第13話 達人
「ッ!?」
突然の事に思考が追い付かないが、とにかく奴は思った以上に機敏だった。タプタプと腹を揺らし走るが、強靭な脚は大地を強く踏みしめ、まるで飛ぶようにしてこちらとの距離をぐんぐんと詰める。
「チッ、なんだか知らねえが――」
「ひゃはっ!」
走り続けながらも男はふざけたように嗤い、俺を射程圏内に入れたところで拳を振り上げる。半ば分かってはいたが、どうやら何の対話も無く、一方的に俺を襲うつもりらしい。
――身の程知らずが。
「ひゃ――びゃばっ!?」
俺は男の隙の大きい大振りなパンチを難なく避けると、すれ違い様に奴の鼻っ面にカウンターの右ストレートを打ち込んだ。
哄笑を上げていた所に俺の拳がめりこみ、男は奇怪な声を上げる。タイミングもピッタリの一撃だったが、男は懲りずに、またもこちらへ突進して乱雑なパンチを何度も繰り出してくる。
「フ――」
「びゃがっ! ひゃぶっ! ぱがっ!?」
迫りくる男の攻撃を全て受け流し、あるいは避けて、俺はカウンターを決め続ける。
カウンターのジャブを男の顔に入れ続けながら男を観察するが、一向に変わらないだらしない笑みとワンパターンの行動に、俺は確かな落胆を覚えていた。
先ほど初めてコイツを見た時、俺と何か通ずる物を一瞬感じたが、どうやら勘違いだったようだ。俺を視認できる変異種のような感染者か、はたまたただのトチ狂った野郎か。どちらにせよ、俺は既にこの男から興味を無くしつつあった。
俺は嘆息する。
「期待はずれだな……」
「ぶっ!?」
痺れを切らしたのか、掴みかかってきた男の腕を俺はすり抜けて、手加減抜きの右ストレートを男にぶち込む。メキッと、男の鼻が異音を放ち、確かな手ごたえが拳から伝わってくるが、男はまだ倒れない。頑丈さだけは大した奴だ。となるとやはり感染者の変異種だったか――
「だけど、いい加減飽きたわ」
「――ッ」
俺は、未だ体を貪られている佐々木の死体から鉄パイプを引き抜くと、男の喉元に突きこんだ。決して手を抜くことはしない必殺の一撃。これで勝負は決まるはずだった。
男がおもむろに首を傾けた。
それだけで、俺の刺突はあっさりと躱されてしまった。あまりにも自然に。当たり前のように。男が地面を蹴る。気づけば、男は俺の目と鼻の先まで迫っていた。
「――――は?」
次の瞬間、俺は宙を舞っていた。
「~~~~ッッッ!?」
コンクリートの地面に叩きつけられる寸前、俺は慌てて受け身を取る。落下の衝撃を殺し、なんとか立ち上がるが、想像を超えたダメージ量に俺の足が小鹿のように震える。
「今……殴られたのか……?」
思わず呟いたのと同時に、ずきり、と鳩尾の辺りが疼きだす。喉元の辺りまで不快な胃液か何かのドロドロとした感覚がせりあがる。完全に不意を突かれたうえに、人間一人が吹き飛ぶほどの衝撃だ。鉄パイプも離れた所に転がってしまった。
だが何故だ。喉までせりあがってきたものを飲み下し、目の前の男を見据える。先ほどまでの奴の攻撃ならば油断していたとはいえ、こうも完璧に決められなかったはずだ。そこまで考えたところで我に返る。男がそれまでの無防備な立ち方から体勢を変えていた。
それは見たことのない構えだった。足を大きく広げて半身になり、やや前傾姿勢になりながらも上半身を完全に脱力しきった姿勢。口元は相変わらずふざけた笑みを湛えているが、少なくともその構えは素人には出来ない隙の無さを生み出していた。見たこともない構えだったが、その堂の入りっぷりと妙に脱力した自然体の形には、かつて一馬との鍛錬の中で心当たりのあるものがあった。
「てめえのソレ……まさか『システマ』か……?」
「ひゃはっ!」
返答とばかりに男が動く。迅速な足さばきであっという間に俺との間合いを詰めると、先ほどとは一変した鋭い“突き”を放ってくる。
「――ッ!」
「ひゃはっ!」
ぎりぎりでそれを防いだ所に、男は畳みかけるような連撃を仕掛けてくる。ただでさえ威力だけはあったパンチが、洗練されたワンツーに変わったことで脅威が格段に跳ね上がる。
それでも負けじと男の呼吸を読んで、顔への突きを右手でガードするが、男は読んでいたかのように突いた手をそのまま俺の右腕に絡みつかせて外すと、逆の腕の肘を使って、俺の横っ面を掻ききるようにして横にふり抜いた。
「ひゃははぁっ!」
「~~~~ックソが!!」
会心の一撃を決めたことに男は一段高い哄笑を上げる。脳を揺さぶる一撃に俺はふらつきながらも一旦退がり、態勢を立て直そうとするが、男はそれを許さない。
追い討ちとばかりに肉薄し、再び顔を狙っての鉄槌を放つ。
先ほどの轍は踏まないと、今度はそれを下からたたき上げて逸らすが、すぐさま空いたレバーに逆手で重いパンチをもらう。システマの最大の特徴。それは脱力した状態で行われる柔軟な対応力だ。こっちが苦労して一つを捌いても、向こうはそれに対して三つのカウンターで対応してくる。このシステマの特徴から、一馬は奴らの拳を『ガード不可』と言っていた。
思わず体をくの字に曲げた俺に、男はトドメの拳を振り上げ勝鬨を上げる。
「ひゃはははははあ!!」
「調子に……乗んな!」
男が拳を振り下ろす直前、俺は奴に鋭い足払いを掛ける。足首にこそ当てたが、それはもうほぼローキックの威力に近い。不意を突いた攻撃に男の態勢が少しだけ崩れたが、次の瞬間、今度は逆サイドに放った足払いで、重心の傾いていた男の身体がついにスリップした。
「――ひゃ?」
「これで――」
膝をついた男が呆けた声を上げる。その、ちょうど良い高さに落ちてきた男の頭に、
「――死んどけっ!」
俺は渾身の回し蹴りを叩き込んだ。
「ばばっ!?」
男の巨体が一瞬浮き、坂道を転がり落ちていくが、やがアスファルトに爪を立て、強引にそのスリップを止めた。顔を上げた男の顔には、最早不気味にしか見えない笑みを貼りつかせていた。
「どんだけタフなんだよ……。見た目も中身も世紀末のモブくせえのに、武術だけは中ロシアの武術の、しかも熟練した使い手と来やがる。こんな世界になるまで一体どんな生活してきたんだお前」
「ひゃはっ」
俺は試しに男に話しかけてみるが、男から帰って来たのは相変わらずの哄笑のみ。どうやら本当に話の通じる相手ではないらしい。そんな奴の相手もたまには面白いとは思ったが、今は他に優先すべきことがある。コイツの相手は後回しだ。
周りを見渡し、そう遠くない所にまだ死体を喰らっている感染者数体がまだいることを確認する。俺は注意深く男に視線を向けながら、ポケットをまさぐる。
「――悪ぃな。お前と相手してやるほど俺は暇じゃねえんだわ。だから代わりと言っちゃなんだけど――こいつらとやってくれや」
「あは?」
男が疑問を含んだような笑いをした所で、俺はポケットに入れていた防犯ブザーのタグを引っ張る。つんざくような電子音が響き、感染者たちが一斉にこちらを振り向く。
「あは!?」
男が驚いたような声を上げた時には、既に感染者は俺たちに向けて走りだしてきていた。
感染者はまず、鳴り響くブザーの音源であるこちらを見るが、そこに人の姿は無く、結局その近くにいたイカれた男で視線は固定される。
『キシャアアアアアアアアッッ!!』
「ひゃはっ!?」
「あばよ、システマ使いの白豚野郎」
俺はなり続けるブザーを男に向かって投げて、後は坂を全力で下り始める。
途中で一度だけ振り返ると、男――モヒカンはちょうど押し寄せる感染者たちをなぎ倒しているところだった。モヒカンの視線は最早こちらには向かない。ただ、口元にはあの歪んだ笑みを浮かべ、感染者の血で拳を紅く染め上げていた。
「ひゃははははははははははははははははははははははははっ!!」
男は嗤う。一方的な凌辱を愉しむように。事実、モヒカンの身体に触れられる者は居らず、誰もが血渋きを上げ、骨を粉砕され動かなくなるまで嬲られる。まるで、捕食者と餌が入れ替わったかのようだった。感染者は知性が無いとはいえ、あの身体能力としぶとさは複数に相手取られると素手の人間が敵うところではない。それをあろうことかあのモヒカンは、あまつさえ感染者に傷一つ負わすことを許さず、次々と葬り去っていく。
――俺でもあの数の相手を無傷は……。あいつ、本当に一体何者だ。
冷や汗が背中を伝うのを感じる。もし、あのまま俺が奴と闘っていたら……。今地面に転がる感染者は俺だったかもしれない。
俺はかぶりを振り、また走り出した。俺は特別だが、最強になったわけじゃない。不意に一馬のことが脳裏を走った。
すぐに頭を振ると、俺は再び坂道を下り始めた。
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