第4話 新世界へようこそ
「きゃあ!」
俺は紺野さんの頬をぶつ。力は加減してあるが、日ごろ暴力を振るわれる経験がなかったらしい紺野さんはそれだけでも悲鳴を上げた。
「な、なにを……きゃあ! あっ! うっ!」
それから俺は何度も紺野さんの頬をぶつ。その度に面白いほど紺野さんは痛みに顔を歪め、苦悶の声を上げた。
「お母さんをいじめるな!」
「翔っ!?」
十回目くらいのとき、それまで恐怖でうごけなかった息子が、母の腕からするりと抜けると、俺に掴みかかった。最も、掴みかかったとはいっても身長差があるため、俺の足に絡みつくだけだったのだが。
「翔、だめ! 逃げて!」
「嫌だ! 僕がお母さんを助けるんだ!」
感動の場面だ。暴力を振るわれる母を少年が身を挺して護る。ただ残念なのは、少年がまだ幼く、俺が世間一般の悪役のように少年を見逃がしたりはしないということだ。
俺は足にしがみつく少年を片手で持ち上げると、その小さい腹に少々重いパンチを入れた。それだけで五月蠅かった少年は黙り、紺野さんは悲痛な声を上げた。
「一馬、アンタが俺を鍛えた理由、それが今分かったよ」
俺は呟くと、踵を返して部屋を後にする。後ろから紺野さんは慌てて駆け寄ってくるので、振り向きざまにローキックで片足を折る。
「うぁああああああ!」
途端に悲鳴を上げて蹲る紺野さん。その紺野さんの髪を引っ張って引きずり、俺は部屋の前にその親子を放り投げた。
「うううう……ッ!」
痛みに涙を流していた紺野さんは、通路を見て絶句した。当然だろ。あれだけ叫べば感染者なんて諸手を挙げてやってくるさ。
「う、嫌ぁああああああ!」
階段から押し寄せる感染者に、紺野さんは絶叫しながらも息子を胸に掻き抱いた。
この状況で大した親子愛だ。だが――
紺野さんは這って必死に逃げようとするが、一体のゾンビに長い髪を掴まれてしまう。
「痛いっ! は、放してください……っ!」
「キシャァアアアア!」
紺野さんは痛みを訴えるが、勿論ゾンビにそんなことを言っても通じない。やがて紺野さんは、感染者たちに腕、足首、腰などを掴まれ、完全に動けなくなってしまう。
そして、そこからが俺の待っていた光景だった
感染者の一体が、紺野さんの肩口に噛みついた。
「いたっ、痛ぁあああああああああああああいいいい!!」
紺野さんが激痛に絶叫する。頬をぶつだけで悲鳴を上げた彼女に、その痛みは酷過ぎた。そして次々と感染者たちが紺野さんに群がっていく。まるで、蜜を求めるミツバチのようだ。だが、その光景は生々しいなどというレベルではない。
「いたっ、ぐあ、やめ、おぅぶ、ぐふぅおおおおおおおおおっ!!!」
生きながらにして喰われると言うのは、想像を絶する苦痛なのだろう。紺野さんは、絶叫し、白目を剥いて涙を零し、失禁しながら痙攣した。
どんどん体積を減らしていく紺野さんから、やがてゾンビたちの標的はその息子に変わる。
母親が突如喰われるという事態を、少年は、ただ呆然と眺めていた。やがて、ゾンビの一人が子供の脇に手を入れて、上に持ち上げる。
「――あ」
次の瞬間、ゾンビの歯が、子供の頭に突き立てられていた。ガリガリと歯が頭蓋骨を削る音。そこで思い出したかのように子供は泣きだした。
「うぇえええええええええん――ぁ」
だが、それもすぐに止む。ゾンビの一体が、子供の白く突き出た骨の奥――ピンク色の部分に人差し指を入れて――グルグルとかき混ぜ始めたからだ。
「パパ大好きアンパンマンおねしょみさきちゃんあそぼこうえくるまじてんしゃおうだんほどうしゅくだいしなくちゃいこやろぱがぱあああああああああああはははははあはははははははははははっっっ!!!」
わけのわからない事を叫び始めた子供を、ゾンビたちは黙々と食べ続けた。俺はそれらをただ、茫然と眺めていた。
――美しい。
それは、知り合いが食い散らかされることに対してだったのか、それとも人が人を喰らうという光景に対してだったのか。どちらにせよ、俺は紺野親子が綺麗に食べ終えられるまで、その一種神秘的な光景に魅入っていた。
やがて食事を終えた感染者たちは口元を朱色に染めながら顔を上げる。そしてこちらを見るが、まるで俺には焦点を合わせず、そのままそれぞれ階段の先へ消えていった。
俺はしばらく呆然と紺野さん親子の死体を眺めていた。すると、やがてその体が痙攣すると、ゆっくりと二人は立ち上がった。母の方は、ほとんど肉を食い散らかされ、ところどころ白骨が覗く状態で、子供は、頭の半分をかじり取られながらも、比較的喰われた後のない右手で――そっと母の左手を握った。
そう、まるで生前の親子のように。
涙が両頬を伝った。親子は、そのままこちらへ向かって歩んでくる。しかし、またも俺を素通りすると、階段をゆっくりと下って行った。
「……」
俺は、全身に走る身震いを必死に我慢した。叫びだしたい衝動を抑え、ぎゅっと固く拳を握った。
――その体に走るのは、感動。
僅かに残った理性の残滓が、その感覚はいけないものと否定するが、身体の武者震いは止まらない。
俺も噛まれたことで狂ってしまったのだろうか。そういえば、さっきも感染者は俺だけ見えていないようにしてたし、もしかしたら俺は既に奴らの仲間になっているのかもしれない。
色々思考を巡らすが、すぐにどうでも良くなった。パトカーの音が蝉の声を割って聞こえてきた。
手すりから眼下を見下ろすと、あちこちで死体が闊歩し、道端に転がる何かを貪り食っていた。世界は、全く新しい物へと姿を変えていた。
「……まあ、何でもいいや。今まで必死に一馬の理想を押し付けられて育ってきたんだ。これからは好きなように生きるとするか」
そのために力を与えてくれたんだろ? な、お父さん――
心中でそう付け足して嗤う。なんという皮肉だろう。心底おかしかった。
笑っていると、ズキンと左腕が疼いた気がした。
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