第42話 腹立たしい相手

昼下がりの午後、クルフはサバルディクのいる副官室で中央情報局からの電話を受けていた。受話器の向こうでは、クルフの直属の上官である第一情報部長のトゥベツが早口でまくしたてている。


「――ええ、状況は分かっています。もちろん全力で尋問にはあたっています――ええ――当然補佐官も使っています――」


クルフは努めて抑えた態度で応答していたが、何度も繰り返し同じようなことを訊ね、まったく状況を把握していないにもかかわらずあれこれと注文をつけてくる上官に苛立ちを隠し切れなかった。相手に答える口調こそ淡々としていたが、片手の指は電話が置いてあるサバルディクの仕事机をコツコツとひっきりなしに叩いていた。


険悪な雰囲気の中で、席を外す機会を失したサバルディクがいたたまれないような面持ちで身を縮めて机に向かっている。書類を手にして仕事に集中しているふりをしてはいるが、落ち着かない様子で目は文字の上を無駄に滑っていた。


「――最善は尽くしています。ただ、対象の状況からもう少し時間が必要です――ええ、分かっています」


いい加減うんざりしてクルフが語気を強めると、ようやくトゥベツも引き下がった。「とにかく早く情報を引き出すように」と、くどいほど念を押し、一方的に電話は切れた。


長々とやり取りしていたが、何のことはない、要約すれば「時間がかかりすぎている、何か少しでも収穫はないのか、作戦司令部から詳細についてしつこく催促されているので早く成果を出せ」という、ただそれだけの内容だった。


クルフは受話器を置きながら舌打ちした。


まだはっきりとしたことは何も得られていない状況で、なぜ上に情報を流すのか。

気短な青刈り農夫め――胸の内で毒づく。


尋問官としての適性を疑うほど短気な第一情報部長のことを、部下たちは陰で「青刈り」と揶揄しては日頃の溜飲を下げていた。尋問にあたるうえで常に心に留めておくべき格言の中のひとつ、『立派な麦穂が欲しければ、忍耐強く時期を待て』という諺にかけて、「まだ熟していない青い麦の穂を刈り取って収穫を台無しにしてしまうような、せっかちな農夫」という嘲りを込めたあだ名だ。


「邪魔をしたな」


部屋を出ながらサバルディクにひと言声をかけると、若い副官は顔を上げてほっとしたように会釈した。


無能な上官から横槍を入れられ、クルフは不愉快極まりなかった。

だが、トゥベツの言葉にも一理あることは確かだ。尋問を始めてから、かれこれ3週間以上経つ。それにもかかわらず、未だに有用な情報は何ひとつ得られていない。アーナウとミルトホフ、どちらの都市へ重点的に兵力を集中させるべきか、確実な情報がない現状では作戦室の幕僚たちも決断を下しかねているのは間違いない。


対象を地下に戻すか? 体の状態は徐々に快方に向かいつつあり、緊張も解け始めているようだ。あながち無理なことではないだろう。

だがもし、再度の拷問の可能性を突きつけ脅迫したとして、そこで口を割らなかったとしたら、また完全に振り出しに戻ることになる。時間は限られている。悠長に同じことを繰り返している余裕はない。何としても一度の試みで決着をつけねばならない。そのために、現状で何よりも重要なのは、対象の精神状態を正確に見極めることだ。それを誤れば――ここで浮足立って「青刈り」してしまえば、すべてが水の泡になってしまう。


様々な可能性を挙げて頭の中で検討しつつ、トゥベツとの無意味なやり取りのせいで苛々と落ち着かない心持ちのまま執務室へと急いでいた。

その時、奥の廊下の角からイリーエナが慌てた様子で飛び出してきた。


「大尉殿」


クルフを認めて救われたような顔になった彼女は、駆け寄ってくると上ずった声で続けた。


「あの捕虜が一生懸命に何かを訴えているんですが、私には見当もつかなくて……。申し訳ないのですが、来ていただけませんか?」


要領を得ないイリーエナの説明に、後ろに彼女を従えてそのまま部屋に向かう。


寝室のドアを開け、ベッドの上で体を起こしているリーベンと目が合った途端、相手は明らかに苦い顔つきなった。


「何かお困りのことがありましたか」

「いや、大したことじゃないんだ――水を……取ってもらおうと思って――」


言い淀んで口を噤む。


クルフは半ば呆れて咎めるようにリーベンを見やった――そんな程度のことが通じないはずはない。せめてもっとうまい嘘をつくべきだ。

リーベンはクルフの視線を跳ね返すように口を引き結んで黙っていたが、やがて耐えきれなくなったのか、自分自身に幻滅したような大きい溜め息をついた。


「――ダルトン軍曹の様子を見てきてもらおうと思ったんだ」


クルフは背後で心配そうに様子を見守っているイリーエナを振り返り、用件は問題なく片付いたことを告げた。彼女は安堵した表情でその場を離れた。


「何でもお見通しという訳か――さすがだよ」


リーベンが目を上げる。自嘲的な笑いがその声には滲んでいた。

クルフはぴしゃりと言った。


「今後、彼女を利用してどうこうしようなどとは考えないことです。徒労に終わるだけですから。いいですね」

「ああ、分かったよ」


リーベンは素直に頷き、もう一度大きく息を吐き出した。


「まったく、君はまるで人知を超える力を持っているようだな」


クルフは椅子を引き寄せて腰を下ろし、煙草の箱が入った内ポケットを探りながら腹立ちまぎれに言い放った。


「あなたが分かり易すぎるのです。たとえ新米の尋問官であったとしても――いえ、尋問官でなくても、その程度であれば難なく読み取れることでしょう」

「士官学校の訓練で、うまくごまかす方法を教えないのは問題だな」

「そんなものを習ったところで、あなたがそれを使いこなせるとは思えませんが」

「随分な言いようじゃないか」


リーベンは脱力したような顔で笑ってから少しの間口を噤み、やがてしみじみとした調子で呟いた。


「――言葉を交わせる相手がいるというのは、いいものだな」


予期すらしなかった発言に、クルフは火を点けたばかりの煙草の煙を変に吸い込んでむせ返りそうになった。どうにか咳払いで取り繕ったものの、自分がうろたえているのを自覚する。


「私は尋問官であって、あなたの気晴らしのための話し相手になるつもりはありません」

「そうなのか? それは残念だな。君からだったら色々な方面の話が聞けそうだと思っていたんだが」


まるで親しい知り合いにでも話しかけるように言う。


「リーベン少佐」


クルフはできる限り冷淡に、よそよそしい態度でリーベンの言葉を突き放した。


「あなたは私に対して酷い思い違いをなさっているようですが。人は長期間過酷な状況にあると、自分をその状況に追い込んでいる相手にさえ、親しみの情が湧くことがあるのです。あなたは今、その状態にあると言えるでしょう」


俺は何を間抜けなことを――。


言ってしまってから自分自身に呆れかえった。このままこの対象の気持ちを惹きつけておけば、今後の展開に必ず有益に作用するであろうのに。こんな何ということもない会話で取り乱すとは。

自分に対する驚きと嫌悪感に、激しく己を罵倒する。


そんなクルフの内心など知る由もなく、リーベンは変わらぬ様子で頷いた。


「なるほど……そうかもしれないな。だが、俺は別にそれでも構わないんだ」


クルフは何とか平静を取り戻そうと努めた。だが、屈託のないリーベンの言葉を聞いていると、なおさら困惑してくるようだった。

ついに堪え切れず、まだ長く残っている煙草を灰皿にねじ込むように押し付けると、勢いよく立ち上がった。


「とにかく、私はあなたと世間話をするつもりはありません」


クルフは自分に温かな眼差しを向けるリーベンを睨み、逃げ出すような気分で部屋を出た。


ああ――くそっ……。


心の中で悪態をつく。リーベンを忌々しく思いさえした。

本人はまったく自覚していないようだが、場の主導権は完全にリーベンが握っていた。しかし、優位に立ちながらも、リーベンはクルフを論破しようとか愚弄しようなどとはいささかも考えていないのだ。それがかえって始末に困った。敵対意識を剥き出しにする相手に対してなら、どのようにでもあしらうことができる自信がある。だが、無理に虚勢を張るでもなく、媚びへつらう訳でもなく、対等な立場にある者として自分に好意と興味を向けてくるリーベンにどう対したらいいのか、クルフには見当もつかなかった。訥々とした言葉でふいに表されるリーベンの気持ちにたじろぎ、しどろもどろになっている自分が無様に思えた。


くそ、なんてザマだ――。


深い敗北感に歯噛みする思いで、落ち着きなく廊下を歩き回る。

息苦しく感じて、コートも羽織らずに正面玄関から外に出た。車寄せの廂の下で苛々と立て続けに煙草をふかす。たかぶった神経を落ち着かせたかった。

風はなく、ちらちらと小雪が舞うだけだったが、凍てついた空気が今は頬に心地よい。


広場の向こう、鉄条網の外の坂道を、一台の車がこちらに上ってくるのが見えた。黒塗りのその車は、チェーンを巻いたタイヤで雪を噛みながら、慎重な運転でクルフの前まで来て停まった。

素早く車内から出てきた運転手が後部座席のドアを開ける。降りてきたのはシュトフだった。

クルフは煙草を口元から離して火のついた先端を背後に返し、目礼した。シュトフが眉を上げる。


「大丈夫か、ヨヴル」


クルフの変調にあっさりと気づいたようだった。クルフは目を伏せたまま、軽く何度か頷いた。


「ええ、問題ありません。今までにないケースで、少し混乱しているだけです」

「あの捕虜はそこまで粘っているのか」

「これまでの拷問でも落ちませんでした。危険な状態になったので、今は休ませています」


シュトフはある意味で感心したような、意外そうな笑みを浮かべた。


「一筋縄ではいきそうにないとは感じたが。お前を呼んだ甲斐があったというものだ」

「いえ――」


クルフは顔をしかめたまま唸った。


「どうだ、部屋に帰って一服しようじゃないか。私も久しぶりの会議で肩が凝ってしまった」


シュトフは制帽を取って小脇に挟むと、クルフの肩を叩いて促した。


邸宅の2階に上がり、恩師について暖かい室内に戻る。

コートを脱いだシュトフはクルフにソファーを勧め、自分は暖炉横のカフェテーブルの上に揃えられたコーヒーサイフォンを手に取りながら準備を始めた。


「おまえがそんなに取り乱しているのは初めて見たな」


クルフに投げかけられたその言葉は楽しそうだった。シュトフは水を入れたフラスコの下のアルコールランプに火を点け、漏斗にコーヒーの粉を振り入れながら続ける。


「なかなか興味深い対象じゃないか。5年前だったら私が担当したかった」


しばらくすると、狭いフラスコの中で湯が沸騰するくぐもった音が静かな部屋に聞こえ始めた。火を消すと、やがて熱湯は上部の漏斗に昇り、褐色の粉を激しく対流させてから、再び下のフラスコに落ちてきた。

シュトフは二つのカップにコーヒーを注ぐと、片方に砂糖とクリームをたっぷりと入れ、更にブランデーを垂らしたものをクルフに差し出した。温められたブランデーの、まろやかさが増して馥郁ふくいくとした香りが立ち昇っている。


クルフは一口啜った。コーヒーの必要以上の甘さが、息を詰めて硬直しきっていた神経をゆっくりとほぐしてゆくようだった。


自分のカップを手にしながら、シュトフが暖炉のマントルピースにもたれてじっとクルフを見つめている。


「まずは落ち着いて冷静になることだ。自分を失うと相手に振り回されるぞ」


噛んで含めるようにそう言った。


カップの縁に口をつけたまま、クルフは無言で頷いた。

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