第3話 目覚め
「―――――――つぅ…………」
長い夢を、見ていた気がする。
飲み過ぎた翌日のように頭は重い。意識も霧がかかってるようにはっきりしない。
薄く目を開けると、充血した眼が間近でぎょろりとこちらを向いた。
不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、どこか愛着さえ湧く血走った瞳だった。やがて紅い瞳は遠ざかり、明瞭となった視界には見慣れた教室と、見慣れない泥人形のような死体が映った。
おや。
ここでも俺は首を捻る。周りを見渡すと、そこはどうやら大学の教室だった。黒板には一馬にうんざりするほど聞かされた四端の心の板書。
そこで、俺は全てを思い出した。
「あー、俺、死んだのか」
口に出してみると、途端にそれはインチキ臭く鼓膜を叩いた。自分の左胸に手を置くと、ドクンドクンと音が聞こえる。どうやら死んだわけではないらしい。
だが、そうなるとやはり疑問が湧く。教室は最後の記憶――ゾンビが暴れた時の光景とほぼ一致していた。左端の窓には、両腕が消失した女が頭から体半分を外に投げ出している。あれは意識を失う前に俺のやったものだ。どうやら以前の記憶も夢ではないらしい。
「けど、それじゃあ俺だって死んでるか感染してるはずだぞ……」
記憶の本当に最期――片腕を失い、両耳を引きちぎられ、体が穴あきチーズみたいになった俺はそれでも教室にいた感染者のうち、そのとき立ち上がっていた者全てを無力化した。こればっかりは一馬の英才教育の賜物であったと言えるだろう。最後の一体を倒したところで流石に俺も倒れ、そこからは記憶がない。だからてっきり、ゾンビのお仲間にでもなったかと思ったが……。
「身体に主だった傷は……ないな」
もがれたはずの左腕も、噛み千切られた両耳も当たり前のようにくっついていた。ただ、衣服についてはは真っ赤に染まり、乾いた血でカピカピになっていることから、あれが白昼夢だったという可能性も薄そうだ。
自分で言って首をかしげたくなる。そして首をかしげたくなることと言えばもう一つ。
先ほどから教室を徘徊している二体の感染者。おそらく、俺が倒れたあとに感染者となって活動を始めたのだろう。奴らが、俺に全く反応を示さないのだ。俺が立って、喋っているにも関わらず、だ。たまにこちらに顔を向けるが、焦点は俺を捉えることなく右往左往する。
「もしかして、奴らからは俺が見えていない、のか?」
やはり首をかしげる。そんな都合の良いことがあるものなのか。そもそも、これは一体何が起こっているのか。
そこまで考えて、調べればいいじゃないかと今更な結論が湧いた。ポケットからスマホを取り出して起動する。液晶は割れているが電源は点いた。ほっと胸をなでおろし、いつも使っている検索サイトを立ち上げる。
「……嘘だろ」
出てきた情報を眺めていた俺の喉から乾いた声が漏れた。緊急速報と称して載っていた見出しは、どれも現実味のない、それこそフィクションのような内容ばかりだった。
未知の感染ウイルス、東北に続き関東にまで進出
バイオテロか、発症者、およそ十万人越えへ
国は異例の大規模な避難勧告を発令。田舎は既にどこも受け入れ限界
国は、この病をインフルエンス・パニックと命名
インフルエンス・パニック。その聞き慣れない名称が頭を反芻する。記事には国が患者を非人間として扱う事を進め、早急に暴動の鎮圧を進めると書かれているが……。
「武力放棄を謳う日本(ウチ)が、そう簡単にこの法案を通せるのかねえ?」
感染者の中には家族を持つ者もいるはずだ。それら親族の批判を国会で宥めることが出来るのだろうか。
疑問はあるが、遅かれ早かれ騒ぎの鎮圧が行われるのは間違いないだろう。それはここだって例外ではない。俺は自分の衣服を再度見下ろす。元の色も分からないほど変色したTシャツ。他の人がこの姿を見たら俺まで感染者扱いされて巻き込まれる可能性が高い。ここは一度家に戻って着替えてから避難所などへ向かうのが妥当だろう。
これからの大体の方針を決めると腰を上げる。その頃には体の倦怠感も消えていて、自分の席にあったリュックを背負うと、廊下に続く扉を開いた。
廊下に出た瞬間、途端に魚の腸のような匂いが鼻腔をくすぐった。
そこは、どこもかしこも死体が溢れる、まさに地獄のような光景だった。
辺りに散らばる死体に、綺麗なものなど一つもない。どの死体も腹を喰いちぎられ、四肢は何かしら欠損している。相当苦しかったのだろう、彼等の表情には共通して苦悶の表情が浮かべられていた。
はみでた腸がぬらぬらと日光を浴びて妖しく輝く。眼窩から零れ落ちた眼球が、我が身に降りかかった突然の理不尽を恨むように瞳を濁らせていた。
その光景を見て俺の胸が一際大きく高鳴った。
「ぁ――――」
急に心がざわざわと落ち着かなくなり、視界が真っ赤に染まる。
この光景から目が離せない。自身を流れる血流の音がドクンドクンとうるさいくらいに耳朶を打つ。口の中が乾き、手が勝手に震え始めた時、俺は一歩足を踏み出す。
気が付いたとき、俺は自分の部屋の前に立っていた。
築三十年を超える二階建てのボロアパートだ。身をよじると木製の廊下が悲鳴を上げた。
「――え?」
間抜けな声が漏れた。
ぬるく湿った風に乗って蝉の声が届く。まだそれほど大きくない蝉の合唱が、今はやけにはっきり聞こえてくる。
――おかしい。
今度こそ白昼夢でも見ていたのか。俺はさっきまであの地獄絵図と化した大学の廊下にいたはずだ。記憶と現実が嚙み合わない。不意に眩暈がして扉から一歩後ずさる。
ぶちゅり。
足の裏を不快な感覚が突き抜けた。封を開けたように鉄臭い匂いが漂う。
足元に視線を下ろす。
踏み潰したのは、てらてら輝く人間の腸だった。
「――――」
それはよく見ると、俺が今握っている物だった。腸は二メートル以上あり、持っているのとは反対の端は階段まで及んでいた。どうやら俺は、これを持ってここまで歩いてきたらしい。
それを見て全てを理解した。不思議と驚きは少なかった。ただ何か、「ああ、そういうことか」と他人事みたいに納得している自分がいた。まるで分からなかった問題の解き方を知ったときみたいに。そして、自分はもう元の日常には戻れないことも悟った。
気づけば、自然と足は隣の部屋の前に移動していた。
そこにまだ住人がいることは分かっていた。このボロアパートだ。防音設備などまるでないのだから、足音など外にまで筒抜けだった。
ドアノブを捻るが、勿論鍵がかかっている。ならばと、俺は乱暴にドアを蹴り破いた。
中で甲高い悲鳴が上がる。俺はそれを全く無視して部屋に土足で上がり込む。
「や、八代さんっ!? な、なんで……ッ!」
俺の隣、二○三号室に住んでいるのは紺野さん一家。現在夫は単身赴任中とのことなので、部屋にいたのは妻と息子だけだった。
紺野さんは俺の様子に気づいたのだろう、まだ五歳の息子を腕に抱き、武器となるものを探して視線を彷徨わせるが、先だったのは俺が彼女の前に立つことだった。
「い、いや……、浩二さん……」
紺野さんが目に涙を浮かべ、愛する夫の名を呼んだ。腕には必死に抱きしめる最愛の息子。
口の端が吊り上がり、自然と三日月を作った。
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