第18話 侵入者
ぽつん。ぽつん。
――雨だ。
人間がいなくなり、静けさだけが取り残された街に、雨粒は囁くように地面を叩く。最初は確かめるように慎重だった雨足は、瞬く間にその勢いを増して、あちこちで伝播し始める。
「雨、ですね……」
「そういえば朝からどんよりしてましたからねぇ」
岡崎の呟きに伊藤のばあさんがのんびりとした調子で相槌を打つ。
しばらくぶりに見た雨を部屋から眺めていると、なんだか新鮮な気持ちになってくる。雨を最後に見たのは、ちょうどインフルエンス・パニックが始まる少し前くらいだっただろうか。
そこで王馬が仕切り直すようにコホンと咳払いした。
「岡崎、いい加減そろそろ決めないと」
「ああ、そうだな。そ、それじゃあ神城さんは八代さんに付いて行ってもらうことにして、これから僕らの今後の方針について話したいんですが……」
おいこら待て。お前、俺にこの女押し付けやがったな。
俺を蚊帳の外にして始まった話し合いに抗議を唱えようとした時、横合いから服の袖を引っ張られた。
「そんなに私とはいや?」
「……いや、そういうわけじゃないけど」
灯の直球な質問にたじろぐ。
正直、そんなに灯が嫌というわけでもない。顔だって美人の類に入るし、今まで見た限り、性格も嫌いじゃない。おまけに本当かどうかは定かではないが、俺に恩義を抱いている。それなら、ここを出た後に言い様に丸め込んで愉しみ、飽きたら殺して処分すればいいだけではないかとも思う。
ただ、俺の本能の奥底で、何かが警鐘を鳴らしているのだ。この女は危険だ、関わらない方が身のためだ、と。ただの勘でしかないが、だからといって馬鹿には出来ない。第六感とも言うべき危険予知の能力は、一馬の鍛錬で自然と磨き上げられた。
「――分かった。正直、人数は多い方が助かる。灯にも捜索をお願いしようかな」
「……ええ、よろしくね」
しかし結局俺の出した答えは、灯の出された右手を握ることだった。握手した手のひら越しから、灯のすべすべした細く冷たい感触が伝わってくる。いつまででも握っていた良くなる、そんな心地よい手だった。
灯の同行を許したのは何よりも最大の理由は、やはり人手不足の解消だ。正直、今の所逃げた狸を追う有効な手段がほとんどないのが現状だ。頭も回りそうなこいつなら、何か有効な追跡手段を思いつくかもしれないという僅かな期待と、いざとなれば殺せばいいという楽観的な考えからだった。
まあ、愉しんでから始末するのでも悪くないか――。
「――それじゃあ、皆さん意見は一致しましたし、僕らはここから一番近い避難所に移動することにしましょうか」
「ええ、それが一番だと思います」
あちらも方針は決まったらしい。岡崎に首肯した伊藤の婆さんが中央のテーブルに地図を拡げる。どうやらこの家にあったのを見つけてきたらしい。
「今の場所がここ。そうなると一番近いのは……桜坂高校だな。ここからニ十分くらいだけど、ここも避難所だったよな?」
「ああ、基幹避難所ではないけど、地域避難所には指定されている。まずはここを目指して、ダメだったら次に近い……ここだ。浮島中央体育館。ここなら基幹避難所に指定されているし、滅多なことでは崩壊していないだろう。ただ、ここからけっこう距離があるから、まずは桜坂高校に行ってみよう」
「すまないねぇ、私たちみたいな老いぼれがいなきゃぁ、若い人だけでもそっちにいけただろうに」
「いいえ、どのみち、移動距離が長いほど、感染者と接触する確率も上がります。これが最善なんですよ。だから伊藤さんたちが気に止む必要はありません」
そう言って岡崎が伊藤婆さんに微笑んだ。マダムキラーかよ。本当に人間出来てるな。
「それじゃあ俺と灯も有斐さんを見つけたらそこに向かうとするよ。みんな気を付けて」
「八代さんこそ、今度会う時はもっと他愛無い話でもしましょう」
全員の方針が決定し、やっと場の空気が弛緩しかけた時だった。
ガシャァンッ!
突如鳴り響いたガラスの破砕音に俺たちの顔は凍り付いた。
『――ッ!?』
「もういやっ! 今度は何なのっ!?」
サイドテールがヒステリックな悲鳴を上げ、王馬が慌ててサイドテールの口元を塞ぐ。
次いでこちらに近づいてくる複数の足が聞こえてきたとき、場の緊張はピークに達した。
「か、感染者かっ!? 何で近づいてくるんだよぉ!」
「和彦はどうにかその娘を静かにさせて! 八代さん、一緒に外の様子を!」
「……分かった」
なかなか面白いことになってきた。俺は岡崎とそれぞれ得物を持ち、音のあった方の部屋に忍び足で移動する。
感染者から見えないように、この家に入った時にリビングのカーテンはレースを閉め、他の二つの部屋は遮光カーテンまで閉め切っていた。昼とはいえ薄暗い部屋の中、息をひそめて岡崎は先行する。
外からは先ほどまで聞こえていた足音は聞こえない。奴らに足音を殺すなんて知性はないから、ここは素通りして行ったのか。
そんな一縷の希望を抱いたであろう岡崎がカーテンの隙間からそっと窓を覗いたとき、お預けを喰らったようにそこで立ち尽くしていた感染者と岡崎の目が合った。
「――ッ!」
感染者? いや、『そいつ』に俺は見覚えがあった。特徴的なモヒカン頭、肥満体型だが、内実その中に膨大な筋肉を内包している手足。その口元は相変わらず歪な弧を描いていた。
「岡崎くん、逃げ――」
「ひゃはっ」
次の瞬間、モヒカンの組まれた両手が、俺たちを隔てる厚い窓ガラスを軽々とぶち抜いた――。
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