第41話 宝石箱
「マルシャ、ちょっとお待ちよ」
朝、いつものように食事が入った二人分の皿を受け取り、調理場となっているバラックを出ようとしたイリーエナは後ろから呼び止められた。ここで働く炊事婦のソニア・ドゥラーシャだった。孫がいても不思議ではない年齢の彼女は、毎食ごとに食事を取りにくるイリーエナを娘のように思ってか、何くれとなく気にかけてくれていた。
足を止めたイリーエナは、急かされるようにしてドゥラーシャにバラックの外に押し出された。太い腰回りに巡らせた前掛けのポケットから小さな紙包みを取り出したドゥラーシャは、それを人目につかないようにイリーエナの手に握らせた。
「これ、あげるよ」
イリーエナがそっと包みを覗いてみると、中には四角く切られた小さな焼き菓子がいくつか入っていた。ところどころに綺麗についた焦げ目の間から、卵を贅沢に使っていることが分かる鮮やかな黄色の生地が見える。砂糖とバターの甘い香りがほのかに感じられた。彼女は驚いてドゥラーシャを見た。
「こんなお菓子、どうしたんですか?」
「ここの残り物で作ったんだ。大丈夫、炊事長の暗黙の了解のうちだから」
ドゥラーシャはそう言って、皺の目立つ笑顔を見せて片目をつぶると、恰幅のよい体を揺らせて慌ただしく持ち場に戻って行った。
イリーエナはドゥラーシャの手腕にすっかり感心した。この収容所の近くに住んでいるという彼女は、もう何年もここで調理作業の補助として働いていると話していた。大量の食事を作るために、この収容所では炊事場で働く女たちを何人も雇っている。軍人の炊事長がいるものの、ドゥラーシャは頼りになる古参の料理人として誰よりも存在感は大きいようだった。
片手に料理の入った籠を下げ、もう片方の手で紙包みを大切に抱えながら、イリーエナの気分は浮き立っていた。甘い菓子を食べるのは久しぶりだ。
ふと、ベッドに臥せっているリーベンのことが思い浮かんだ。
バターや卵が入っているこのお菓子を食べれば、少しは元気になるかもしれない……。
そう考えた途端、胸が高鳴り始めた。
ここに赴任した日にクルフから「看護は最低限に」と命じられていたことを思い出し、それに反することをしようと考えている自分に後ろ暗さを覚えた。
しかしその一方で、酷い傷を負って、薄暗い部屋の中で臥せっていることしかできない患者の喜ぶ姿を想像すると、イリーエナの心は抑えようもなく明るく膨らんだ。少なくともあの患者は、ここに来てからはこんな嗜好品など口にしたことはなかったはずだ。
彼女は手に下げた籠の中のスープがこぼれないように注意しつつも、気が
寝室のドアを開けると、リーベンは目を覚ましていた。いつものように入り口に体を向けて横になっている。イリーエナの姿を見ると、穏やかな笑みを浮かべて短い言葉を発した。朝の挨拶だ。
「おはようございます」
部屋に入りながら会釈を返し、朝食の入った籠をベッド脇の丸テーブルの上にいったん置く。
「食事にしましょう」
ショールと手袋をとり厚いコートを脱ぐと、彼女は上体を起こそうとしているリーベンに手を貸してやり、その背に幾つかクッションをあてがった。
膿んでいた背中の傷もようやく乾きはじめ、また、体力も徐々に戻ってきたようで、リーベンは少しの間であればあまり負担もなくベッドの上で体を起こしていられるようになっていた。
「今日は、いいものがあるんです。あなたが好きだといいけれど。これを食べればきっと力がつくと思うんです――」
彼女は椅子を引き寄せて腰掛けると、リーベンの前でそっと包み紙を広げた。とたんに甘く優しい香りが広がる。
リーベンが驚いたように目を瞠った。
「さあ、どうぞ! 遠慮しないで」
リーベンにひとつ手渡し、自分もひとつつまんだ。しっとりとして甘く、バターの香りが口いっぱいに広がる。口元が思わず
リーベンは信じ難いものでも目にしたかのように、手のひらの上の小さな焼き菓子をしばらく見つめていたが、やがて指でつまみ上げると口に入れた。噛みしめるようにして食べていたが、ほっと息をついてイリーエナを見ると、その表情を和ませて感想らしき短い言葉を口にした。
「あとは全部あなたの分です。栄養があるから、食べてください」
残りの菓子を紙包みごと渡すと、リーベンは遠慮して戸惑ったように首を横に振り、包みを返そうとする。それを押し返して強引に持たせると、彼女はリーベンにそれ以上気を遣わせないように、急いで立ち上がって食事の準備を始めた。
食事と言っても大したものではない。丸い黒パンがひとつと、脂身と豆の入った赤カブのスープに塩茹でしたジャガイモが半切れ。毎食ごとにスープの中身が辛うじて変わるくらいで、あとはほとんど変わり映えがしない。それでもごくたまに、卵が添えられていたりベーコンがつけられていたりすることがあった。
ベッド脇に寄せた丸テーブルの上にリーベンの食事を用意すると、イリーエナは思い切って自分の食事もその向かい側に並べた。
これまで彼女は暖炉の前のソファーに座って食べていた。顔を突き合わせて食べるのがどうしようもなく気まずいように感じたからだが――今はもう、無駄に気を張る必要もないように思えた。
お互いの言葉が分からないために無言で向き合って黙々と食事をとるのも味気ないので、彼女は自分の生まれ故郷の話をした。
相手に通じていないことはもちろん分かっていたが、その方がかえって気楽に話せるような気がした。看護婦として勤めてきた中で、傷病兵たちの問わず語りの相手になることはあっても、自分の話をした
「私の生まれ育った村は、ここからずっと北の方にあるんです。松やトウヒばかりが生えているこの辺りと違って、明るい白樺の森が広がっていて、村にはその皮を細工して小物を作る職人がたくさんいました。私の父もその一人でした――」
子どもの頃、彼女は毎日のように自宅脇にある工房に遊びにいった。
狭い小屋の中には、硬い表皮を取り除かれて白い杢目を見せた白樺の樹皮があちこちに積み上げられていた。曲げやすくするために樹皮を熱湯で煮るので、蒸気のためにむっとする作業場はいつも白樺特有の甘い香りで満たされていた。
山積みされた樹皮をそっと手で撫で、すべすべとして心地よい感触を楽しみながら部屋の奥へ向かうと、光の差し込む窓辺で、たくさんの工具が置かれた広い作業台に向かう父の背中が見えてくる。
寡黙な父は典型的な職人気質の人間だった。だが彼女は、そんな父親のそばにいるのが好きだった。
節くれだった手が器用に動いて、薄い樹の皮がだんだんと箱の形になってゆく。本体と蓋が出来上がると、外側の全ての面に型押しで絵をつける。その版ももちろん自作だ。父親が好んで彫り出していたのは、豊かな白樺の森に住む動物たちの姿だった。
無口で不愛想な父の手から芸術品のように繊細な箱が作り出されるのを見ていると、彼女はいつも不思議な――まるで手品でも見ているような気分になったものだった。
「10歳の誕生日に、父が自分で作った宝石箱をくれたんです。包み紙を開けた時、もう嬉しくて嬉しくて……。小さい時から、『大人になったら、あの綺麗な箱の中に指輪やネックレスをたくさん入れるんだ』って、ずっと憧れていたので――」
『マルシャ、今日からお前も女性の仲間入りだ』――いつもはあまり感情を表に出さない父が優しく微笑んで手渡してくれた宝石箱は、今まで彼女が見てきたどんな作品よりも輝いて見えた。
箱の外側には、様々な花の絵が柔らかい線で描かれていた。ユリ、アヤメ、ヒナゲシ、キキョウ――どれも、彼女が生まれた夏の庭を生き生きと彩る草花だった。
そっと蓋を開けると、中に仕込まれていたオルゴールが澄んだ音で曲を奏でた。仕切りの中には、色の違う白樺の皮を細かく切り抜いて重ね、花のような模様を描き出したペンダントが入っていた。
その父親も、彼女が13歳のときに軍隊に徴収され、5年前に無事を知らせる手紙が届いたのを最後に、今は安否さえも分からない。
「今、大人になって、そこに入れようと思っていた宝石とは無縁の生活ですけど、父からもらったその宝石箱が、私には何よりも大切な宝物なんです。だから、荷物になるのは分かっていても、どこに行くにも一緒に持って行かないと落ち着かなくて。ここに来るにも、やっぱりトランクに入れてきてしまいました」
スープをゆっくりとかき混ぜながら目を上げて、イリーエナはリーベンに笑いかけた。
当然言葉は分からないのだろうが、リーベンは慎重にスプーンを口に運びながら彼女の話にじっと耳を傾けている。温厚な笑みを浮かべた深い焦げ茶色の瞳が、相槌を打つように彼女に向けられた。
――この人は、どうしてこんなに静かな眼差しをしているのだろう……。
イリーエナは知らず知らずのうちに、自分たちとはまったく違う色をした瞳に見入っていた。そして、看護する中で漠然と抱いていた違和感を改めて意識する。
体を起こすこともできなくなるほどの酷い扱いを受けてきたのであれば、恐れや怒り、敵愾心などが意識に強く擦り込まれることだろう。だが、目の前の男の表情にそういった負の感情は見つけられなかった。
しかし、だからと言って、強靭な精神力で難なく苦境を凌いできたのだとも思えなかった。時折、リーベンが虚ろな目で放心したように宙を見つめている時があることに、彼女は気づいていた。
無意識のうちに、気持ちを抑え込んでいるのかもしれない――そう感じて、彼女は哀しくなった。
心身のどちらであっても、自分が受け止められる限度を遥かに超えた苦痛に晒されると、人は心が壊れるのを防ぐために感覚を閉ざすことがある。そしてまるで何もなかったかのように振る舞い続ける。だが、ふとした拍子に過去の体験の記憶が一気にあふれ出すと、抗う術もなく心が押しつぶされてしまう――イリーエナは、そんな帰還兵を何人も見てきた。
彼女の胸に、たった今話して聞かせた父親の宝石箱が思い浮かんだ。
――あれをここに持ってきたらどうだろう。日中でもカーテンを閉め切った、薄暗くて気が滅入りそうな部屋の中でベッドにいることしかできないこの人には、オルゴールの音がほんの僅かでも慰めになるかもしれない。
怪我の癒えないぎこちない手つきでパンをちぎろうとしているリーベンを見ながら、イリーエナはこの捕虜の気持ちが少しでも楽になればと願うのだった。
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