第20話 衝動

クルフは入り口に立って腕組みをし、黙って壁にもたれかかりながら中の様子を眺めていた。リーベンに温かい飲み物を持ってくると言って部屋を出た後、そのまま二人の部下に引き継いだのだった。


今、リーベンはこちらに背を向けた格好で部屋の中央に吊るされているので、クルフがそこにいることは分からないはずだった。しかし、たとえその姿に気づいたとしても、注意を向ける余裕などあるはずもない。哀れな捕虜は背中を激しく鞭打たれているのだ。


よくしなる鞭が振り下ろされる度、宙を切る音が低く唸るように響く。


補佐官のライヒェルが好んで使う鞭は――得意気に語っていた本人の話によると――彼の出身地方の伝統的な道具だということだった。

よくなめした細い革紐を何本も使って太く編み上げたもので、先に行くほど細くなり、先端は小さな瘤のようになっている。打擲に使う部分は人の腕の長さほどしかない。

その、実用本位で余計な装飾の一切ない特殊な革鞭を、ライヒェルは実に器用に扱った。決して殺すことなく、激しい痛みと衝撃で相手の気力と体力を確実に奪ってゆく。


細かくきっちりと編み込まれた鞭が皮膚を打つ重い音。口に噛まされた猿轡の下から漏れるリーベンの荒い息遣い。幾筋ものみみず腫れに覆われ真っ赤に腫れ上がった背中は、所々で線状に出血し、見るも痛々しい。


ライヒェルは立て続けに鞭を下ろすようなことはしない。不規則な間隔で思いついたように打擲が繰り返される。予測できないことが一層の恐怖を煽り、より効果的に精神を追いつめてゆく。


捕虜が意識を失いかけると、すかさず横からヴェスカーリクが警棒で殴りつけた。

リーベンの額からは脂汗が流れ落ちていた。

悲鳴を上げまいと歯を食いしばり、打たれる毎に体を強ばらせて苦悶の表情で呻いていたリーベンだったが、1時間程過ぎた頃から次第にぐったりとした様子を見せ始めた。足はもはや立たず、拘束され天井から吊された両腕に体重を預け、背中に繰り返される強烈な打擲にも、微かな吐息を漏らすだけだった。


「伍長」


じっとリーベンの様子を窺っていたヴェスカーリクがライヒェルに目配せした。これ以上は危険だという判断だ。

ライヒェルは頷くと、壁に固定してあった鎖の端を外した。

リーベンは崩れるように床に倒れ込んだ。完全に気絶してしまっているのか、ぴくりとも動かない。


「クルフ大尉」


ヴェスカーリクがクルフを振り返った。


「この後はどうしましょうか。覚醒させますか?」

「いや、今はいい――この捕虜に与える温かい飲み物を何か用意してくれ。その後は待機だ」


クルフの指示に二人は頷いた。手早く捕虜を後ろ手に縛りあげると、部屋を出て行った。


ふと見ると、部屋の隅に、脱がせたリーベンの上衣がだらしなく放り出されたままになっていた。補佐官たちが片付けるのをうっかり忘れたのだろう。

クルフは僅かに眉を寄せて拾い上げた。

シャツと防寒服を簡単に畳み、戦闘服の上着を掴み上げた時だ。


手の中でかさっと小さな音がした。

手繰ってみると、左の胸ポケットに小さく折りたたまれた封筒が見つかった。引き出して、宛名と差出人の名を確認する。表書きには拙い文字でリーベンの名前が書かれ、裏には丁寧な筆跡で、住所と「ジーナ・リーベン」という名が記されていた。


中には3枚の紙が入っていた。便箋2枚に、ここしばらくの近況、子どもの成長を感じたたわいないエピソード、遠く離れた異国の地で過ごす夫を気遣う文章が丁寧な字で細々と綴られている。


『いつもあなたの無事を祈っています』


手紙の最後に書かれたその文字をゆっくりと目でなぞってから、もう1枚の紙を開いてみた。


それは子どもが描いた絵だった。中央に大きく人の形が描いてある。目の大きさは不揃いで、鼻は顔の中心からずれている。赤いクレヨンで引かれた口は大きくにっこりと笑っていた。その横に、よろけるような文字で『パパ』と書いてある。頭の上の緑色をした帽子らしきものと、手の部分に突き出た棒のようなものを見ると、この子どもが戦場にいる父親の姿を描いたのだろうと何となく見当がついた。目と髪はきちんと茶色で、眉は横にまっすぐ引かれ、リーベンに似ていなくもなかった。父親のことが大好きなのだと伝わってくる、屈託のない絵。


そして人物の背景には、濁りのない水色で塗られた空に、力いっぱい描かれたような黄色い太陽が輝いていた。


南の地では、空はこんなにも明るいのだろうか――。


クルフは一時、ぼんやりと想像した。だがすぐに、おかしな感傷に浸っていた自分を嘲った。


胸ポケットの中には、封筒と一緒に一枚の写真も入っていた。リーベンが幼い息子を抱き上げ、妻と並んで写っている。


リーベンは微笑んでいた。そのくつろいだ穏やかな表情は、ここでクルフが見たことのないものだった。目を細め、愛情に満ちた柔らかな眼差しを息子に注いでいる。

傍らの女性は満面の笑顔を二人に向けている。両親にはさまれて笑っている男の子は、幼いながらも凛とした目元が父親によく似ていた。


クルフは手紙と写真を手にしたまま、知らず知らずのうちに息を詰めていた。


リーベンはどんな思いでこの写真を眺めるのだろう。失われた日常生活を懐かしみ、必ず生きて戻ると、意思を強くするのだろうか……。


この写真によって――いや、自分を慕い愛してくれる者たちの存在によって、リーベンはこの場所にあっても遠く離れた故郷と固く繋がっているのだ。時間も、物理的な距離をも超えて、精神のよりどころとなる存在をこの男は持っている――。


たった一通の、ごくありふれた手紙に、改めてクルフはそのことを思い知らされた。


得体のしれない不快な思いが胸の中に染みだしていた。


自分の任務に対する罪悪感ではないことは分かっている。そもそもそんなものは持ち合わせていない。それなら、この荒寥とした感情は何なのか――自分自身ではっきりと把握できないことに苛立ちを感じた。


不意に、この男の意思を徹底的に打ち砕いてやりたい衝動に突き上げられた。この、意固地で頑なな男の自尊心をずたずたに引き裂いて踏みにじり、跪かせ、屈服させてやりたい――。


だが、尋問官であるクルフは自制することを知っていた。感情で動けば敗北につながる。冷静であってこそ正しい判断が導けるのだ。


衝動を抑えるために、自嘲気味に胸の内で呟く。


――幸せな境遇に対する妬みか? それとも憎しみか?


しかしそのどちらもしっくりとしなかった。

躊躇いつつ、自分の暗い感情に手を差し入れ、恐る恐る探り始めた。


――いいや、そんな表面的なことじゃない。根本にあるものは何だ……? 圧倒的優位な立場にいる俺が、惨めなこの男に対して抱くこの不愉快さ、居心地の悪さ。なぜこんなにも気に障る?――揺るぎない精神的な支柱を持つこの男の強さ、それが自分の中の寂寥感を抉るからか……。


クルフは思わずぎくりとした。

寂寥感――これまで、今ほどそのことを実感したことはなかった。


考えてはいけないことだ。


とっさに思考を抑え込む。


手にしていた数枚の紙を手早く畳んで封筒に戻すと、気絶しているリーベンの傍らに屈みこんだ。きつく拘束されているために赤黒く鬱血している左手を探り、むくんだ薬指から無理矢理に指輪を抜き取る。

心の支えとなるものは、尋問の邪魔にしかならない。

その理由に依っての行動だったが、今はただ、自分がこの捕虜を妬んで単に嫌がらせをしているだけのように思えて気分が悪かった。


クルフは憮然とした面持ちで指輪を封筒に放り込み、無造作に上着の内ポケットに押し込んだ。そして部屋の隅の椅子に腰かけると、くように煙草を取り出し、部下が飲み物を持って戻ってくるのを待った。

気分は釈然としないままだった。

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