第29話 冷ややかな傍観者

部屋の中央に吊るされた捕虜がまったく反応を見せなくなると、処置官であるヴェスカーリクは上官に尋問の一時中断を提案した。

クルフは了承し、いったん捕虜を独房に戻すように命じて部屋を出て行った。


その姿を見送ると、ヴェスカーリクもライヒェルも途端に態度をくつろがせた。

だらりと力なく鎖に繋がれた捕虜を見やって、ライヒェルが楽しそうに言う。


「粘りますね」

「ああ。だがどこまで持つかな」


ヴェスカーリクはうなだれている捕虜に歩み寄ると、首に掛けていた聴診器を捕虜の胸に当てて耳を澄ませた。部屋の寒さのせいで聴診器の先端の金属部分はすっかり冷え切り、添えた指先の感覚がじんわりと鈍くなる。

しばらく入念に胸や背中の音を聴いていたが、手隙てすきな様子で部屋を歩き回っているライヒェルに気づくと、呼び寄せて聴診器を押し付けた。


「お前、怪我をして資格試験の実技錬成が取りやめになったなんて思ってるんじゃないだろうな――ほら、心臓と肺の音を聴いてみろ」


唐突に始まった錬成訓練にあたふたしながら、ライヒェルは慣れない手つきで聴診器の耳管を耳に持っていく。


「左右の肺の呼吸音を比べてみろ。右の方が少し聞こえづらいだろう? 軽い気胸を起こしてる」


言われたとおりにじっと耳を澄ませていたライヒェルが、しばらくして感動したように呟いた。


「――本当ですね。音が違う……」


しきりに聴診器を動かして胸の音を聴き比べている。

その横で、ヴェスカーリクは捕虜の右胸を何度も手でゆっくりと押しながら、その表情の変化を注意深く窺っていたが、ある一点に来るとリーベンはびくっと顔をしかめ、逃げるように僅かに体を引いた。

ヴェスカーリクはもう一度その場所を強く押した。リーベンは苦し気な表情で小さく喘ぎ、唇を震わせた。


「ここだな」


ヴェスカーリクは指で軽く叩きながらライヒェルに示した。


「肋骨が折れて少し肺を傷つけたのかもしれない。これからここは気をつけろよ。心臓の音はどうだ?」

「――よく分かりませんが……ちょっと速いような……」

「熱があるし、気胸も起こしてる。そういう時には心拍数は上がるんだ。それから、貧血の時にも――いいか、ちゃんと覚えておけよ」


ヴェスカーリクはライヒェルから聴診器を受け取り、流し台の元に向かうと、布切れを濡らして血の付いた聴診器の膜部を丁寧に拭った。

「気胸」という聞きなれない診断名を聞いて不安になったのか、ライヒェルが幾分心もとない表情で訊ねた。


「どうですか? まだいけるでしょうか」

「心臓は動いているから、まあ問題はないだろう。だがいったん休ませないと。神経の方が先に参ってしまうと厄介だからな」


それを聞くと、ライヒェルはまた元の陽気な口調に戻った。


「ここまで強情だと、張合いがありますね。とことん付き合ってやろうっていう気になります」

「俺だったら、お前に付き合ってもらうのは願い下げだね」

「自分も、軍曹のお世話になるのは御免こうむりますよ。重体で今にも死にそうな時に、心臓の音を聞いて『動いてる、問題なし』で済まされたらかないませんからね」


そう言って、ライヒェルはニヤッと笑った。


「こいつ、減らず口を叩きやがって」


ヴェスカーリクが口達者な後輩を睨むと、ライヒェルはニヤニヤしたまま肩をすくめた。そして、大した意味もなく体の脇でぶらぶらと振っていた鞭を、そのうち興が乗ってきたのか、体の前や後ろで回し始めた。

ヴェスカーリクは驚いて声を上げた。


「おいおい! ずいぶん器用に回すもんだな」

「これですか? 自分の村では、収穫祭や結婚式なんかの祝い事の時には必ずこの鞭を使った踊りが披露されるんです。こんな感じで――」


ライヒェルは手首を使って鞭を回転させたまま、その場で踵で地面を蹴るようにして細かいステップを踏んだ。

鞭は今や一本の棒のように真っ直ぐになり、目まぐるしく円を描いて体の前や後ろ、頭上で動き回っている。腕や肩、手首をしなやかに動かして、流れるように鞭を操る様は見事だった。


「お前、すごいな」


ヴェスカーリクは驚きの眼差しを向け、思わず手を叩いた。


「左腕を痛めていなかったら、両手が使えたんですけどね」

「ちょっと俺にもやらせてみろ」


見よう見まねで回し始めた鞭先が自分の背中に勢いよく当たり、ヴェスカーリクは飛び上がった。


「痛っ!――何で同じようにできないんだ?」


ライヒェルはヴェスカーリクが鞭と格闘している様を笑いながら見ている。


「そう簡単には使いこなせませんよ。マイデンの方では、生まれた子どもが男であれば鞭を贈る習わしがあるほどなんです。物心つく前からこの鞭を手にして、最初は家畜の番から始めます。加減次第でどんな目的にも使えるんですよ。罰として子どもの尻を打つこともあるし、昔は武器としても使っていました。首を絞めることもできるし、敵の体を骨が見えるまで引き裂くこともできるんです」


汗を滲ませたヴェスカーリクから鞭を受け取ると、ライヒェルはそれを二つ折りのようにして持ち手と先端部分を片手に握った。


「例えば、子どもを打つときは、こう持ってほんの手首だけで動かします。お仕置きを受ける子どもにとっては泣き叫びたくなるほどの痛みですが」


そう言いながら、吊るされているリーベンの背中を何度か打った。

重い音がして、リーベンが小さく呻いた。


「本気で打とうとするときは、鞭に体重を乗せるんです。こうやって――」


ライヒェルは鞭を持ち直し、体を反らせて振りかぶった。次の瞬間、激しい音に悲痛な叫び声が重なる。一瞬で背中の皮膚が裂け、細かい血しぶきが散った。


「これでも半分くらいの力です。本気でやれば肉が抉れてしまいますから」


体を震わせて息も絶え絶えに喘いでいるリーベンをよそに、説明と実演を終えたライヒェルは得意気にヴェスカーリクを見て笑った。


「なるほどな。拷問官には適任というわけだ。俺は鞭より警棒の方が扱いやすいが」

 

感心してそう言うと、ヴェスカーリクはポケットから煙草を取り出し、ライヒェルに勧めた。自分も1本抜き取って口に挟むと、マッチを擦って二人の煙草の先端を焦がし、そのまま水責めに使っていたたらいの中に投げ込む。微かな音と細い白煙を残して火は消えた。


二人ともしばらく無言で煙を胸に吸い込んでいたが、吊るされたままぐったりと動かない捕虜に目をやっていたライヒェルが口を開いた。


「軍曹はどうお考えですか? 自分は、どうも今回はいつもと違うような気がします……」


ヴェスカーリクもつられるように捕虜を見やって、煙を大きく吐き出した。


「どうだろうな。それでも今まで失敗知らずだそうだからな、あの優秀で切れ者の大尉殿は」


その侮蔑がこもった言い方に、ライヒェルが驚いたような顔を向けた。

ヴェスカーリクは横目で後輩をはすに見やると、煙草を指に挟んで続けた。


「お前は何とも思わないのか? どこから湧いて出たのかも分からないような輩に命令されて」

「いえ、でも……軍から正式に士官の階級を与えられているくらいですから、必要な人間なのかと……。自分はそう思って納得していました」

「マイデン出身の坊やは純粋でいい」


ヴェスカーリクの皮肉めいた言葉に、ライヒェルは赤くなった。


「俺は気に食わないな。どうせ大した教育を受けたこともない、どこの馬の骨とも分からない奴に顎で使われて、虫唾が走る」


口から出ている言葉ほどの激情を見せることなく、淡々とそう言って続ける。


「失敗した時が見ものだ。だからせいぜいこの男には――」


そう言ってリーベンを目で示した。


「頑張ってもらわないとな」

「手加減するということですか、軍曹」


ライヒェルが戸惑うように言った。


「自分の仕事はきっちりやるさ。この男が自白するのか黙秘を続けるか、俺の予想では五分五分だ。とっとと吐いてくれればこちらは楽だが、だんまりを決め込むならそれでもいい。どっちになるかな」


ヴェスカーリクはそう呟いて、うつむいている捕虜の顎の下に警棒を差し込み、顔を上げさせた。

一瞬体を竦めるように震わせて、リーベンが虚ろに目を開ける。連日受け続けている暴行のために、僅かに触られるだけで身構えてしまうのだろうが、それでもリーベンは気丈にも目の前の人間を睨もうとしていた。

ヴェスカーリクは軽い笑い声を立てた。


「この強情な少佐殿、まだ当分は期待できそうだ」

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