第27話 不可解な思い
深閑として薄暗い空間の中で、派手に飛び散る水しぶきの音だけが異様に響いていた。その合間に、補佐官たちの罵声と、激しく咳き込み喉を鳴らせて喘ぐ声が混じる。
リーベンは後ろ手に縛られて
その様子を、クルフは壁際によけられた広い調理台の横に置かれた椅子に腰かけ、煙草を手にじっと見やっていた。
苦しがって渾身の力でもがくリーベンを押さえ損ねて、ライヒェルがよろめいた。
左肩を撃たれ、左手首は捻挫しているために、三角巾で吊った腕を更にバンドで上半身に固定している。そのせいで、いつもであれば何でもないような動きひとつにもひどく不自由そうだった。
十分な仕事ができないのであれば、別の補佐官を情報局から至急呼び寄せなければならないだろう――そう考え、煙草の煙を一息に吐き出すと、クルフは口を開いた。
「任務に支障があるのか、ライヒェル」
唐突に声をかけられ、ライヒェルは驚いたように体を起こして振り向いた。怪我の心配よりも、尋問に差し障りが出ることを嫌うクルフの不満が伝わったのだろう。この気温の中、うっすらと汗の滲んだ額に手をやると、硬い面持ちで首を横に振る。
「いえ――大丈夫です」
隣のヴェスカーリクは、捕虜を水の中に押さえつけながら上官と後輩のやり取りを窺っていたが、リーベンの顔を引き上げると憮然とした表情で言った。
「私が伍長の不備を補えますから、ご心配には及びません」
どことなく反抗的な態度を感じさせる言い方だったが、クルフは黙って頷いた。
リーベンは床に蹲り、体を震わせながら息もつけない様子でむせ返っている。水責めのために上半身はずぶ濡れになっていた。ようやく呼吸が落ち着いてくると、切れ切れに喘ぎながら床の水溜りの中でぐったりと横たわるばかりだった。
クルフは席を立つと、リーベンの元に歩いて行った。
『もし、ダルトン軍曹に少しでも危害を加えるなら、俺はためらわずに、すぐさま舌を噛み切って自殺する』
リーベンの言葉が思い出された。
『そうなったら、困るのはあんた達のはずだ。情報を知っているのは、この俺ひとりなんだ』
クルフは苦々しい思いで僅かに顔をしかめた。
リーベンの親友であるというダルトンを利用して自白を迫ろうとしたことが、逆手に取られたのだ。尋問対象に主導権を握られるなど、尋問官にとっては屈辱的とも思えることだった。しかも、リーベンは朦朧とした意識の中でとっさにその状況を判断した。部下であり親友でもある男を庇うために、自分があえて苦境に陥ることを選んだのだ。
クルフはリーベンの脇に屈みこむと、目を閉じて苦しげに短い呼吸を繰り返す男にじっと視線を注いだ。
唇も瞼も腫れ上がり、顔も体も、痣がない所の方が少ないくらいだ。背中には縦横に鞭痕が走っている。体の至る所に散らばる裂傷や切り傷からは出血し、コンクリートの床に擦れてあちこちに赤い染みをつけていた。
クルフの中で、この不可解な男に対する様々な疑問が巡っていた。
一体、この男を支えているものは何なのか。自分の命が惜しくはないのだろうか。なぜ他人を庇って自分が追い込まれる状況に耐えられるのか。
名誉のためか? 他人からの称賛が欲しいのか?
だがそれらは、生きて戻らなければ意味のないものだ。今の状況においてなお、生への希望を持ち続けられるとしたら、それは感嘆すべき精神力だ。
それとも、むしろ逆に、完全に死を覚悟したということか。大義のための死を受け入れた者ほど、その行動は大胆に、意思は途方もなく強固になる。そうなると、自白を引き出すことは格段に難しくなってくる。
「続けましょうか?」
ヴェスカーリクに声をかけられ、クルフはおもむろに立ち上がると、後ろに引き下がった。
再び補佐官が二人がかりでリーベンの体を起こし、無理矢理に跪かせる。
リーベンは僅かに体を
壁際の椅子に戻り、煙草を持った手をゆったりと口元に運びながら、二人の部下が捕虜をいたぶる様子にじっと目を当てる。
リーベンが所持していた――今はクルフが保管している――故郷からの手紙が思い浮かんだ。
妻子の元に戻りたいとは思わないのだろうか。自分の人生よりも、課せられた使命が大事だとでもいうのだろうか。
生命の危機にあって――しかも、自分がその危機を確実に回避できる選択権を持っている場合であっても、そう言い切れる人間が果たして幾人いるだろうか。
クルフにとって、リーベンの態度は理解しがたいものだった。
――死を覚悟し、思考も感情も硬直させているのだとしたら、今の状況からいったん完全に負荷を除く必要があるかもしれない……。
そう考え、今後のリーベンの状態次第では尋問方針を変更する可能性を頭に留めた。
彼は調理台の上に置かれた灰皿に短くなった煙草を押し付けて丁寧に揉み消すと、部下に声をかけた。
「そこまででいい。これから尋問に移る。準備してくれ」
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