第25話 衝撃
朝、まだ夜の暗さの残る広場に集められて、いつものように点呼を待つ1000人近い捕虜たちの間には、異様な緊張感が漂っていた。
昨夜の騒ぎを知らない者はいなかった。直接情報を得られなくとも、どうやら誰かが脱走を企てたらしいということは、既に周知の事実だった。脱走は重罪だ。そして、自分たちには『連帯責任』が科せられることになる――皆、言葉もなく不安に満ちた眼差しを交わすばかりだ。
点呼の列に並びながら、誰にもましてダルトンは緊張していた。
真夜中、突然けたたましく鳴り響いたサイレンの音とほぼ同時に、血まみれになった二人の兵士が吹雪と共に医務室に転がり込んできた。大柄な兵士は肩から出血していた。支えてきた兵士は、大声で悪態をついている負傷者を無言で診察台に押し上げると、激しい怒りにひきつったような蒼白な顔で再び外へと走り出ていった。
一瞬あっけにとられたダルトンとミラーだったが、すぐにエカートを呼び処置に取り掛かった。
傷は銃創だった。怒鳴り散らして暴れる兵士を押さえつけながら、軍医と二人の衛生兵は愕然として互いに目を見交わした。
状況から、仲間の内の誰かが脱走を図り、監視の兵士を負傷させたと考えるべきだった。脱走を図っただけでも
広場に整列する捕虜の群れの前に、管理係長である若い将校と通訳がいつものように姿を現した。点呼報告が行われ、係長が書類に数字を記入する。そして、捕虜の一群をぐるりと見渡した。男たちの間の緊張が高まる。
だが、係長は通訳に解散を命じると、そのまま何事もなく立ち去った。
ダルトンは思わず、後ろに並んでいたミラーを振り返った。ミラーも不可解そうな表情で頭を振る。日頃と何一つ変わることなく、朝の点呼は終了した。
「どういうことなんだよ」
たくさんの足跡でまだらに踏み固められた雪を踏みしめて、足早に医務室に戻りながら、ダルトンは混乱して呟いた。
「自分のところの兵士がひとり撃たれてるんだぞ。それでもあいつらは黙ってるってことか? お咎めなしなんてことがありうるのか?」
「とにかく、何もなくて良かったですよ」
ほっとした表情でミラーが言う。
だがダルトンは納得できなかった。どうしても何かが引っ掛かる。漠然とした居心地の悪さに、どの仕事にあたっていてもずっと上の空だった。
昼が過ぎ、洗濯済みの包帯をきれいに巻き直しながらも、頭の中は堂々巡りの問答を続けていた。
そもそも、脱走を図った人間は、なぜあんな吹雪の夜に決行しようとしたのか。荒天時のほうが監視の目は盗みやすい。だが、あの激しい地吹雪の中では、たとえ脱走に成功したとしても、自分自身が凍死する危険性の方がはるかに高いということは簡単に想像できるではないか。
そして、何事もなかったかのように行われた点呼。それはリーベンの姿が消えた時も同じだった。
――もし、脱走を図って兵士を負傷させたのがデイヴだとしたら……。
ふと思い至った推測に、すうっと背筋が冷たくなる。不安が膨れ上がり、息苦しくなって窓の外に目を転じた。
その時、ダルトンの目に、鉄条網の向こうを歩いてくる二人の将校の姿が映った。遠目だったが、すらりとした姿と陰影を濃く落とす顔立ちは見間違えようがない。
「――あいつだ」
ダルトンは弾かれたように立ち上がった。その拍子に倒れた椅子にも構わず、医務室を飛び出す。
「軍曹! どこに行くんです!? 軍曹!」
ミラーが驚いて声を上げた。だが、ダルトンは振り向くことなく猛然と広場を駆け抜けてゆく。監視塔の上から兵士が小銃の狙いを定めて自分の動きを追っているのを感じていたが、それさえも構わずに鉄条網に走り寄った。
「おい、あんた! ちょっと待て!」
並んで歩いていた二人の将校は足を止め、振り向いた。ひとりは確かにクルフだった。
ダルトンは大きく息をつきながら、鉄条網越しにクルフを睨み付けた。
「デイヴをどこにやった。あんたなら知ってるはずだ」
クルフとその隣の初老の将校は、無言で顔を見合わせた。傍らの将校はクルフに向かって微かに笑みを浮かべ眉を上げてみせると、管理棟に向かって歩き去っていった。
クルフの、表情の見えない暗い藍色の瞳がダルトンに向けられた。
「用件は何でしょう」
「デイヴィット・リーベン少佐。彼の姿がもう何日も見えない。あんたは知ってるな?」
クルフは答えず、しばらくじっとダルトンを見つめていた。が、ふとその左腕に巻かれた赤十字の腕章に目を留めると、感情を露わにしない声で言った。
「あなたは衛生兵でしたね――いいでしょう、手伝ってもらいたいことがあります」
クルフはそう言って、ダルトンについてくるよう促した。ゲートから外に出され、管理棟へと伴われる。
建物の中に入ると、事務仕事が行われている左右の部屋の間を抜け、奥まった廊下に入った。そのまま地下へと降りてゆく。階上とはまったく違う陰気な空間に、ダルトンは戸惑いを隠しきれず、ためらいなく先を行くクルフの背中を見つめた。
施錠されていたドアを抜け、ひとつの部屋の前でクルフは振り返った。無言のまま、ダルトンを促すように扉を開ける。
薄暗い部屋に足を踏み入れ、奥に人の姿を認めたとたん、ダルトンの全身から血の気が引いた。体中の筋肉が一瞬で硬直したかのような感覚に襲われる。
部屋のなかほどに、ひとりの人間が天井の梁から延びた鎖に吊るされていた。息が白くなるような気温の中、引き裂かれてあちこち破れたズボン一枚しか身に着けていない。露わになった上半身は血にまみれ、青黒い痣や筋状の裂傷が至る所に浮かび上がっていた。意識がないのか、顔は伏せられ、足は力なく床に垂れている。
「彼が誰か分かりますか」
クルフがその髪を掴み、顔を上向かせた。
ダルトンは思わず息を飲んだ。
男の顔にはいくつもの痣が浮き、血がこびりついている。腫れが酷く、造作もよく分からないほどだった。両瞼は赤黒く腫れ上がり、目を開くことさえ難しいように思われた。
ダルトンにはそれが誰だか分からなかった。だが、嫌な予感に喉がきつく締め付けられるようだった。言葉もなく棒立ちになっていると、淡々とクルフが続けた。
「あなたの上官の、デイヴィット・リーベン少佐です」
「まさか――。まさか……殺したのか……?」
目の前の人間のあまりの状態に、思わずダルトンは空恐ろしい思いで呟いた。
クルフは男の髪から手を離すと、吊るされた男の傍らにいる兵士に目で合図した。とたんに、力ない体に容赦なく警棒が叩き込まれる。
しばらくすると、微かな呻き声が聞こえた。クルフが男の耳元で囁いた。
「少佐、あなたに面会です」
張りつめた沈黙の中、男が渾身の力を振り絞るように、のろのろと顔を上げた。たったそれだけの動作でも辛いようだった。苦しげな声が喉の奥から漏れる。その瞼が震えた。
「……バ……ト……?」
掠れてほとんど聞き取れないような声で、ダルトンの名を口にする。
「そんな……デイヴ……本当にお前なのか……?!」
「……バート……俺は、大丈夫……心配するな……」
途切れ途切れにそれだけ呟くと、リーベンは力尽きたようにがっくりと項垂れた。
「デイヴ!」
思わず駆け寄ろうとしたダルトンは、二人の兵士に押さえ込まれた。もがきながら、激しい怒りに震える声で怒鳴る。
「どうしてこんなことを……!」
「彼は頑固すぎる。我々に協力的な態度を見せてもらえるなら、ここまでのことをする必要はないのですが」
リーベンの姿を見ながら淡々とそう語ったクルフは、ダルトンに顔を向けると言い含めるように続けた。
「あなたとリーベン少佐は、個人的にも親しい間柄でしたね。彼が痛めつけられるのを黙って見ているのですか」
一瞬、ダルトンはクルフの意図を測りかねて沈黙した。だがすぐに、この尋問官が何を言わんとしているのかを理解した。彼は叫んだ。
「俺は知らない! 本当に知らないんだ!」
ダルトンは、彼らが望むものを――親友を救える切り札を自分が持っていないことに絶望した。
一体どうしたらデイヴを助けられるんだ――。
クルフが二人の部下に向かって何事かを短く指示した。
途端にダルトンはレンガ積みの太い柱に押し付けられた。ひとりが――昨晩、肩を撃たれた兵士だ――鎖のついた手枷を嵌めようとする。
ダルトンは無我夢中で抵抗した。
「くそっ! 何するんだ、離せ!」
激しい揉みあいの
「……よせ……」
誰もが動きを止め、振り返った。
ようやく顔を上げ、声を出すことさえ苦しそうな様子のリーベンが、クルフに向かって絞り出すように呻く。
「もし……ダルトン軍曹に少しでも危害を加えるなら……俺はためらわずに、すぐさま舌を噛み切って自殺する。そうなったら……困るのは、あんた達のはずだ……。情報を知っているのは――この俺ひとりなんだ」
冷然とリーベンを見やっていたクルフの眉が、不愉快そうにぴくりと動いた。
「なるほど――」
そうひと言呟いたクルフの顔に陰惨な薄い笑みが広がるのを見て、ダルトンはぞっとなった。
「情報を持っているのはあなたひとり――。では、私達は何としてもあなたから教えていただくことにしましょう。既にそれなりの覚悟もお持ちのようだ」
「駄目だ! デイヴ!」
拷問官に体を押さえつけられたまま、ダルトンは叫んだ。体が震えた。
まただ。またデイヴはひとりで全てを背負い込もうとしている――瀕死の状態になってもなお、仲間を庇おうとする――。
涙があふれた。ダルトンは滅茶苦茶に喚いた。
「駄目だ! 死んじまう! もうやめてくれ! 頼むからもうやめてくれ……!」
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