第44話 慟哭
捕虜が寝起きしている寝室の重厚なドアの前まで来て、クルフは一瞬ためらった。ノブを掴もうと伸ばした手を宙に止める。
このところ、リーベンにはずっと気持ちを乱されている。いい加減に相手の出方に慣れなければならない。
『自分を失えば相手に振り回されるぞ』――恩師の言葉を自戒として改めて胸の内で繰り返す。
対象が話し相手を必要としているのなら、俺は首尾よくその役割をこなすまでだ。
手のひらを一度固く握り、静かに長く息を吐いてからドアを開ける。
いつもの見慣れた室内の光景だった。背中にクッションをあてがって体を起こしているリーベンと、ベッド脇の椅子に腰かけ、開いた本を手にしているイリーエナの姿があった。
顔を上げた看護婦は、クルフと目が合うと少しばつが悪そうな顔をして本を閉じかけた。一方のリーベンは、部屋に入ってきたクルフをいつもの穏やかな眼差しで迎え入れて言った。
「本を読んでもらっていたんだ」
思わずクルフは冷笑を浮かべた。
「ことばが分かるのですか」
「いいや、まったく」
リーベンはクルフの反応を気に留めることもなく、あっさりと否定した。
「でも、音楽を聴くのと同じだよ――君たちのことばは綺麗だな」
クルフはイリーエナから本を受け取ると、パラパラとページをめくって目を通した。
「――リーベン少佐、これであなたもこの国の女を口説けるというものですね」
「ええ?」
曖昧な笑みを浮かべてリーベンが問い返す。
クルフはイリーエナに本を返してやった。彼女は本を受け取ると、残っている仕事を口実に部屋を出ていった。クルフはたった今まで彼女が座っていた椅子に腰を下ろしながらリーベンに教えてやった。
「この国では有名な、80年ほど昔の詩人の詩集です。愛の歌を最も得意としていました」
「そんな高尚な口説き文句を使う機会なんて俺にはなさそうだ」
苦笑したリーベンに、クルフはポケットから煙草を取り出しながら不愛想に諭した。
「それはあなた次第でしょう。我々に協力していただければ、すぐに便宜を図ることもできるのですが」
「君が俺に、この国の女性を口説く機会を作ってくれると?」
可笑しそうにリーベンが言う。
「お望みであれば」
唇に煙草を挟んだままクルフはじろりとリーベンを見てそう答え、マッチを擦って火を点けた。一息大きく煙を吸い込み、改めて話を続ける。
「少佐、あなたの実直さは尊敬するところですが、時と場合によってはそれがかえって仇となる――あなた自身のためには、もっと狡猾に、打算的に立ち回った方がはるかに生きやすいこともあるでしょう――今回のような場合には特に」
「似たようなことをよく言われるよ、ダルトン軍曹に。だが、それができるなら苦労はしない」
半ば自嘲めいた笑みを見せてそう答えたリーベンは、ふと眉を上げた。
「今日は話し相手になってくれるんだな」
「ええ。気が変わりました。人はどうしてそんなに意固地になることができるのか、せっかくのこの機会に理解を深めたいと思いまして」
「君の役に立てるといいが」
皮肉を込めたはずの言葉に素直な反応を返され、クルフは呆れ果てて目の前の捕虜を見やった。
「あなたはなぜそんなに寛容になれるのですか。私を憎いとは思わないのですか?」
「それは前に君が教えてくれただろう、そういう心境になるものだと」
冗談めかして言ってから、リーベンは真面目な面持ちに戻って慎重に言葉を選ぶようにして続けた。
「どうして寛容になれるのかって? なぜだろうな……寛容であろうと努めている訳じゃない。ただ、人は皆それぞれ違うし、それぞれの考えがあり、都合があり、事情がある――それを意識しているだけだ。他人は自分とはまったく違う存在で、当然自分の思うとおりにはならないし、意見を押し通そうとすれば摩擦が起こる。だからまずは相手の立場を認めて、そこから理解しようと心がけてはいる」
「ご立派なことです。しかし、あなたのような人間は稀でしょうね。人は、自分と違った存在を理解しようと努めるより、盲目的に恐れ、憎む方が容易いことを本能的に知っています」
話しながら、昔の記憶が湧き上がってくる――近くを通るだけで疑いと蔑みの視線を投げられ、「コソ泥のドブネズミが!」と罵られて追い立てられ、暗がりで息を潜めながらも抜け目なく立ち回っていた日々。
通行人たちが自分を見下ろす疎ましげな顔を――もしくは、関わり合いになるのはごめんだとばかりにあえて視界に入らないようにして、わざとらしいほどの無表情を貼り付けた顔を、今改めて思い起こす。
「大衆は愚かで、あなたのように聖人君子ではないのです」
そう断じて、クルフは唇の端に冷ややかな
「少佐、あなたは牧師にでもなった方が良かったのかもしれませんね。なぜ職業軍人の道を?」
問いかけられて、リーベンは「どうしてだったかな……」と茶化すように呟いて視線を宙に向けた。
「国のため――と言いたいところだが、そんな立派な理由じゃない。生活のためだった。とにかく早く稼ぎたかった。それで、一番手っ取り早い軍隊に入ったんだ」
「意外ですね。あなたはそんな風に考えるようには見えませんが」
「君はずいぶん俺を買い被ってくれているようだな」
そう言ってリーベンは小さく笑った。
「……俺は6人きょうだいの長男でね、一番下の妹とは12歳離れてる。父親も母親も好き放題の生活を送っていて、家にはいつも金がなかったし、下の弟や妹はみんな俺が世話をして育ててきたようなものだったんだ。だから、早く家を出て自立したいと思う一方で、自分がいなくなった後、
給料日の後の週末には外出許可をもらって自宅近くに出向き、責任感の強いひとつ下の弟に現金の入った封筒を渡すのが毎月の決まりになっていた。自分のために必要最少限の額だけを手元に残し、後は全て弟妹のために渡した。そして弟には絶対に両親にこのことを知らせないようにと念を押した。そうでなければ全部親に巻き上げられてしまうことが目に見えていたから――リーベンはとりたてて悲壮感を漂わせる訳でもなく、淡々とそう語った。
話を聞くうちに、クルフは今までずっと不可解に感じていたリーベンの態度について、ようやくひとつの理由を見いだせたような気がした。
「ダルトン軍曹が、あなたはいつもひとりで何もかも背負い込んでしまうと話していましたが」
「バートが? そんなことを言っていたのか」
リーベンが苦笑交じりに聞き返す。クルフは頷いた。
「その理由が分かった気がします」
「性分なんだろうな。こればかりはどうしようもない」
リーベンは微かな笑みを口元に残したまま諦めるように肩をすくめると、自分の手元に視線を落とす。
「……君は、俺がどうして意固地になるのかと訊いたな。俺は職業軍人だ。今話したとおり、入隊した時は愛国心のために何かしたいという気持ちなんてなかった。だが戦場に出て、部下を、仲間を守りたいと思った。死なせたくなかった。それは一緒に戦っている皆、同じ気持ちだ。仲間を守りたい。それだけなんだ」
静かに語るリーベンの言葉を聞くうちに、クルフの中には強い反駁と自分自身にさえよく分からない苛立ち、そしてそれ以上に言いようのないもどかしさがはっきりと形になっていた。
「――あなたはもっと、自分のために生きてもいいのではないですか?」
無遠慮な言い方になった。リーベンは驚いたように目を瞠り、クルフを見つめた。それから再び目を伏せ、
「……自分でもそう思うことがある――もしそうできたなら、妻に今ほど心配をかけることもなく、息子にこれ以上の寂しい思いをさせずに済むのだろうと……」
二人だけの部屋に沈黙が流れた。
クルフは丸テーブルの上の灰皿を引き寄せ、自分の指の先で長く伸びた煙草の灰を軽く
「君は、家族は?」
控えめに問われ、クルフは反射的に身構えた。唇に戻しかけた煙草を灰皿に押し付けて粗雑に揉み消す。
「そんなもの――物心ついたときからひとりで生きてきました」
その答えを大方予想してはいたのか、リーベンは驚かなかった。
「自分の息子を考えてみれば、そんな子どもがたったひとりで誰の助けも得られずに生きていくこがどんなに困難なことかは想像できる。大変だったろう」
「あなたに何が分かるというんです」
間髪をいれずにクルフはそう口にしていた。
「私には、生き方を選ぶ余地すらなかった。どうやって生き抜くか、ただそれだけだ。他人を気にしている余裕なんてこれっぽっちもない。それができるのは恵まれた人間だけです。同情なんてしてもらいたいとは思わない。心配も、気遣いも」
「本当にそうか、大尉?」
自分にひたと当てられたリーベンの真摯な眼差しは、クルフの内心奥深くまで見通すかのように思えた。クルフは鋭くリーベンを睨み付けた。
「他人に依存することなどありえません。私が頼みにするのはこの自分自身のみです」
「だがそれは、苦しいことだな?」
クルフはまざまざと思い出した――目の前を行き交うたくさんの人の群れの中に頼れる相手は誰一人いないことを実感する時の、萎縮してしまいそうになるほどの緊張感と、体の中に染み出す冷たい感覚――そう、苦しかったのだ。自分では意識するまいと目を逸らし続けていたが、確かにそれは苦しいことだったのだ。
クルフは語気を荒げて叫んでいた。
「ええ、そうです。そのとおりです! しかしそうするしかなかった。そうすることしかできなかった。周りから疎まれ、蔑まれ、唾を吐きかけられて育った私には――!」
体の
リーベンが
ふいにクルフは腕を強く引かれた。椅子から腰が浮き、床に膝をつく。そして、まるで幼子が母親の膝の上に身を投げ出すように、自分がリーベンの腰元に顔を
背中に置かれた手が、静かにクルフの背を叩く。
「泣きたい時は我慢なんかするものじゃない。泣けば気分が楽になる……」
「よく頑張ってきたな、大尉」
そのたったひと言で、堰を切ったように涙があふれ出す。
今まで泣くことなどできなかった。どんなに苦しい時でも、涙を見せたら負けだと――自分自身に対して負けるのだと、固く信じてきた。歯を食いしばり、周りの愚鈍な人間に自分の能力を認めさせるため、そして何より生き抜くために、僅かな間でも立ち止まることはできなかった。それが自分の生き方だと己に思い込ませていた。
自分を長く支え続けてきた意地がこの敵国の男の前であっけなく崩れ去ってしまったことに、クルフ自身愕然とした。そして無意味な事と分かってはいても、その事実に抗いたかった。
手のひらの下にあるリーベンの服を引きちぎりそうになるほどの力で握り、震える声で彼は呻いた。
「あんたは偽善者だ――。偽善者で、悟り澄まして、聖人
リーベンがふっと息を漏らして微笑んだのが感じられた。呟くような小さな声が、しかしはっきりと耳に届く。
「ああ、それでいい」
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