第12話 絶望の果ては

その日は強風が吹きすさんでいた。珍しく雪は降っておらず、次々と流されてゆく灰色の雲の隙間からは青空が覗くこともあった。だが、いつにもまして凍てついた日だった。


ダルトンはポケットに両手を突っ込み、立てた襟の中に顔をうずめて風を避けながら、建ち並ぶバラックの後ろを歩いていた。監視の兵士の注意を引かないように極力さりげない様子を装いつつ、建物の陰やところどころにできた雪の吹き溜まりなどに人の痕跡が見当たりはしないかと目を走らせる。


事の発端は昼過ぎに遡る。


いつもと同じ、僅かばかりの粗末な昼食を摂り終えて、ミラーと二人で患者の記録の整理や備品の申請書類を作成していた時だった。


ひとりの捕虜が慌ただしく駆け込んできて、「ジェス・モントリーは来ていないか」と急き込むように訊ねた。入院患者の中にも、午前中に治療を受けに来た数名の捕虜の中にも、心当たりのない名前だった。


事情を聴かれた男は不安そうに視線をさまよわせて呟いた。


『昼飯の前から姿が見えなくなって……』


ダルトンは眉を寄せた。


『昼前から? この寒さで何時間も外をほっつき歩ってたら凍死するぞ』

『上着は寝床の上に置いたままだし、あいつ、ここんところずっとふさぎ込んでたから――』


探しに来た男が何を恐れているのか、言葉にしなくても分かった。

ダルトンはミラーを振り返ると、防寒着を手に取った。


『俺も一緒に探しに行ってくる』

『くれぐれも目立たないように、軍曹! 監視兵に見咎められると厄介です』


ミラーは声を潜めて深刻な表情でダルトンに耳打ちした。


『今までにも何度かありました――行方不明者が出れば、連帯責任としてパンの量が半分に減らされます』


ダルトンは思わずミラーの顔を見つめた。

それが重大な事態であるということは、即座に理解できた。ただでさえ乏しい食料の配給が更に引き下げられれば、飢えと寒さで体力が落ちている多くの捕虜にとって、死に直結する。


『減量されるのはどれくらいの期間だ?』

『見つかるまで』


若い衛生兵は暗い眼差しでダルトンを見上げて即答した。


夜の点呼で欠員が明らかになれば、懲罰は免れない。公にならないうちに探し出さなければならなかった。行方の知れないモントリーという男と親しかった何人かにダルトンも加わって、秘密裏に捜索は続けられた。


肌に痛いほど凍てついた強風が体を弄る。

ダルトンはさらに深く顎を襟の中にうずめた。そうしながら、作業用具が置いてある倉庫、被服保管室、便所の中まで念入りに見て回った。

勿論、モントリーという名の男の身は気がかりだった。だがそれ以上に、パンの量はここにいるすべての捕虜にとって死活問題だ。

日頃配給されるのは、手のひらほどの大きさの、5ミリ程度の厚さに切られた堅いパンが一枚。それをさらに半分に減らされるとなると、いくら目の詰まったライ麦パンであっても、到底空腹が満たされるものではない。


ダルトンはひとつ溜め息をついて立ち止まった。靴の中の指先が凍えていた。失踪した男の痕跡は今のところ何も見当たらなかった。

おい、頼むから出てきてくれよ――独り言ち、収容所の敷地全体をぐるりと見やる。


と、彼の視界に、医務室の入り口のところで兵士に突き飛ばされて転がるように建物に入ったリーベンの姿が目に入った。

ダルトンはすぐさま踵を返し、雪を蹴散らして駆け出した。


ドアが開け放しになったままの入り口から飛び込むと、ミラーがリーベンを助け起こしたところだった。

ミラーの肩を借りてベッドに戻ろうとしていたリーベンが、ダルトンの姿に気がついて顔を向けた。明らかに疲れた表情だったが、ダルトンが口を開くより先に笑みを見せて言った。


「バート。大丈夫だ、心配ない」


ダルトンは息を弾ませながら、引きずっている左足を見て思わず歯ぎしりした。


「くそったれ……。あいつら、一体何度呼びつけたら気が済むんだ!?」


こんな状況が続くなら、どうにか松葉杖でも用意してやらないと――苛々と歩き回りながら頭の中で当てを探す。足元で、薄い床板がギシギシと苦しそうな音を立てた。

リーベンをベッドに横にならせながら、ミラーが訊ねている。


「少佐、お食事をとってありますが、どうされますか?」

「もらうよ。こんな調子だと、できるだけ食べておかないといけないだろうな」


そう言ってリーベンは諦めたような苦笑を浮かべた。

ミラーは一人分のスープが入ったブリキの小鍋をストーブの火にかけながら、小声でダルトンに聞いてきた。


「それで、見つかりましたか?」

「いいや、いったいどこへ行っちまったんだか。参ったな、まったく……」


温まったスープと薄いパンをミラーから受け取り、リーベンの元に持って行くと、ダルトンは手袋をはめながらミラーに言った。


「また当てもなくさまよってくるとするか」

「今度は自分が行きましょうか、軍曹」


そう申し出たミラーを制して、部屋を出ようと足を踏み出した時だった。


ドアが跳ね飛ばされるように乱暴に開き、数人の男たちの一群が転がり込んできた。


「先生、先生! どうかこいつを助けてくれ――!」


寒風に吹きつけられて鼻や頬を真っ赤にした男たちは、悲鳴を上げるように口々にそう喚いていた。彼らの腕には一人の男が抱えられている。

ミラーはその様子を一目見ると、軍医のエカート大尉を呼びに駆け出して行った。


静かだった医務室はにわかに騒然とし始めた。

ダルトンは手を貸して、強張った男の体を診察台に引っ張り上げた。首筋に指を押し付けて脈が触れないことを素早く確認すると、寝かされた男に覆いかぶさるようにして心臓を圧迫し始める。そうしながら周りの男たちに怒鳴った。


「濡れた服を脱がせるんだ!」


汚れて擦り切れたぼろ雑巾に近い服は難なく引き裂かれた。痩せて肋骨の浮き上がった蒼白な身体が露わになったが、すぐに毛布でくるまれた。


「浴場の裏に座り込んでいたんです……上着も着ねえで……」


急き込むように状況を説明する男たちの傍らで、別の男が瀕死の――あるいは既に手遅れかもしれない――戦友の体を必死にさすり、耳元でその名前を何度も呼ばわっていた。


「ジェス! 起きろ、起きろよ! 死ぬんじゃない! ジェス――ジェス! おい、目を開けろったら!」


すぐにミラーとエカート大尉が駆け込んできた。

軍医は手早く瞳孔反射を調べると、注射器を手にして男の痩せ細った腕に強心剤を打ち、胸の圧迫を繰り返しているダルトンと交代した。

患者の口元に顔を寄せているミラーは軍医を見上げて何度も首を振った。

医者も、二人の助手も、固唾を呑んで見守っている男たちも、その額にじっとりと汗を浮かべていた。だが、何時間も屋外にいた男の青白い瞼も色の褪めた唇も、僅かにさえ動く気配はなかった。


どのくらい経ってからか、エカートはとうとう手を止めた。ゆっくりと体を起こし、額の汗を拭いながら周りの人間を見渡すと、無言で頭を横に振った。


誰もが言葉もなかった。 

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