第37話 与えられた時間

ふと気が付くと、辺りは真っ暗闇だった。

自分がどこにいるのか、手探りして確かめようとする。だが、腕を動かすことができない。腕だけではない。体も、脚も、顔さえも、微動だにしない。そのことに気づいた瞬間、たとえようもない不安と恐怖に支配される。


どこでもいい、何とか動かそうと渾身の力を振り絞る。だが、食いしばった歯の間から呻き声が漏れるほど力を入れても、どうにもならない。

僅かな望みにかけて、縋るような思いで虚空を見つめる。だが、視界に映るのは闇だけだ。


その時、人影のようなものが揺らめいた。助けを求めて声を出そうとした時、体が引き裂かれるような激しい衝撃と痛みに襲われた。

思わず悲鳴が漏れる。

刻み付けられた恐ろしい記憶――鞭での打擲ちょうちゃくだった。容赦なく繰り返されるうちに、自分が鞭打たれているのか、警棒で殴られているのか、それとも足蹴にされているのか――それすらも分からなくなる。今にも弾け飛びそうになる意識の下で感じるのはただ、耐え難い痛みだけだ。


やめてくれ――もう――頼むから――。


震える声で必死に叫ぶ。だが、暴行は収まらない。


助けてくれ――バート――ああ――バート……!




自分の叫び声に驚いて目を覚ますと、視界にはこちらを見つめている灰色の瞳があった。戸惑い、怯えたような顔で若い娘が覗き込んでいる。

これが夢の続きなのか現実なのかとっさに分からず、リーベンは荒い息のまましばらく茫然と彼女を見返していた。


どのくらい無言で向き合っていたのか、ようやく我に返った彼は、自分が相当な力で彼女の手を握り締めていることに気が付いた。


「……あ……申し訳ない……」


リーベンはうろたえて慌てて手を離した。

彼女はおどおどと目を泳がせてさっと手を引っ込め、数歩後ずさった。そして、思い出したように傍らに視線を投げると、チェストの上に置いてあった洗面器をつかんで逃げるように部屋を出て行った。


その様子を目で追っていたリーベンは、今の女性が一体誰だったのか、まだ悪夢の余韻から抜け切らない頭で考えを巡らせた。

飾り気のないワンピースに白い前掛けをした格好からは、小間使いのように見えた。改めて部屋を見回してみる。今までと同じ家具、同じ壁紙――つまり、自分がいる場所は変わっていない。初めて見る女性の存在だけが違っていた。


寝ていると思っていた男にいきなり力任せに手を掴まれ、どんなにか驚いたことだろう――閉められたドアを見やって、ひとつ溜め息をついた。


悪夢を見ていたせいで体は強張り、ぐっしょりと汗に濡れている。肌にまとわりつくシーツの感触が不快だった。


夢の中でも拷問の記憶に苛まれ、救いを求めて必死に親友の手に縋ろうとしていたことを思い出す――地下の暗がりの中で、ダルトンは少しでもリーベンを安心させようとするかのように、いつも手を握っていてくれたのだった。


しばらくして、ドアの開く音に目を上げると、先ほどの女性が水を張った洗面器を両手で支えて慎重に入ってきた。外に出ている間に落ち着きを取り戻したようで、今は取り立てて感情を表に出してはいなかった。


持ってきた洗面器をベッド横の丸テーブルの上に置くと、彼女は濡れた手をエプロンで手早く拭き、包帯と薬の瓶を取った。ベッドから少し離れたところに立って、リーベンに向かって掲げて見せる。


手当てをしてくれるということだろうか……。


硬い表情のまま、彼女は短い言葉で何かを言いながら、手を軽く振りあげるようにしている。どうやら体を起こすように言っているようだった。


どこまで動けるのか、自分自身でも分からなかった。慎重に両肘をついて上半身をなんとか浮かせ、そのまま起き上がろうとしたが、全身がまだ熱っぽく、頭を動かすと眩暈のような気分の悪い浮遊感に襲われる。

それ以上動くに動けず、リーベンは眩暈をやり過ごそうと頭を垂れて目を瞑り、じっとしているしかなかった。


仕方ないと考えたのか、彼女は手を伸ばすと包帯を解きにかかった。恐怖心を隠しているような様子でどことなく及び腰だが、手際はよく、その手つきから看護婦なのだとようやく分かった。

できるだけ痛みを与えないようにと注意を払って処置していることは感じ取れたが、にかわのように張り付いた箇所をゆっくりと剥がされる度、皮膚そのものを剥き取られるのではないかと感じるほどの激痛が走った。必死に息を殺し、声を上げないように歯を食いしばるが、耐えきれずに呻き声が漏れる。


消毒薬を垂らされた時には更に酷かった。傷の一つ一つに液を振りかけ、ガーゼで拭っていくのだが、灼けるような痛みに何度も卒倒しそうになった。爪のない指先が白くなるほどの力でつかんだシーツの上に、脂汗が滴り落ちる。


唐突に、はっきりとした声で彼女が何かを言った。

驚いて顔を上げたリーベンの視界に入ってきたのは、大柄な拷問官の姿だった。痛みに堪えることに必死になるあまり、兵士が部屋に入ってきたことすら気づかなかった。


自分の心臓の鼓動が突然耳元で大きく響き始めた。拷問官の姿を目にする度に、発作のように体が反応してしまう。体から血の気が引き、抑えようもなく震えが湧き上がってくる。

彼女が訝しげにリーベンを見た。


だが、拷問官はリーベンなど気にも留めない様子で、持っていた新聞を愛想よく彼女に差し出した。彼女は包帯を巻く手をいったん止めると、笑顔でそれを受け取った。

二人は少しの間言葉をやり取りしていたが、やがて拷問官は何かを請け負ったように何度か頷きながら軽く手を上げると、部屋を出て行った。


とたんに緊張の糸が切れ、リーベンは倒れ込むように枕に突っ伏した。

ちょうど手当てが済んだようで、看護婦は取り立てて彼に注文を付けるでもなく立ち上がると、薬品の入った小瓶や器具を手早くまとめてベッド脇を離れた。


リーベンは脱力感にしばらく身動きできずぐったりと横たわっていたが、体が冷えてきたのを感じて痛む腕をそろそろと伸ばし、脇に除けられていた布団と古いシーツを引き寄せて体に掛けた。部屋の中は温められているとはいえ、素肌に包帯だけの姿ではさすがに寒い。


看護婦が新聞を適当な大きさに折ってチェストの上に隙間なく敷き、細々とした用具を几帳面に並べ直す様子を見るとはなしに見ていた。視線を感じてはいるのだろうが、看護婦はできる限り目を合わせないように振る舞っているようだった。


――ミルトホフの攻略作戦はどうなっただろう……。 


体に無理強いしたために疲れ果て、靄がかかったような頭でとりとめのない思考を巡らせる。


もう実行されたのだろうか……。だが、たまに訪れるクルフの態度は変わっていない。拷問官たちの様子もいたって穏やかだ……それなら戦況が大きく動いたという訳ではないのだろう……。


しっかりと状況を観察して把握したかったが、今の状態ではどうにもならなかった。


ただじっとして、体の回復を待つしかない。そのための時間がいつまで与えられるのか――いつまた地下に戻されるのかは分からないが……。


それを考えてしまうと、冷えびえとした空恐ろしさに襲われて気持ちが挫けそうになる。その懸念をできる限り意識の外へ押しやりながら、リーベンは眠るために目を閉じた。

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