第15話 仕事場の準備

馴染みのない建物の廊下を、ヴェスカーリク軍曹は迷いもなく進んでいた。後ろにライヒェル伍長が付き従う。


邸宅の一階、大広間の陰になっている廊下の突き当りに扉があった。開けてみると、暗がりの中で簡素な造りの階段が上下に続いている。天井の隅に沿ってケーブルが続いているのが見て取れた。

ヴェスカーリクは辺りを見回し、壁際にスイッチを見つけるとそれを弾いた。

僅かな間を置いて、等間隔に取り付けられた裸電球がぼんやりと周囲を照らし出した。

足元に気を配りながら地階へと降りてゆく。

もう何年もこの空間が使われていなことが分かる、黴臭く、湿気っぽい冷気が澱んでいた。


階段を降り切ると、邸宅の下の広い空間はまっすぐに続く狭い廊下に沿って幾つかの部屋に分かれていた。

ヴェスカーリクが当たりをつけたとおりだった。

厨房、洗濯室、食糧庫、ワインセラーなど、貴族の華やかな生活の基盤を一手に担う仕事場が置かれたこの地下では、かつてはこの邸宅の使用人たちが忙しく立ち働いていたのだろう。しかし、軍が接収した今では全く手入れもされず、埃が積もるに任せたままとなっていた。


階段を下りてすぐの広い部屋に入る。厨房だった。

ヴェスカーリクは後ろに続く後輩を振り返り、「ほらな」と言うように眉を上げた。


「どんなところにも必ずおあつらえ向きの場所があるものなんだ」

「すごいです、軍曹。初めての場所でどうして見当をつけることができるんですか」


続いて部屋に入ったライヒェルが、あちこち見回しながら感嘆の声を上げた。


「観察力と想像力を働かせれば簡単なことさ。頭はヘルメットを載せるためにあるんじゃない、考えるためにある」


広い空間を支えるためのレンガ積みの太い柱が数箇所で空間を遮り、頭上には太い梁と剥き出しの配管が何本も走っている。壁には調理器具をかけておくための大小様々なフックが取り付けられている。

レンジのコックを捻ってみると、ガスが漏れる音が聞こえた。水道の蛇口を開くと、赤茶けた水が弾けるように吹き出した。


ここなら水もあり、火も使える――ざっと部屋をあらためたヴェスカーリクの口元に、満足気な笑みが薄く浮かんだ。


「お前は情報局の外での仕事は初めてだったよな?」

「はい」

「便宜上、設備の整っていない所で行う場合、場所を選定する上で留意することは? 教本にあっただろう」


唐突に質問を受けて、ライヒェルは目を白黒させた。


「ええと……人目に付きにくい、音が漏れにくい、対象に心理的圧迫を与えやすい、それから……補助物品を入手しやすい」

「そのとおり。そうすると、ここはなかなか理想的だ。お前が見つけた倉庫だの古い厩舎だのよりは、よっぽど使い勝手が良さそうだろ?」


ライヒェルは頷きながら口を開こうとしたが、くしゃみに遮られた。


「でも、換気の必要はありそうですね」

「とりあえずは掃除だな。居心地良くしようじゃないか。しっかり働けよ、仕事が始まる前に散策に行きたければな」

「頑張ります」


ライヒェルはおかしなほど張り切っている。

手始めに、部屋の中央に置かれたまま埃をかぶっている木製の大きな調理台を二人がかりで隅に運ぶ。

そうしながらも、大柄な青年は顔を紅潮させて口元を緩めながら、都合のいい想像を巡らせている。


「もしかしたら村の娘と仲良くなれるかもしれませんよ。配給品のバターでも持って行けば、暖かい寝床に誘ってくれることだって――」

「おい」


ヴェスカーリクがうんざりしたように遮った。


「いいか、俺たちはここに遊びに来たんじゃないんだ。浮かれてないで、身を入れてやれよ。外で仕事をする機会なんて、そうはないんだからな。いい経験になる」

「はい」


ライヒェルは首をすくめたが、ヴェスカーリクは自分の言葉で何かに思い当たったように改めて後輩を見た。


「そう言えば、お前、そろそろ処置官の資格検定を受ける時期じゃないか?」


通常、尋問は3人が1組となり行う。尋問官の将校が1名。尋問官の補佐――つまり、場合によっては尋問と並行して行われる拷問を担当する「補佐官」と呼ばれる下士官が1名。更に、医療知識と技術を身に着け、尋問の際に必要に応じて医療行為を行う「処置官」が1名。

処置官の資格を得るには、補佐官として所定の年数を経過し、かつ、学科と実技からなる検定試験に通らなければならないのだ。


ヴェスカーリクに指摘され、ライヒェルはばつが悪そうに頷いた。


「はい。3月から受検資格がもらえます」


ヴェスカーリクは舌打ちした。


「あと4か月しかないじゃないか。お前、わざと俺に言わなかったな。ちゃんと勉強してるんだろうな」

「はい、まあ、それなりには……」


歯切れの悪い返事をして、ライヒェルは頭を掻いた。


「自分はどうも座学が苦手で。今のままで特に不満もないですし……」

「万年伍長でいいのか? 俺たちの場合、資格は昇任に必須なんだ。女にうつつを抜かしている場合じゃないぞ。これからは実技経験を積ませてやるから、学科の方も真面目に取り組んでおけよ」

「はい」


ライヒェルは諦めた表情で頷くと、部屋の隅に立てかけてあったモップを持ち出し、ためらいなく流し台に突っ込んだ。派手に飛沫しぶきを飛ばして水に濡らしながら、ヴェスカーリクに訊ねる。


「今回の尋問、どうなるでしょう。クルフ大尉からは何か話がありましたか?」


調理台の上の埃を拭っていたヴェスカーリクは肩をすくめた。


「いいや。あの上官殿は用がなければだんまりだ」


口調に棘が混じる。


尋問官にも様々な性格の人間がいて、仕事のやり方もそれぞれだ。程度の差こそあるものの、普通であれば尋問官が全体の統制を取りながら、補佐官と処置官を加えた3者で情報を共有し、連携をとりつつ尋問対象を追い込んでゆく。


だが、クルフに限っては、協同して任務にあたるという意識を全く持ち合わせていないようだった。独断的で、補佐官も処置官も、記録に使う用紙とペンのように、自分が必要とした時にだけ役に立ってくれさえすればいいと言わんばかりの態度だった。

それが、二人の部下の自尊心を――とりわけ、中退したとはいえかつて大学の医学部に在籍し、処置官として尋問対象の生死は自分が握っていると自負しているヴェスカーリクの感情を――損ねるのだ。


「たまには仕事を残してくれるとありがたいんだけどな。尋問だけでさっさと片をつけられちゃあ、俺たちの存在意義がなくなる」

「この前、自分の同期に皮肉られましたよ、『お前んとこは楽でいいよな。全部あの有能な大尉殿が片付けてくれるんだろ』って」

「良し悪しだ」


憮然としてそう言い捨てると、ヴェスカーリクはライヒェルに、情報局から持参した二つの大きなトランクを持ってこさせた。

中に入っている数種類の薬剤や基本的な医療器具を確認し、束ねられた鉄の鎖や針金、太いロープなどの必要物品を几帳面にひとつひとつ調理台の上に並べてゆく。


「その他にやっておくべきことは?」

「ええと……」


口ごもってきょろきょろと辺りを見回すライヒェルを横目で見やり、ヴェスカーリクはいつもと勝手の違う場所で戸惑うばかりの後輩に教えてやった。


「必要な場所に錠前を取り付けること。基本中の基本だろ。これじゃ出入り自由じゃないか」

「そうでした」


悪びれずににこにこと頷くライヒェルを前に、ヴェスカーリクはあきれ返って大きく溜め息をつき、きっぱりと告げた。


「よし、決めた。今回からお前の錬成を最優先課題にする。もし今相手にしている捕虜が骨のある奴なら、女の尻を追っかけてる暇はなくなるぞ」

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