第18話 堅い枝

リーベンを二人の部下の手に委ねた後、クルフは自室で数時間の仮眠を取った。


目を覚ました時、階下から人の動き回る気配がざわめきのように伝わってきた。

時計を見るともう少しで8時になろうかという頃だった。それでも夜はまだ完全に明けきっておらず、窓に引かれた厚い浮織のカーテンの隙間からは薄ぼんやりとした光が滲んでいるばかりだったが、所内では恒常業務が始められようとしていた。


ベッドに腰掛けたまま煙草をふかしていると、遠慮がちなノックの音がして、シュトフの副官のサバルディク少尉が現れた。

サバルディクは早朝から寝室を訪ねた非礼を詫び、控えめな様子で言った。


「所長がお呼びです。時間のある時で構わないので来るように、とのことです」

「了解した」


サバルディクは断りを入れて、新しい水差しや果物籠などを載せた大きなトレイを持って部屋に入ってきた。


恐らくシュトフは、クルフの世話を自分の副官に申し付ける際に一言添えていたのだろう――尋問官という職種柄、生活時間は不規則になるので極力煩わせることのないように。そして、寝室には手軽に食べられるものをいつも用意しておくように、と。

そのためか、クルフが使っている部屋にはパンやジャム、果物や飲み物が常に整えられていた。


「大尉は情報局で尋問を担当されていると伺いましたが――」


吸殻が数本残された灰皿を下げ、新しいものと替えながら、サバルディクが遠慮がちに話しかけてきた。


「きっと神経を使う仕事なのでしょうね。尋問にあたっていると昼も夜も関係ない生活になるのですか?」


混血の尋問官に対する腹黒い好奇心というよりも、普段接する機会のない現役の情報局の人間に対して純粋に興味がある様子だった。

会話のきっかけとして投げかけられた質問に、クルフは煙草の煙を吐き出しながら表情を動かさずに答えた。


「必要に応じてそうなることもある。いつもという訳じゃない」

「尋問の時には通訳を使うのですか?」

「場合によるし、尋問官にもよる。俺はできるだけ自分で手ごたえを探りたいから通訳を使うことはほとんどないが」

「では、大尉は何か国語も話されるのですか」

「3か国語くらいなら支障なく使える」


それを聞いたサバルディクは、目を見開いて驚きの溜め息をついた。


「私は、ここに収容されている捕虜たちとごく簡単な会話程度なら何とかやり取りできますが――外国語で真剣勝負の駆け引きをするなんて、とてもできません」

「できるできないじゃない。やるかやらないか、それだけだ」


突き放すような言い方になったが、サバルディクはただただ感心したようだった。


若い副官はその後も細々こまごまとたわいない質問をしては感嘆することしきりだったが、自分がすっかり客人の部屋に長居してしまったことに気づくと、クルフに時間を取らせてしまったことを詫びて部屋を出て行った。


食堂で朝食をとれる時間は過ぎていたので、クルフは新しく準備された軽食のいくつかを腹に収めると、シュトフの部屋を訪れた。


シュトフは身支度を整えているところだった。ネクタイにシャツ姿で、暖炉のマントルピースの上に据え付けられた鏡に向かって立ち、銀髪を撫でつけていた。朝食は既に終えているらしく、部屋の隅に置かれたカートには飲みかけの炭酸水が入ったグラスやソースの残った食器が置かれていた。


「朝食はもう済んだのか、ヨヴル」

「はい」

「尋問の状況はどうだ?」


シュトフは髪を整えると、ソファーの背もたれに投げてあった軍服の上着を取り、袖を通しながら訊いた。


「明け方少し前から補佐官を使っています」

「ほう」


何度か肩を上げ下げして上着を体に合わせたシュトフは、前身頃のボタンを留めながらクルフを見やって意外そうな笑みを浮かべた。


「お前にしては珍しいことじゃないか。あの捕虜は尋問のみで落ちなかったのか」

「はい。極めて使命感の強い人間です」

「行ってみよう――構わないか?」

「もちろんです」


二人は連れ立って地下へと向かった。


玄関ホールへと続く階段を下りてゆくと、事務室になっている大広間から書類を持って出てきた将校と行き当った。

中年の域に入った恰幅のよいその大尉はシュトフの姿を見ると、来月分の運営予算の振り分けについて相談したい旨を伝えた。

シュトフは大尉の手から書類綴りを受け取ると、手元を少し離して目を細め、パラパラとめくった。


指示を待つ間、主計大尉は驚きと幾分の不信感を浮かべた目で時折クルフを胡散臭そうに盗み見た。

その視線を、クルフは冷然と受け止めた。

目が合うと、大尉は射すくめられたように体を強張らせ、ばつが悪そうに上官の手元の書類に視線を逸らせた。


「よろしい」


ざっと目を通した書類綴りを閉じて小脇にはさむと、シュトフは主計官に言った。


「少し検討しよう。30分後に執務室に来るように」


そう言いつけて、再び歩き出しながらシュトフは肩をすくめた。


「1000人もの口を満たすのは容易なことじゃない。この収容所の台所事情を見るだけでも、この国の状況が如実に窺えるというものだ」


言葉の割に悲壮感を漂わせることもなく、シュトフは飄々とそう言う。


「骨と皮ばかりになった人間たちがふらふらと目の前を歩いているのを見るのは気分のいいことじゃない。また司令部に掛け合ってみなければならんようだ」


シュトフが情報局勤めの頃から自分の仕事に熱心に取り組む様子を、クルフは常に間近で見てきた。

自分で納得できる仕事ができる環境にないと考えれば、ためらうことなく上に掛け合った。そしてシュトフ独特の快活さと、時には詭弁とも思えるような巧妙な弁術で、必ず結果を手に入れてくるのだった。


その手腕によってクルフは前例のない特別措置として軍に籍を置くことができた訳だが、一方で、シュトフは目的のためには徹底的に感情を持ち込むことのない冷徹さを持ち合わせていた。それは普段の社交的な明朗さがあるが故にいっそう際立って目立った。特に尋問の場において、時にクルフでさえ冷えびえとした空恐ろしさを感じるような、無感情な言動を見せることがあった。


大広間の壁の陰になっている、使用人が使うための狭い廊下に入り、突き当りの簡素な扉を開けて地下へと下りてゆく。

階上とは違って手入れをされていないために、壁の漆喰が剥がれ落ちてところどころ煉瓦が剥き出しになっているのが目についた。離れた間隔で取り付けられた裸電球が、黴臭く薄暗い空間に弱々しい光を放っていた。


「――そう言えば、情報局から催促の電話があったぞ。トゥベツから直々だ」


思いついたようにシュトフが口にしたのは、クルフの上官である第一情報部長の名だった。


「何か引き出せたかと訊くので答えてやった――『立派な麦穂が欲しければ、忍耐強く時期を待て』とな。あいつにもしっかり教えたつもりだったんだが」


その格言は、尋問官の養成課程で徹底的に頭に叩き込まれることのひとつだった。『焦りは決して良い結果をもたらさない』という教訓だ。


「あの男は課程学生の頃からせっかちだったが、情報部長になった今でも大して変わらんようだな。下で働く者たちは敵わんだろう。じっくり考える時間がなければいい仕事はできん」

「常に煽られていますから、今では皆も小言の半分は聞き流しています」


それを聞くとシュトフは軽い笑い声を上げて頷いた。


「それくらいでちょうどいい」


階段を下りきって一番手前にある部屋が、ヴェスカーリクから聞いていた場所だった。

錠前だけが新しいドアを開けて中に足を踏み入れると、部屋の中央付近に蹲っている捕虜の姿が目に入った。天井の梁から長く伸びた鎖が、まだ手首に繋がれたままだった。リーベンはぴくりとも動かない。


「少し休ませるために、一度独房に戻すところです」


補佐官であり、医学的な知識も持ち合わせる処置官でもあるヴェスカーリクが、入り口に現れたクルフの姿を見て状況を報告した。


「ほう……もう何年もこの屋敷で寝起きしているが、こんな場所まで来たことはなかったな」


少し遅れて入ってきたシュトフが部屋の中を見渡して言った。

ライヒェルとヴェスカーリクは、初めて見る来訪者の肩章に素早く目をやって階級を確認すると、その場で姿勢を正した。


「なかなかいい場所を見つけたな。使いやすそうだ」


シュトフが二人の下士官に感心したように声をかけた。二人は恐縮した様子で目礼した。

シュトフは作業を続けるように言い、意識のない捕虜のすぐ脇に立ってしばらくじっと見下ろしていたが、クルフに顔を向けると自嘲気味に笑って肩をすくめた。


「もう完全に現場を離れたつもりでいたが、やはり気になってしまうものだな」

「情報局で中佐から連絡を受けたと聞いた時点で、きっとそうだろうと私は確信していましたが」


クルフは思わず微笑んでそう答えた。


ヴェスカーリクとライヒェルがちらちらとこちらを窺っている。自分たちの不愛想な上官が誰かと親しげに会話している光景が信じ難いようだった。二人はシュトフがここに異動してから情報局に配置になったので、クルフの恩師のことについては知らないはずだった。


シュトフは興味深そうに部屋の中の細かな様子や台の上に置かれた拷問用の道具を見て回っていたが、思い切るようにクルフに向き直った。


「さて。もうお前の邪魔をするのはよそう」

「いえ、私は一向に構いませんが。この後尋問を行うつもりですが、立ち会われますか?」

「いやいや、私は隠居した身だ。自制しないといかん。これから財布係と切実な問題について検討しなければならんしな」


シュトフは書類を持った手を振ると、部屋を出て行った。


目を戻すと、ライヒェルがリーベンの体を足で押しやって転がし、仰向けにしたところだった。コンクリートをこする鉄の鎖が重い音を立てた。顔にも裸にされた上半身にもいくつか赤黒い痣ができていたが、クルフが想像していた状態に比べると、ずいぶん穏やかな様相だった。


「手始めに、足の傷を重点的に責めてみました」


ヴェスカーリクが捕虜の脇に屈みこんで手枷を外しながら、クルフを仰ぎ見て言った。

見ると、リーベンのズボンの左大腿部が黒ずんでぬらぬらと光っていた。銃弾を受けた部分の生地が大きく破れており、鮮血に濡れた包帯がほどけかかっているのが覗いていた。


「なかなか強情そうな男ですよ」


靴の先で捕虜の脇腹を押しやりながら、ライヒェルが愉快そうな表情をクルフに向けた。


「悲鳴ひとつ上げませんでした。果たしてどこまで意地を張れるか見ものです」


その言葉を聞きながら、クルフは目を閉じたままのリーベンの顔をじっと見下ろした。


全く声を立てなかったということは、凄まじいまでの精神力で自己保存の本能的な欲求を抑え込んでいるということだ。そういった人間は、次々に加えられる負荷にも一切泣き言を発せず、己の限界直前までひたすら耐えに耐え、そしてある時――無理に曲げられた堅い枝が、ある一点でぽっきりと折れてしまうように――唐突に限界を迎える。それは自殺であるか、精神錯乱であるか、終末の形はそのどちらかだった。

頼む、助けてくれ、もうやめてくれと泣き喚くような人間のほうが、案外苦痛には長く耐えられるものなのだ。


「色々と試すのは構わないが、加減を間違えるなよ。絶対に死なせるな」


そう念を押して、クルフは2人の部下に言った。


「独房に戻す必要はない。意識が戻り次第、ここで尋問に移る。準備しておいてくれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る