第16話 指揮官の責務
窓の外は未だ濃い闇夜だった。起床ラッパが収容所を目覚めさせるには、まだ数時間は早い。
クルフは身支度を整えてからコーヒーを用意すると、煙草を
尋問にあたっては真夜中や明け方から始めることは決して珍しい事ではなかった。一般的な生活リズムからあえて外すだけでも、相手に精神的圧迫を与え、身構えようとする無意識の反応に揺さぶりをかけることができる。
階下で物音がし、深閑とした空気が僅かに揺れた。不規則に進む足音が階段を上り徐々に近づいてくる。
クルフは煙草を灰皿に押し付けて丁寧に揉み消し、到着を待った。
ややあって、兵士に伴われて現れたリーベンは左脇を松葉杖で支えていた。板切れや木切れのようなありあわせの廃材をうまく利用して作られている。脇が当たる部分には丁寧に何重にも古布が巻きつけてある。
松葉杖のおかげか、入ってきた時の様子には今までよりもずっと疲労感が少ないように感じられた。
リーベンは執務室の中央に置かれた椅子に座ると、身を屈めて松葉杖をそっと床の上に寝かせて置いた。
「いいものが手に入ったようですね」
「ああ――仲間たちが用意してくれたものだ」
これまでとは違ってリーベンの口調は幾分柔らかに感じられたが、体を起こした時には再びいつもと変わらぬ硬い表情に戻っていた。
例によって寝ているところを突然叩き起こされて寝床から引きずり出されたのだろうが、不機嫌さを露わにする様子はなかった。
薄暗い室内にゆらゆらと大きく影を動かす暖炉の炎が、その横顔を照らし出している。引き結ばれた口元と眉間の陰影が際立ち、表情に一層
クルフはおもむろに切り出した。
「さて――前回の提案について、考えてみていただけましたか?」
リーベンは僅かな逡巡を見せることなく答えた。
「仲間に対して後ろ暗いことをするつもりはない」
「つまり、協力してはいただけないと?」
「協力するつもりはないし、そもそも私は君が望むものは持っていない」
「分かりました。とりあえずは、それがあなたの返答として承っておきましょう」
含みを残してクルフは引き下がった。
「しかし、私が先に申し上げたことは頭の片隅にでも覚えておいてくださいね。あなたは有利なカードをお持ちなのですから」
予想どおりではあったが、とりあえず、懐柔ではリーベンを落とすことはできないことははっきりした――少なくとも、今の段階では。
「ところで、先日のズノーシャの戦闘ですが――」
クルフは手元の紙に目を落としながら話を変えた。昨日、ズノーシャに布陣する部隊を統括する司令部に問い合わせの電話を入れたのだった。戦闘の詳細や戦果についての走り書きを改めてさっと読み返し、言葉を続ける。
「かなり激しい戦いだったようですね。およそ3個中隊の戦力で、あなた方の損害の規模はどれほどだったかはご存知ですか?」
「いや。壊滅状態にならなかったことを願うだけだ」
「戦死者およそ200名……恐らく負傷者も多数出たことでしょう。しかしそもそも、あの地を攻略するのにたった3個中隊というのは、戦力的に劣勢なのは明らかです。随分と挑戦的な試みでしたね。あなたは大胆な指揮官のようだ」
クルフはさり気なく「指揮官」という言葉を使ったが、リーベンは訂正しなかった。
「いったん命令が下されれば、どんな状況であれ最も効果的と考えられる方法でそれを遂行する。それだけだ」
「ああ、なるほど」
クルフは共感を込めた態度で頷いた。
「どこの国にも下に無理難題を押し付ける人間がいるということですね。そういう上官には苦労させられます。前線の部隊であればなおさら、無理強いの結果がそのまま直接兵士の命に係ってくることでしょう。大勢の部下の命を預かる指揮官として、あなたも苦労が多いことと思います」
「上官は部下を選ぶことはできないし、その反対に部下も上官を選ぶことはできない。自分の置かれた環境で最善を尽くすのみだ」
「ごもっともです」
クルフは笑って同意した。
「今回、困難な作戦を知らされた時、あなたは異議を唱えなかったのですか?」
「君でも想像できるとおり、挑戦的な作戦であることは明白だった。当然意見具申はした」
「しかし、結果としてズノーシャを攻略することはできず、無意味に200人余りの部下を失った訳ですね」
リーベンは厳しい表情で唇を噛んだ。
「それでも、見方を変えれば、全滅してもおかしくないような明らかな劣勢の中でもその程度の戦死者で済んだと言うこともできます。つまり、早い段階で兵士たちは撤退したということですね?」
「躊躇していれば手遅れになる」
「そうですか……」
クルフは呟いた。しばらく考えるように間を置いてから再びリーベンに視線を向けると、おもむろに続けた。
「この国では、たとえ苦しい戦いになろうとも、兵士は一歩も退かず、命が尽きる時まで機銃の引き金を離すことはありません。諸外国から蹂躙され続けてきた我々は、今度こそ自分たちの手で祖国のあるべき姿を取り返すために、誰もが命を投げ出します。あなたの国の兵士のように、状況が自分たちに不利になったからと言ってあっさり退却するような意気地のない者は、この国には存在しません」
実のところ、クルフは愛国心とは対極にあるような人間だった。むしろ、自分が生き抜くために国を利用していると言った方が正しいと彼自身認識している。だが、尋問に必要とあらば、いつでも純粋な愛国者を装ってみせることは容易くできる。
そんなクルフの言葉に、リーベンの顔がすっと青ざめた。発言に込められた揶揄に敏感に気づいたようだった。両腿の上に置かれた拳が固く握り締められる。
「今回の戦闘の結果は、全て私が責めを負うべきことだ。部下たちに一切の非はない」
抑えた声音だが、明らかに怒りの感情が滲んでいた。
クルフは内心で薄い笑みを浮かべた。
なるほど――ここか、この対象の揺さぶりどころは。
これまで、捕虜となった不運や、彼の受けた命令の理不尽さに共感を示し、懐柔を試みても、また、郷愁を誘うような発言を繰り返しても、淡々として頑なに揺るぐことのなかったリーベンが感情を露わにしたのは初めてだった。
感情の乱れこそ、自白を引き出す最大のきっかけだ。
組織への高い帰属意識と、部下に対する強い責任感。それゆえに、己の任務に忠実であろうとしながらも完全に没個人となって命令に盲従することができない。組織の要求と、自身の道義心との狭間で絶えず煩悶している――リーベンの心の内を、クルフはそう捉えた。
「部下たちに非はないとおっしゃいますが、捕虜になったのはあなたともう1名だけ――。指揮官を置き去りにして自分たちだけ逃げ帰るというのは、感心できることではありませんね」
あえてゆったりと、一言ひとことを印象付けるように言った。
激情をこらえようとするかのように、リーベンの唇が一瞬引き結ばれた。
「退却の指示は私が出した。彼らは皆、勇敢な者ばかりだ。誰であろうと、私の部下を侮辱することは絶対に許さない」
リーベンは鋭い眼差しでクルフを見据え、語気を強めてきっぱりと言い切った。
「これは失礼しました、お気を害されましたか。あなたはご自分の部下を本当に大切に思っておられるようだ」
クルフは相手の発言を尊重するように微笑んで、続けた。
「しかし、今回生き残った彼らも、次にはあなたの代わりの新しい指揮官を頂いて、再び同じ場所で激戦に臨むことになるのでしょう。今回のような無謀な攻撃を仕掛けてきたということは、あなた方の司令官や参謀たちは、何としても現在の戦線を突破して、目的の都市へなだれ込みたいようですね。想像してみてください、それまでにどれだけの時間がかかり、どれだけの死者が出るのか――目的の都市を陥落させたとき、あなたの部下が果たして何人残っているのか」
「――作戦を成功させるためには、仕方のないことだ」
呻くように押し出されたリーベンの言葉に、クルフは
「それはあなたの本心ではありませんね」
沈黙が流れる。
「アーナウかミルトホフか、教えていただけませんか。死体の山が築かれる前に。あなたの同胞をどれだけ救うことができるか、考えてみてください」
「君の言うことは理屈に合わない。私が話せば、仲間が救われると? そんなことはあり得ない。手ぐすね引いて待ち構える軍勢に全滅させられるのは明らかだ」
「それは違います、リーベン少佐」
クルフはきっぱりと言い切った。
「アーナウなりミルトホフなりに、かなりの規模の兵力が増強されたという情報が流れれば、迂闊に手を出すことは控えるでしょう。つまり、今回のような無益な作戦は避けられ、そのための戦死者もない、という訳です」
リーベンは溜め息をついて頭を振った。
「いずれにせよ、何度も言っているとおり、私は知らない」
「それでは、前線で戦う部下の生死に自分はもはや関心がない、とおっしゃるわけですね」
「そうじゃない」
リーベンは努めて感情を抑えようとしているようだったが、それでも口調が僅かに強まった。
「知らないことは答えようがない」
「あなたは今、ご自分の責務を放棄しようとしている。指揮官であれば、部下の命を無為に費やすことのないよう、最大限の努力を尽くすものではありませんか?」
「違う。指揮官としての責務の第一は、任務の完遂に努めることだ」
言葉こそきっぱりと反論しているが、その目には苦渋の色が滲んでいた。
「では、目標の都市の攻略に成功しさえすれば、どんなに多くの戦死者が出たところで、あなたは全く後悔はしないと?」
一瞬、リーベンは言葉に詰まった。
が、クルフに厳しい視線を向けたまま、すぐに低い声ではっきりと答えた。
「後悔はない」
張りつめた沈黙が流れた。暖炉の薪が音を立てて
自分に注がれる鋭い眼差しを受け止めたまま、クルフは口元にうっすらと笑みを浮かべ、もう一度、念を押すようにゆっくりと言った。
「それはあなたの本心ではないでしょう」
沈黙したまま、リーベンの態度は変わることがなかった。端然とクルフを見返している。
と、唐突に机の上の電話が鳴った。
受話器を取ると、ヴェスカーリクからの、諸々の準備が整った旨の報告だった。クルフは執務室の外で待機しておくよう簡潔に伝えると電話を切り、改めてリーベンに向き直った。
「少佐、あなたはこれまで指揮官として、命令を受けた者の使命と、部下の命を預かる者としての責任、この二つの重責を絶えず感じておられたことでしょう。しかし、捕虜となった今はもう、一方の責任からは解放されている。命令を忠実に遂行しなければならないという立場ではないのです。しかし私は、あなたがご自分の部下を思いやる気持ちまで否定するつもりは全くありません。ですからあえてよく考えていただきたいのです。ここで沈黙を続けた場合と、情報を明かした場合と、どちらがより多くの人間の幸福につながるのかを――もちろん、あなたも含めて、です」
リーベンは動じない。このまま尋問を続けても、時間だけが無意味に過ぎてゆくであろうことは明白だった。
クルフはひとつ溜め息をついてみせると、心持ち身を乗り出し、声を潜めて言った。
「ひとつご忠告しておきましょう、少佐」
相手の注意を引きつけるよう、ゆっくりと一呼吸の間を置く。
「この場で話していただけない時は、足の怪我だけでは済まなくなりますよ。つまりどういうことか――お分かりですね?」
リーベンの目が僅かに細められた。
「脅しか」
「あくまで忠告です。私としては、できることならあなたをそのような状況に追い込みたくはないのです。分かっていただけますか、リーベン少佐」
「――何度も言ったとおり、話すことは何もない。君の見当外れだ」
尋問を受ける際に人が見せる反応は、幾つかのパターンに分けられる――最初から怯える者。勇ましく振る舞ってはいるが、少し脅かすとあっけなく態度が崩れる者。そして、何があっても自分を保ち続けようとする者。リーベンは明らかに最後の範疇に入る人間だった。
次の段階に進むべき時だ。
クルフは廊下に控えていた二人の部下を呼び入れ、リーベンを連れて行くように命じた。
捕虜を引き立てながらこちらに顔を向けたヴェスカーリクを、クルフは無言で見つめた。ヴェスカーリクは微かに頷き、部屋の外へ出て行った。
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