第7話 美女と狸
「――と、こんな感じで現在は避難民六十二名が騒ぎが収まるまでは、ここで共同して生活してもらうことになりそうだ。分かったかな、八代くん?」
「……ええ」
目の前にいる人柄のよさそうな中年の男――道野昭三の話を聞き終えた俺は唖然とした。
「……つまり、近くの自衛隊が支援物資やらを持ってくるまでは、自分たちで食事を賄い、感染者から自衛しろということですか?」
「そんなに悲嘆することはないさ。昨夜入った連絡によれば、自衛隊はここに遅くても明朝には到着するらしい。早ければ今夜にでも着くだろう。それまでの一食か二食を自前の食糧で何とかするだけさ。八代くんは携帯食料とかは持ってきていないのかな? それなら少しだが、学校の備品のからも提供できるだろう」
華和小学校近くの駐在所に勤務しているという道野は、そう言って柔らかく微笑んだ。人を安心させる、ほぐれるような笑みだ。
――馬鹿か、こいつ。
だが俺にとって、それはひょっとこみたいな間抜けな顔にしか見えなかった。あまりにも暢気すぎる。街中の感染者を見たら、自衛隊が無事にここまで来れるか確証がないことぐらいわかるだろう。道野はまだ感染者を目の当たりにした事がないとでもいうのか。それに、昨日の夜に入ったという連絡をどうして真に受けられる。それから半日以上経った今、そのときより状況が悪化しているという可能性を考えられないのか。道野のあまりの楽天家具合にため息が出そうになる。
だが、これはむしろ俺にとっては好都合の状況だ。これだけ上が頭の緩い人物なら、それなりに好き放題やれそうだ。結果として、それでこの避難所が潰れたら、今度はもう少し長生きしそうな避難所を探そう。要は使い捨ての玩具ってところか、ここは。
俺は早々にこの避難所に見切りをつけると、愛想笑いを顔にこびりつかせた。
「――いえ、食糧は少量ですが持参しています。生憎、保存の利かない生鮮食品が多いので、あとでここのキッチンを貸していただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、電気は通っているし問題ないよ。そういうことなら調理器具のある家庭科室を使うといい。ところで、八代くんはみたところ若いね。いくつだい?」
「……今年で二十歳ですけど」
唐突に話題を変えた道野に、俺は嫌な予感がして口ごもる。その予想は、見事的中した。
道野は大仰に驚くと、自らのその太い太ももをバチンと叩いた。
「おお、それはちょうどいい! いや、今ね、自衛隊が来るまでここを護る警備班に入ってくれる人を有志で募集しているんだ。しかし、住宅街から離れたここに避難してくるのは老人や子供が多くてね。ちょうど頼りになる若い人を探してたんだ――」
道野はそこで言葉を切り、推し量るように俺を覗いた。
日本特有の察する文化というやつだが、それもここまで露骨だと不快なレベルだな。
この避難所では、俺は出来るだけ目立ちたくない。そのためにも、俺は自身の戦闘能力については隠すつもりでいる。正直、一馬に鍛え抜かれた今の俺なら、素手でも感染者一体程度なら打ち倒すことが出来るだろう。だが、そんな力を知られたら言い様に利用されるのが関の山だ。ここはどうにかかわしたいものだ。
「……いえ、僕なんか今まで運動部にさえ入ったこともないですし、入ったとしても皆さんの足手まといにしかなりませんよ」
「いやいやとんでもない! 警備とはいっても、概ね校門に立って外の様子を見てくれているだけで構わないんだ! 君みたいな若い人が見張りをしている方が他の避難している方々も安心できるだろうしね。……で、どうだろうか?」
どうだろうか、じゃねえよ。
喉まで出かかった言葉をギリギリで呑み込む。
つまり、この男は避難民から不満の声が漏れない為に俺を利用しようとしているらしい。確かにここを仕切る以上、評判が高い方が避難民も指示に従いやすくなるだろうからな――
俺は道野の顔を見つめる。愛嬌がある小太りの体型に笑顔を絶やさない優しい顔つき。だがそこにくっつくつぶらな瞳の奥からは、何の感情も読み取れなかった。
ただの無能かと思ったが、とんだ狸だな――
「……分かりました。僕で良ければ警備班のお力になりたいと思います」
「本当かい!? いやぁ助かるよ! それじゃあ、十二時半から早速警備班で話し合いがあるから時間になったらもう一度ここに戻ってきてくれ。ああ、荷物やらは体育館に置いてね。しばらくはそこで他の人達と過ごすことになるから、八代くんなら心配ないお思うけど、他人に迷惑はかからないようマナーだけは護ってくれよ」
そこまで饒舌に話しきった道野は、要は済んだとばかりに椅子に深く腰掛けた。頑丈そうな肘掛け付きの椅子が悲鳴を上げる。
「分かりました」
多少面倒なことになるがまあいい。ここで強引に断ってこいつに目を付けられるのも面倒だ。せいぜいこの立場を利用してできることを考えよう。
俺は踵を返すと、職員室を後にする。
道野によると、体育館は職員室からそう遠くないところに位置するらしい。道野に教えられた通りに廊下を進んでいくと、やがてまばらに人とすれ違うようになる。
そのほとんどは子供か老人。たまに子供を連れだった母もいたが、確かに俺くらいの年代の人間は少なそうだ。
ほどなくして体育館に到着し、中に入るとその予想は確信に変わる。
そこそこ広い体育館には、今は散り散りになって座り込む人々に占拠されていた。外からはそうでもなかったが、中に入ると途端に人々の生活音が洪水のように耳に押し寄せる。
現在、ここには六十ちょっとの人しか避難していないと聞いたが、各々が持ち込んだ荷物が多いためか、体育館は少し手狭に感じる。壁側に密集し、それぞれのレジャーシートを広げて己の領地を主張する避難者は、確かに老人や小さな子供連れがほとんどだった。中にはまだ若そうな夫婦もいるが、それでも三十代は迎えていそうだ。
避難者を観察しながら、俺も自身が生活するスペースとなるスポットを探すが、流石に遅れて避難してきたため、良さそうな場所は既にほかの避難者に取られており、余っているのは体育館の中央付近くらいだった。あそこは全方向壁がないため、いつも誰かに視られている気がして落ち着かなそうだ。
そうして入り口付近で顰め面をしていると、複数の足音の中から、明確な意思を持って俺の方に近づいてくる足音を察知する。そして同時に困惑した。何故今俺は、こんな騒音の中から、こんな僅かな足音に気づけた?
「あの、もしかして、八代くん?」
戸惑っていると、気づけば足音の主が俺の傍までやってきていた。
落ち着いた声音に首を巡らすと、そこにいた女性の顔を見て息を呑んだ。
「
「やっぱり。久しぶりね」
手を挙げた女性は、少し困ったように微笑んだ。
有斐さんは緩くウェーブがかった栗色の髪が目を引く女性だ。神秘的、とでもいうのか。華奢な体つきと、透き通るような美貌を持つ女性で、この人といると、たまに瞬きすれば霞んでしまいそうなほどに存在が朧げに感じることがある。それは単に、彼女が類まれなる美貌の持ち主だから、というのだけが理由ではあるまい。
有斐さんは俺の通う大学の医学の講師だが、去年知り合ったのは別のことがきっかけだ。
まさかこのタイミングで会うとは。
心の中で舌打ちをしながら、俺は即座に笑顔を作る。
「お久しぶりです。こんな時に奇遇ですね。ここらへんに住んでいたんですか?」
「うん。いつも街中で会ってたから分からなかったけど、案外近くに住んでたのね。私たち」
有斐さんは温度の低い笑顔を浮かべた。
少し困ったような、苦みを含んだ笑みは相変わらずだった。
彼女はいつも息を吸うのでさえ辛いという表情で笑う――
「……八代くんは、やけに避難してくるのが遅かったね。ここに来るまで大丈夫だったの?」
「ここに来るまでの道に感染者が沢山いましてね。昨日は迂回する道などを決めていたら陽が暮れちゃって」
「それでこんなに遅かったんだ……。ねえ、大丈夫だったの? 私はテレビでしか知らないけど、その……感染者って、とても凶暴なんでしょ?」
感染者、という言葉を使うのを躊躇う有斐さんに、俺は頷いた。
「はい。初めて追いかけまわされたときは、本当に生きた心地がしませんでしたよ。まあそれでも運よく生き延びて、ここに逃げおおせたわけですけど。あはは」
「もう、笑いごとじゃないよ」
茶化すように笑った俺を、有斐さんは困り顔で叱る。そして「でも」と言って、
「八代くんが無事でよかったわ」
と、薄く微笑んだ。
俺は表情を緩ませる。
この女は厄介だ。なにせ彼女と出会った時、俺は彼女の前で大の大人五、六人をボコってしまっている。俺の腕っぷしを知っている以上、彼女が避難所で余計なことを言う可能性は充分にあった。
だが幸い、彼女はたった今『合格』した。これで趣味に合わない『外れ』だったら殺すしかなかったが、彼女ならば十分に俺を愉しませてくれるだろう。
「ところで有斐さん、実は俺、さっき道野って人に頼まれて警備班の手伝いをすることになったんです。それでもしよければ、俺が警備で出てるときは、万が一に備えてこのリュックだけ盗まれないように見ていてほしいんですよ。勿論、有斐さんがいないときは、俺が有斐さんの分も荷物番するので、お願いできないできませんか?」
「あ、そういえば八代くんってすごい強かったもんね。うん、勿論いいよ。八代くんが私たちを守ってくれるって言うんだから、是非協力させて」
案の定、俺の提案に有斐さんは快く二つ返事で了承してくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
俺は表情を緩める。つられて有斐さんも微笑んだ。
有斐さんを見る。相変わらず美しい女だ。中身も善人そのものだ。
だからこそ彼女は選ばれたのだ。俺の名誉ある――最初の獲物に。
なおも笑い合う俺たちだが、その理由はお互い全く違った物だった。
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