第35話 看護婦

穏やかな日和の午後だった。

雪は降っておらず、風もない。相変わらず空は雲に覆われてはいるが、執務室の窓から見える外の風景はいつもよりも明るんで見えた。 


「マルシャ・イリーエナ」

「はい、大尉殿」


名前を呼ばれた娘が幾分緊張したような硬い面持ちで返事をした。

革張りの椅子に座ったまま、手にした書類から目を上げたクルフは、執務机の向こう側に立っている娘をまじまじと眺めた。


数日前、クルフはシュトフを通じて上級部隊の収容管理部に人員を一名要請した。リーベンの世話に当たらせるためだった。

「職務に忠実で愛国心にあふれ、看護経験のある者」と指定したところ、収容管理部の人事担当者が手近な部隊で人員に余裕のあるところから派遣を決めたようだった。そうして送られてきたのが、マルシャ・イリーエナだった。

てっきり衛生兵がよこされるものと思い込んでいたクルフは、執務室を訪ねてきた若い娘の姿に面食らった。


歳の頃は20を少し越えたあたりに見える。小柄で、人目を惹くような器量であるとは言えないが、ふっくらとしてほんのりと上気した頬と血色のよい唇が、その年齢にふさわしく瑞々しい印象を与えていた。淡い金色の真っ直ぐな長い髪を、一筋の乱れもなく頭の後ろに結い上げている。従軍看護婦たちが身に着ける濃い灰色のワンピースの下からは、白いブラウスの襟元と袖が覗いていた。ぱりっとして、きれいにアイロンが当てられているのが分かる。

彼女は畳まれた黒っぽいコートを片腕に掛け、防寒用のブーツを履いた足をきちんと揃えて、クルフの前に畏まった様子で立っていた。薄灰色の大きな目は使命感に満ちている。


渡された身上調書の経歴欄には、看護学校を卒業後、2年ほど東部戦線の野戦病院で看護にあたり、つい数か月前からは、ここコスタルヴィッツから列車で3時間ほどかかる小都市ケールにある病院で戦傷者の介護を担当していた旨が記されていた。勤務態度は『非常に勤勉かつ優秀。積極的に事態に対処する意欲と能力を持つ』と部隊長から評されている。


まあ、この娘なら間違いもないだろう……。


介護するうちに相手に情が移り、逃亡の手助けでもされてはかなわない。そのためにわざわざ「職務に忠実で愛国心にあふれた」と注文をつけたのだった。


クルフは気を取り直し、身上調書を元通りに畳んで封筒にしまうと、改めてイリーエナに目を向けた。


「君には一人の捕虜の身の回りの世話をしてもらう。看護は必要最低限にとどめるように。そして、今回の任務に関して口外することは一切禁ずる。いいか」

「了解いたしました、大尉殿」


イリーエナは背筋を伸ばして答えた。


クルフは席を立ち、彼女を促して執務室を出た。イリーエナは足元に置いていた大きなトランクを持つと、先を行くクルフの後を小走りになりながらついてきた。


長い廊下を歩いていく。

邸宅の2階は、所長であるシュトフが使用する幾つかの部屋の他は客室用としているようで、廊下には人気がない。

北側の壁に並ぶ窓に嵌められたステンドグラスが、ぼんやりとした外の明るさを透過させてやわらかく輝いている。色合いを抑えた半透明のガラスと鉛線ケイムつたのモチーフが伸びやかに描かれ、薄暗いはずの廊下に戸外の光を取り込みながら、同時に上品な華やかさも加えていた。


イリーエナを伴って廊下の一番奥の部屋に赴く。

厚手のカーテンを閉め切っているので日中にもかかわらず外からの光は一切入らないが、暖炉で燃える炎と壁際のスタンドライトの灯りで、室内は手元に不自由するほどの暗さではない。

見ると、リーベンは体を横向きにしたまま眠っていた。


立派なベッドと、そこに寝かされている顔の腫れ上がった男の姿に、イリーエナは戸惑ったようだった。


「この捕虜は今でこそ負傷して安静の状態だが、そうでなければ素手でも相手を殺すことができるような人間だ。十分注意してほしい」


ベッド脇でリーベンを見下ろしながらクルフがそう言うと、イリーエナは驚いたように捕虜の寝顔を見つめた。見開いた目にわずかに怯えが浮かんだ。


「君の部屋は――」


言いかけて、クルフはふと口を噤んだ。衛生兵が来ることしか想定していなかったので、こちらの要望に対応してくれるサバルディクには、兵舎にベッドをひとつ準備しておくように、としか言っていなかった。まさか若い娘をそんなところで寝起きさせるわけにはいかない。


「君には、この階にある客室のうちの一部屋を充てるように準備させておく。この寝室への出入りは自由だが、基本的にはここにいてもらうことになる。質問は?」

「いいえ、大尉殿」


イリーエナははっきりとした声で即答した。


「何かあれば私に報告するように」

「はい、大尉殿」

「では以上だ」


そう言うと、クルフは看護婦を残して寝室を後にした。


リーベンの世話を女に任せることに、一抹の不安がないこともなかった。だが一方で、その気がかりを補うほどの「効果」を期待できるのではないかとも考え始めていた。


衛生兵ではなく看護婦が派遣されてきたことは予想外のことだったが、女の存在があることで、リーベンも緊張と警戒を解きやすくなるだろう。それなりの看護を受け、生への希望が持てるようになったところで再び地下に戻せば、その時こそ頑なな意思を打ち砕けるかもしれない――熱いガラスを急激に冷やせば、あっけなく粉々に砕け散るように。


ステンドグラスを通した淡い光を半身に受けて執務室に向かいながら、クルフは唇の端に薄い笑みを浮かべた。

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