第36話 傷ついた敵国人

部屋にひとり残されると、イリーエナは思わずほっと息をつき、自分が立っている空間の雰囲気に圧倒されてぐるりと部屋を見回した。


見るからに高価そうな調度品の数々。


だが、細かい浮彫が見事な背の低いチェストの上には、消毒液や包帯、尿瓶しびんや琺瑯の洗面器、吸い飲みなどの看護用品が雑然と置かれていた。


下に何か敷かないと、傷をつけたらまずいでしょうに――ついそんな感想が頭をよぎる。


自分のすぐ脇に置かれた小さな丸テーブルに目を移す。

螺鈿細工で描かれた模様が美しいそのテーブルの上には、銀の小箱があった。鳥をかたどった紋章と蔦の葉の彫刻が施された蓋をそっと開けてみると、中には隙間なく並べられた葉巻が入っていた。

彼女はまた注意深く蓋を元に戻し、もう一度室内を見渡した。感嘆の溜め息が漏れる。


こんなお屋敷で寝泊りをしたなんて話したら、みんなはきっと羨ましがるに決まってる!


収容所に派遣されると聞いて、血と膿と、身綺麗にすることもできない男たちの体臭が混じり合ってすえた臭いのする不衛生な仕事場を想像して覚悟して来たが――もっとも、野戦病院での勤務経験がある彼女はそういう状態を大して煩わしく思うこともなかったが――予想からは完全にかけ離れていた。考えにすらのぼらないことだった。


到着してから意外なことばかりで、つい詰めてしまいがちになっていた息を大きく吐き出す。


ここでの自分の上官となる、気難しそうな混血の大尉についても驚きだった。

この時局の中で、ああいった人間が将校の立場にいられるものなのか、政治や政策といったことには完全に疎い彼女にはよく分からなかったが――何はともあれ、課せられた仕事はきちんとやっていかなければならない。

自分の役目を思い出し、気を入れなおす。


手にしていたコートをトランクの上に置くと、担当することになった患者を恐る恐る覗き込んでみる。


敵国人を見るのは――しかもこれほど間近で見るのは初めてだった。生まれてから今まで、異人の血を窺わせるような顔立ちの人間を見かけたことがなかった。ただ、両親から、彼らが子どもだった頃の話として何度か聞いたことはある。


『仕立てのいい服を着て、羽振りがよさそうに通りを闊歩してたな。子ども心に、異国の人たちはみんな金持ちなんだと感じたよ』


思い出語りに父がそう評した彼らは、イリーエナが物心ついた時には既に姿を消して久しく、身近で見かけることはなかった。 


彼女はおっかなびっくり、息を潜めるようにして、寝ている男を観察した。


汚れてごわついた濃い茶色の髪。顔は傷だらけで腫れているが、その状態でも鼻筋がすっと通っているのが見て取れる。閉じられた目の周りの、深く窪んだ眼窩。微かに開かれた薄い唇。


不意に、「この捕虜は素手でも人を殺すことができる」というクルフの言葉を思い出し、彼女は思わず身を引いた。自分に与えられた任務を何となく恨めしく感じる。


この敵国人の世話にあたっている間に、どれだけの同胞の看病ができるだろう。


看護婦として、国籍や人種がどうであろうと病人や怪我人には等しく接するべきだということは頭では分かっていたが、実際にそうするとなると、どうにも気が進まなかった。

そもそも、自分も祖国のために何か役に立ちたいと考えて看護婦を目指した彼女にとって、得体の知れない敵国人を担当するのは不本意でしかなかった。


そんな彼女の気持ちとは関係なく、ベッドに寝ている男はよほどどこか痛むのか、無意識のうちに時折顔をしかめて身動ぎしている。

イリーエナはその様子をしばらく見守っていたが、どうやら背中が痛むようだと見当をつけると、ベッドを回り込んで男の背後に移動した。そっと上掛けをめくり、思わず息を飲む。


おざなりに巻かれた包帯の隙間から、背中一面に赤剥けになった皮膚が覗いていた。包帯は血と膿で汚れ、べったりと皮膚に張り付いたまま固く乾いている部分もある。

明らかにいい加減な手当ての結果だった。

汚れてもいいようにということか、上掛けとベッドマットの間には古いシーツが挟まれていたが、何日も交換されていないらしく包帯と同じような酷い有様だった。


一体何の怪我だろう?


戦闘による負傷なら嫌と言うほど見てきたので、ある程度は原因を判別できる。しかし、この男の傷の状態は初めて目にするものだった。


首を傾げながら上掛けを元通りに戻した時だった。突然、ノックもなしに部屋のドアが開けられた。


驚いて振り向くと、入り口で兵士が二人、目を丸くして棒立ちになっている。状況が把握できない様子だ。ややあって、我に返ったように、首に聴診器を下げた兵士が口を開いた。


「何だ、あんた」


イリーエナは体ごと向き直って微笑みを浮かべると、簡潔に自己紹介した。


「ここで看護にあたることになりました、マルシャ・イリーエナです」


男は――襟元の階級章から軍曹ということが分かった――後ろの大柄な兵士を振り返った。


「あの大尉から何か聞いているか」

「いいえ、自分は何も」


小さな舌打ちが聞こえた。

軍曹は不機嫌そうにしばらくぶつぶつと口の中で何か言っていたが、唐突に、手にしていた容器をイリーエナに向けて突き出した。


「それなら、この点滴薬を追加しておいてくれ。できるか?」

「はい」

 

彼女は素直に応じたが、まったくの素人に訊ねるような言い方に、笑顔を作ってあえて付け加えた。


「野戦病院で2年半働いていましたから」


さらりとそう言うと、その軍曹は意外そうな顔をして疑い深い眼差しを向けたが、結局何も言わずに踵を返した。


「あの」


とっさにイリーエナは呼び止めた。


「新聞紙をもらえませんか?」

「読むのか?」

「あの上に敷いておきたいので」


そう言って、様々な薬や処置用の道具が載ったチェストを指差した。


「自分が後で持って行きますよ」


後ろにいる兵士が幾分訛りを感じさせる抑揚で軍曹にそう言って、イリーエナに好意的な視線を送ってきた。

彼女は、職業柄身についた、余計な意図を一切含まない中立的な微笑みを返した。


二人が出て行くと、イリーエナは再びベッドに向き直った。


さて――自分を鼓舞するように気合いを入れる――やらなければならないことに、ぐずぐず言っていても仕方ない。まずは仕事をしやすいように環境を整えないと。


ブラウスの袖をまくりあげると、彼女は雑多に置かれた道具の片付けに取り掛かった。

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