第19話 飴と鞭

寒い……。


急速に意識が引き上げられるような感覚とともに、リーベンは身震いしてはっと目を開けた。


幾つも痣が浮いている自分の胸や腹が視界に映った。左腿のズボンの布地は、新たに染みこんだ血でべとついている。被弾して破れた個所から、解けて役に立っていない、血で汚れた包帯が覗いていた。


リーベンは椅子に座っていた。今は目隠しも猿轡も外されていた。両腕は背もたれの後ろに回され、手首を縛められている。これからまた新たな暴行が始まるのだろうかと、兢々きょうきょうとしながら顔を上げてゆっくりと辺りを見回した。


低い天井のだだっ広い空間。

リーベンの頭上付近にたったひとつ光量の乏しい電球が灯されているだけなので、部屋の隅の方はほとんど暗がりになっている。ようやく光が届くか届かないかの辺りに大きなテーブルが置かれていた。

そこに人の姿を認めて、彼はぎくりとした。

クルフだった。革手袋をはめ、外套を着込んでいた。部屋の中に二人の兵士の姿は見当たらない。


クルフは足を組んで椅子に横様に座り、煙草をくゆらせていた。そうしながらずっとこちらを見ていたようで、意識を取り戻したリーベンと目が合ってもその態度にまったく変化は見られなかった。


「ご気分はいかがですか、リーベン少佐?」

「――良くはないな」


激しく脈打つような銃創の痛みが再び戻り始め、奥歯を噛みしめる。


「これからはここで尋問か? わざわざ歩かなくて済むのは助かる」


リーベンは身動ぎして椅子に深く掛けなおした。僅かに体を動かしただけだったが、体のあちこちに痛みが走り、思わず顔をしかめる。

クルフが小さく溜め息をついて、幾分同情するように言った。


「ですから忠告したのです」


そんなことは分かっている、と胸の中で呟き、リーベンは身を竦めた。

凍えた空気が肌を突き刺すようだった。暴行を受けていた時には痛みに耐えることに必死になって寒さを気にする余裕など全くなかったが、吐く息が白くなる部屋で半裸のままこうして椅子に座らされてじっとしていると、凍てついた空気を否応なく意識せざるをえなかった。


リーベンが震えていると、クルフが机の上に畳んであった服を手にとり、リーベンに歩み寄った。そして、それを剥き出しの肩に羽織らせた。拷問の際に脱がされた防寒用ジャンパーだった。


目の前にクルフが屈みこんだ。ジャンパーの前を引き合わせながら、椅子に座ったリーベンを見上げて言う。


「改めて忠告しておきましょう」


クルフの濃紺の瞳がすぐ間近にあった。


「彼らは、尋問の対象となった者を殺すことは決してありません。どこをどうしたら最大の効果を得られるか、苦痛の与え方を知っている。そして、傷ついた人間の生かし方も。彼らはただの暴力的で野蛮な人間ではない。専門の技術を習得した者たちです。侮らないほうがあなたの身のためです」

「君の部下を侮るつもりはない。だが、君の求めるものを話すことはできない。私は――俺は、何も知らないんだ」


クルフが立ち上がり微笑んだ。しかし、今まで同様、その目に笑みはない。


「では、あなたはどうお考えですか? あなたはズノーシャ突破の命令を受けた。その後の行動はどう予測されますか」

「俺は前線の指揮官であって、司令官じゃない。戦略に関知する立場ではない」

「それは前にも伺いました。しかし、ズノーシャの攻略が北の2つの重工業都市を念頭に置いたものであることは、素人が見ても明らかです。あなたなら、この後どう駒を進めますか?」


リーベンは首を振った。


「そもそも今回、作戦は失敗した。ズノーシャに固執してまた同じ方法を繰り返すと思うか? 君の考える都市の攻略が目的だとして――別の、より確実な経路を探るのが順当だとは思わないのか?」

「ああ――方法はどうでもいいのです。最終的な目標を知りたいのですから」

「時間の無駄だ。それを知りたいなら別の情報源を探したほうがいい」


リーベンはクルフを見据えたまま、唸るようにきっぱりと言った。


先の拷問の最中、警棒で執拗に抉られた銃創は時間とともに痛みを増しつつあった。頭の芯が痺れたようになり、気を張り詰めていなければ、とたんに朦朧となってしまいそうだった。そんな状態でクルフとの埒の明かない問答を続けていれば、そう遠くないうちに、クルフに誘導され有効な情報を口にしてしまうのではないかとリーベンは恐れた。何度も深く息を吸い込み、痛みから意識を逸らそうと努力した。


そんなリーベンの前に立って見下ろしていたクルフが、唐突に言った。


「何か温かい飲み物でもお持ちしましょう」


踵を返すと、躊躇いを微塵も感じさせない確固とした足早な靴音を響かせて部屋を出て行った。


足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると、リーベンは大きく息を吐き出した。ぐったりと背もたれに上体を預けて天井を仰ぎ、目を瞑る。


クルフがここぞとばかりに追及してこなかったのは不思議だった。

拷問官を使って厳しい状況に追い込んだ後、気前の良さを示して懐柔しようというのだろう――そう理解した。


どのくらいの時間が経ってからか、こちらへやってくる足音が聞こえた。


リーベンは我に返った。気が緩み、一時意識を失っていたようだった。

クルフが飲み物を持って帰ってきたのかと一瞬考えたが、すぐに、その足音は二人分であることに気が付いた。クルフと違い、ひとつは足を踏み出す度に踵を床に擦りながら歩いていた。もうひとつは、床を踏みしめるような重い足音。

リーベンは、自分の胃がすっと冷たくなるのをはっきりと感じた。


背後のドアが開き、廊下の薄明かりを背に受けた人間が立っていた。

首をねじってその姿を見上げ、思わず息が止まりかける。入ってきたのは、拷問官の二人だった。


驚きと恐怖が一気に押し寄せた。クルフの好意的な態度に接してつい安堵していた自分が腹立たしかった。


手首の縛めを解かれ、乱暴に両脇を抱えあげられて椅子から引きずりおろされる。被弾した足が縺れてよろめいた。とたんに耳元で罵声が浴びせられる。飛んでくる拳を予期して反射的に身構えたが、拷問官たちは構うことなくリーベンを鉄の鎖につないだ。


また始まる――極度の緊張で喉はカラカラに渇き、張り付いたようになっていた。


覚悟しろ――口を噤め。ただひたすら耐えるんだ。耐えていれば、必ずいつかは終わる――。


心の中で必死にそう唱え続けた。これからすぐに再開されるであろう拷問に対して、悲壮な覚悟で気持ちを固めなければならなかった。

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