにとっては心強い存在だった。


飯盒を受け取ると、まだ温かい容器のぬくもりがかじかんだ手のひらに伝わってきた。湯気の立つ食事は何日ぶりだっただろうか。リーベンはほっと息をついて笑顔を見せた。


「ありがとう。助かるよ」

「それから、お手紙も」


渡された封筒は角が折れて全体が少し皺になっていた。差出人がどんなに気を遣ってきれいに手紙を仕上げても、国許からここまでの長旅によって、すっかりくたびれた様子になってしまうのだった。


封筒には見慣れた筆跡で丁寧に宛先が書かれていた。その下に、『デイヴィット・リーベンさま』と、大きさも不揃いでたどたどしさの残る文字が並んでいる。思わず彼は笑みを浮かべた。


「息子さん、ずいぶん字が上手になりましたね」


自らも妻子持ちのブラニングも、リーベンにつられるように穏やかに微笑んで言った。


「時間の経過を感じます。今、いくつでしたか?」

「来月で6歳になる。もうすぐ学校だ」

「子どもの成長は本当に早いですね」


感慨深そうなブラニングの言葉にリーベンも頷いた。ここリッコフの戦線に配属されたとき、息子のティムはまだ生まれたばかりだった。


一時感傷に浸っていたリーベンは、手元の封筒から目を上げると表情を引き締めた。ブラニングも姿勢を正す。


「中尉、皆疲れているとは思うが、15時に各小隊長を集めてくれ。次の作戦行動を説明する」

「了解しました」


ブラニングが出て行って程なくして、再びドアがノックされた。

リーベンが返事をすると、「入ります!」と大声が聞こえ、勢いよくドアが開いた。衛生兵のダルトンの大きな体が立っていた。寒風の中を歩いてきたせいで、頬と鼻の頭が赤くなっている。癖のある黒い髪も、風に煽られてずいぶん乱れていた。


ダルトンは、上級の者の部屋を訪れる際の慣例どおりに畏まって部屋に入ってきたが、扉を閉めてしまうとまるで自分の居室のように遠慮なく部屋を横切り、つい先ほどリーベンが点けたばかりのストーブの脇に椅子を引き寄せて、そこにどっかりと腰を下ろした。


「うう、さみい」


ダルトンは背を丸めるようしてストーブの火に手をかざし、しきりに擦り合わせている。


リーベンとダルトンは入隊時の同期だった。過酷で理不尽な訓練期間の約半年、寝食を共にし、苦しいときには励ましあい、困難を乗り切ってきた仲だった。親兄弟とはまた違う、親密な関係が同期の間には存在する。


しかし、一兵卒を数年間経験した後に改めて士官の道を目指したリーベンに、同期の多くは距離をとるようになった。同期であった仲間が自分たちの上官となる状況で、それも致し方ないことではあった。

だが、そんな中でダルトンは、気兼ねのない状況の時には昔と変わらぬ態度で接してくる。リーベンにとって無二の親友だった。


「おお、寒い。一気に冷え込んできたな」

「雪が降り始めたからな――もう片付けは済んだのか、バート?」


リーベンは自分の背嚢から装備品を取り出して整理しながら、ダルトンに訊ねた。


「もうすっかり終わったさ。久々にシャワーも浴びてすっきりだ。だがこの寒さであっという間にまた冷えちまったけどな」


そう言って、ダルトンは温めた手で頬を擦りながら振り返りざま、リーベンの机の隅に置かれた小さな木の塊に目を留めた。椅子に座ったまま手を伸ばしてそれを取ると、感心したようにまじまじと眺めている。片手の中に納まるほどの大きさの、まだ荒削りの鳥の木彫りだ。


「随分形になってきたな」

「ああ、それか――まだまだだよ。ここしばらく手を付けられなかったから、息子の誕生日に間に合うように急いで仕上げないと」

「しかし、よくこんな細かい仕事ができるな」

「彫っているときは無心になれるから好きなんだ」


ダルトンは未完成ながらも羽を広げた姿をした鳥の木彫りを持った手を掲げて遊び始めた。「ヒュウッ」と口を鳴らして小さな鳥を旋回させたり、急降下させたりしている。そして、「ティム、喜ぶだろうな」と、まるでそれを自分がもらった時のように嬉しそうに言う。


ダルトンはしばらく童心に帰ったように遊んでいたが、ふと思い出したようにその手を止めた。


「そうだ、デイヴ。この後時間あるか?」


リーベンは部屋の時計に目をやった。


「15時から小隊長たちと打ち合わせがあるんだ」

「帰ってきても忙しいんだな」


ダルトンが眉をしかめて気の毒そうに言う。リーベンは笑って言った。


「それが俺の仕事だよ」

「な、デイヴ、今晩久々に呑みに行こうや」

「そうだな……」


リーベンは逡巡した。


「行きたいのは山々だが、打ち合わせが何時までかかるか分からないんだ」

「なあ! お前が知っているかどうか、今日は金曜なんだぜ! 長い任務の後に迎えた週末! 呑みに行かなくてどうするんだよ!」


芝居がかって両腕を広げ、大げさに叫んだダルトンに、リーベンは思わず苦笑した。


「そうだな。遅くなるかもしれないが――じゃあ、行くか」

「そう来なくちゃ!」


ニヤリと笑ってダルトンは席を立った。小さな木彫りを机の上に戻すと、置かれたままの飯盒と紙包みに目を留め、「忙しくても飯はちゃんと食っとけよ」と念を押すように言って部屋を出て行った。

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