第9話 美女は、かくして憂う

「八代さん、さっきはすみませんでした」

 職員室を出て早々、王馬を連れて近づいてきた岡崎に頭を下げられた。

「気にするなよ。君の言ったことは確かに一理ある。それを見過ごしたのは僕の落ち度だし、君の謝ることじゃない」

 律儀な奴だ。それとも、俺を懐柔しようとしているのか。

 内心でそんなことを考えながら、俺が外面の良い笑顔を浮かべると岡崎もホッと表情を緩める。

 そのまま三人で体育館に向けて歩き始める。

「そう言ってもらえるとありがたいです」

「そんなんで怒るほど僕は気が短く見えるのかい? だとしたらもう少し自分の行いを反省しなくちゃいけないな」

 これからも猫を被り続けなきゃならないしな。

「い、いえそんなことは……」

「だから俊也は考えすぎなんだよ。あれくらいじゃなんとも思わないって俺は言ったのに」

「和彦は楽天家なところがあるからイマイチ信用出来なかったんだよ」

「む、俺ってそんなに楽天家か?」

「だいぶな」

 俺を置いてけぼりにして話し始めた二人を見て俺は目を細める。

 どうやら同じ学校ということもあって、この王馬と岡崎はかなり仲が良いらしい。王馬はどうでもいいが、岡崎の方はいざというときに王馬の方をつつけば楽に始末できるかもな。

「……ん?」

 体育館付近のトイレまで来たところで、一人の男が目に留まった。

 四十代に差し掛かろうかという男は、水飲み場の蛇口の一つを占拠して、飛沫が飛び散るほどの勢いで水を出して口をゆすいでいる。跳ね返る水飛沫が彼の草臥れたシャツとズボンを濡らすが、それを全く意に介した様子もない。その男のどこか鬼気迫った表情が俺の足を止めた。

「どうしました? あー、あんなに汚して……」

 俺の視線に気づいた王馬が、男に歩み寄っていく。

「あの、すみません」

「――ッ!?」

 王馬が男に話しかけると、男は過剰なまでに肩を揺らして顔を上げる。その顔には怯えの色がはっきりと見て取れた。

 王馬はそれに怪訝な表情を見せながらも、丁寧に男に注意する。

「この場所は避難している方全員が使う所なので、水を飲むのは結構なんですけど、もう少し綺麗に使ってください」

 男は一瞬呆けた表情をするが、すぐに慌てたように何度も首を縦に振った。

「あ……ああ。すまないね。ちょっと喉が渇いていてね。後でここは掃除しておくよ」

 誰が見ても分かるハリボテの愛想笑いを男は浮かべると、いそいそと近くにあった雑巾で水滴を拭き始めた。

 「お願いします」と王馬は言うと怪訝そうな顔でこちらに戻ってきた。

「おかしなおっさんだなぁ。あんな人今まで避難所にいたっけ?」

「おそらく後藤さんの言っていた最近裏門から入ってきた人だろう。ボディチェックは終わってるらしいから、感染者予備軍とかではないはずだが」

 後藤というと、あのジャージ姿のゴリラか。

 少しの間、俺はその男をじっと見ていたが、男は相変わらず床を掃除するだけで顔を上げず、特に変わった様子もない。

 ――考えすぎか。

「……なら大丈夫だろう。行こうか」

 俺は男から興味を失うと、岡崎と王馬を引き連れて再び歩き出した。




 体育館に着くなり二人と別れ、俺は人込みの中から目的の人を探す。

 あれだけの美貌の持ちながら、彼女は存在が希薄というか、影が薄い。

 五分ほど探してようやくステージ付近でこちらに手を振る有斐さんを見つけた。

「ここにいらしたんですね。ちょっと探しちゃいましたよ」

「あらかじめ私のいる場所を言っておけばよかったわね。で、会議はどうだったの? 自衛隊はいつ頃来るかとかは話してた?」

「いいえ、そこらへんはなんとも……。ただ、このまま自衛隊が来ないなら明日の午後に警備班で食糧調達に向かうことになりました」

「え、それって八代くんも?」

「そりゃそうですよ。僕も警備班ですからね」

 口元を手で押さえた有斐さんに、俺は苦笑を返す。

 すると有斐さんは綺麗に整った眉を八の字にして、複雑そうな表情を浮かべた。

「……八代くんがそうやってみんなの為に頑張ってくれるのは誇らしいけど、少し心配かな。校外に出るってことは、感染者と出会うかもしれないってことでしょ? さっきニュースを見たけど、死人だってたくさん出ているらしいし……」

「そうですけど、このままじゃ食糧が保たないのも事実です。いずれ誰かがやらなきゃいけないことです。それなら少しでも生存確率の高い奴がそれをするべきです。……有斐さんだって僕の強さは知っているでしょう?」

 最後にやや声を潜めたのは、勿論他の人に聞かれないためだ。都合の良いことに、体育館ではさざ波のように声が重なり合っているため、俺の声は自然と近くにいる有斐さんにしか届かない。

「それはそうだけど……。でもやっぱり心配よ」

「相変わらず優しいですね、有斐さんは。大丈夫ですよ。同行してくれる人もいるでしょうし、いざとなったら一目散に逃げますから」

「……本当に気を付けてね」

「はい。任せてください」

 それきり、有斐さんは心配そうにこちらを見るだけでこの話を続けようとはしなかった。

 その後、しばらくすると道野が小太りの体を揺らしてやってきた。

 道野は隠したつもりだろうが、一瞬、鋭い目つきで隣の有斐さんを一瞥したのを俺は見逃さなかった。

「八代くん、ここにいたのかい。校門の見張りの交代だ。君は後藤さんの組に入ってもらうということを先ほど言い忘れてね。玄関で後藤さんが待っているからすぐに向かってあげなさい」

 そう言うと、今度は有斐さんにあの人当たりの良い笑顔を浮かべた。

「というわけで、すみません。八代くんを少しの間お借りさせてもらいます。心配でしょうが、私が責任を持って八代くんは無事に返しますのでご理解ください、彼女さん」

「か、彼女だなんてそんな……違います。けど、はい、分かりました。八代くん、くれぐれも無茶だけはしないでね」

「わかりました。それじゃあ行きましょう、道野さん」

 俺が遠回しに有斐さんから遠ざけるよう促すと、道野は最後にもう一度だけ有斐さんを一瞥した。

 その柔和な笑顔を俺は横目で観察したが、道野の瞳の奥の感情までは読み解くがことが出来なかった。

「……そうだね。それじゃあ失礼しますよ。美しいお姉さん」

「ええ。お巡りさんもお気をつけて」

 安心してくれ有斐さん。この狸は大丈夫だ。どうせ涼しい部屋の中でコーヒーでも飲んでるだけなんだから――

 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、俺は狸と一緒にその場を後にした。

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