Lord of My Heart - 1

 ──そして一年後。


 屋敷の裏口からこっそりと外に抜け出したオリヴィアは、爽やかな朝露の匂いを胸いっぱいに吸い込み、自然と顔がほころんでくるのを感じた。

 抜けるような青い空に、眩しい朝日が燦々さんさんと輝いている。その空を見上げて、オリヴィアはしばし深い感慨に浸った。


 またノースウッドに夏が訪れたのだ。

 これがオリヴィアにとって二回目になる、ノースウッドでの夏だ。


 まだ朝食前の時間なのに、屋敷はすでに今日一日の仕事のために慌ただしく動き出していた。

 調理場からは焼きたてのパンの甘い香りがして、マギーが誰かに声を上げているのが聞こえる。早起きの小作人たちがちらほらと、すでに野外の作業場に集まりはじめていた。領主であるエドモンド本人も、なんだかの注文を済ませなければならないといって、すでに寝室を後にしていた。

 そんな朝の混乱に乗じて、オリヴィアは首尾よく外に出ることに成功したのだ。

 一年前の初夏、はじめてバレット家に足を踏み入れたとき、こんなことになると誰が予想しただろう。

 いや、もしかしたら分かる者には分かったのかもしれない。


 エドモンドは考えうるかぎり最高の夫となった。

 彼は、オリヴィアの優しい恋人であり、強力な支持者であり、夜な夜な甘い愛の言葉をささやく詩人となった。今までの灰色だった人生を覆い返すかのように、エドモンドは結婚生活を十分に堪能しているようだった。もちろん、それはオリヴィアも同じだ。

 二人は鳩のつがいのように仲睦まじかったし、夫であるエドモンドが、それを隠し立てすることは一切なかった。


(でも、こればっかりは、どうしたらいいのかしら……)


 注意深く左右を確認したオリヴィアは、スカートの上に付けているエプロンいっぱいに野菜を乗せて、裾を掴んで落とさないように運ぶところだった。

 これは、今までずっとオリヴィアの仕事の一つだったのだが、最近のエドモンドは彼女にそれをさせてくれないのだ。

 それだけじゃない。

 今のオリヴィアに許されている仕事はひじょうに少なく、片手の指で数えられる程度しかなかった。たった一年のあいだに気が付けば、早起きも、家畜の世話も、菜園の管理もどんどん楽しくなってきたオリヴィアに、この仕打ちは中々辛いところだ。

 だから、こうして時々、エドモンドに内緒で外に出るのだが……成功することは滅多になかった。実際のところ、まだ一度も成功していない。時々、もしかしたらエドモンドにはどこかに第三の目があるとか、超人的な聴力があるとか、なにか秘密があるのではないかと思えてならない。少なくとも、ことオリヴィアに関する限り、エドモンド・バレットは並み外れた監視力を発揮した。

 どうか願わくば、今朝ばかりはそれも外れますように……。


 しかし、小走りに厩舎へ向かうオリヴィアの背後に、急に、人の気配と砂利道に踏み入れる足音がした。

 オリヴィアは首筋のうぶ毛が逆立つような悪寒を感じて、慌てて振り返る。すると、そこには両腕を胸の前で組み、片足に重心をかけた格好で立っている、伯爵……エドモンドがいた。

 呆れているのが半分、怒っているのが半分、といった表情で、オリヴィアの全身を頭の先からつま先までじっと確かめている。

 オリヴィアは急いで愛想笑いをするべきか、それとも逃げ出すべきか、一瞬迷った。

 が、逃げたとしても捕まるのは時間の問題だし、オリヴィアは負けると分かっている戦を戦うほど好戦的な人間ではない。オリヴィアはエプロンの端をしっかり握り直し、中の野菜が露見しないようにと祈った。


「おはようございます、エドモンド。今日もまたいい天気ですね。あんまり気持ちがいいので、朝食の前に少し外を歩こうと思って」

 少し、というあたりを強調して言ってみた。

 エドモンドはわずかに目を細める。

「──厩舎で餌やりをするのは、もう止めなさいと言ったはずだが」

 珍しく命令的なエドモンドの口調に、オリヴィアは目頭が熱くなってくるのを感じて、ぱちぱちと瞳をまたたいた。

「な、なにを言っているの? ちょっと散歩しようと思っただけです」

「どうして散歩にエプロンが必要なのだろう、伯爵夫人?」

「それは……その、最近、中央ではエプロンを付けて散歩するのが流行っているそうなんです! 姉が手紙で……」

「ほう」エドモンドの答えは短かった。

「え、ええ! ほら、とても現代的でしょう? こうして裾を上げていると特に、」

 と、なにを実演したいのか自分で分からないまま、オリヴィアはエプロンの裾を上げようとした。すると、ゴン!

 フリルのついた水色のエプロンの端から、半分に切られた生のキャベツが落ちた。

「あ、あの、これは……」

 オリヴィアはわずかに青ざめ、キャベツから妻に視線を走らせるエドモンドを納得させる言い訳を考えようとした。容易なことではない。エドモンドの緑の瞳は、鋭い一瞥をオリヴィアに投げかけている。オリヴィアの指が緊張に震え、つい、エプロンの裾から手を離してしまった。

 ゴトゴトゴト!

 今度エプロンから落ちてきたのは、大量の生のニンジンだった。

 エドモンドは長身をかがめ、地面に落ちたニンジンを一本拾って掲げてみせた。「これも流行にちなんでいるのだろうか、マダム」

「そ、そ、それは……」

 エドモンドの口調がひどく呆れているようだったのに傷つき、オリヴィアは意固地になって夫の手からニンジンを奪い取った。

「散歩をしながら軽食をとろうと思っただけです。新鮮で美味しいのよ」

 そして、ガブっとニンジンに食いついた。

「っ!」

 ──固かった。かなり。

 歯がじんじんと痛んで、オリヴィアは涙目になりながら指で口元を抑えて、自分の愚かさを呪った。それでも上目遣いで夫を見つめていると、彼は次第に表情を和らげて、オリヴィアの頬に優しく手を当てるのだった。


「部屋で大人しくしていなさいと言ったはずだが──」


 その口調に、オリヴィアを責めるような響きはない。

 今日の彼は機嫌がいいようだ。ただ、親鳥がヒナを可愛がるような、少し過ぎた保護欲と、彼らしい男性的な愛情表現とが混じっている。オリヴィアは夫を見つめながら、次の言葉を待った。

「──どうしても仕事がしたいというなら、わたしと一緒に来なさい。荷物はわたしが持つから、そのエプロンを貸してくれ」

 安堵して、オリヴィアはほっとため息をついた。

 素直にエプロンを外し、それをエドモンドに渡す。彼は器用にエプロンを袋状にまとめ、地面に落ちた野菜を全て拾い上げて中に入れた。

 エドモンドが無言で、おいでと言うように首を傾げたので、オリヴィアは彼の隣にぴたりとついて歩きはじめた。


 厩舎には、オリヴィアがノースウッドに来た当初よりも、少し多くの馬がいる。

 一頭はエドモンドとローナンが新しく買い付けたもの。

 そしてもう一頭は……

「見て、レイディはもう歩いているんですね! 本当に綺麗な子だわ!」

 木の柵に両手を置いて、オリヴィアは興奮気味に声を上げた。柵の中には、まだ生まれて数日の子馬がいる。


 全身は薄い茶色で、額のあたりと足下だけが白い、小さなメス馬だった。

 華奢で、見るからに優雅なフォルムをしていたので、彼女を取り上げたローナンが「レイディ」と名付けたのだ。オリヴィアはもうすっかり彼女に夢中だった。

「もう少し後ろにさがっていなさい、マイ・レイディ」

 と、柵の中でレイディとその母親に餌を与えているエドモンドが言った。「子馬とはいえ、脚には相当な力がある。それに母親はまだ気が立っているようだ。あなたを蹴飛ばすくらい、息をするより簡単だろう」

 レイディと、その優しそうな母馬の様子からは想像できないが、エドモンドは彼らがオリヴィアを傷つけるのではないかと過剰な心配をしていた。

 こうして、レイディが生まれてから何度も厩舎へ足を運ぼうとするオリヴィアを、なんだかんだと理由をつけて牽制しているのだ。今のエドモンドは、レイディの隣にぴったりとついて佇んでいる母馬よりも、ずっと過保護に思えたが。

 もちろん彼には、そうなる理由があるのだけれど。


 レイディはオリヴィアの素人目にも、美しく賢く、扱いやすい馬になるだろうというのが見て取れた。

 美しくて、そして力強い……生まれたばかりの子馬には、生命の神秘とたくましさが詰め込まれているようだった。生まれてすぐに歩き出そうとする子馬。それを優しく見守る母馬は経過もよく、すでに元気だった。

 その中に、オリヴィアは希望と安らぎを見いだしている。

 ほら、わたしも、きっと大丈夫。

 ──と、そう。


 ただ、エドモンドも同じことを思っていてくれているかどうかは、分からなかったけれど。


 エドモンドが与える新鮮な野菜と枯れ藁をみながら、馬の親子は満足そうに柵の中を行き来している。オリヴィアは恍惚として表情でその様子を柵の外から見つめ、作業を終えて柵から出てくる夫を待った。

「さあ、ご満足かな、マダム。次にまたここに来るときは、必ずわたしに言いなさい」

 麻布で手を拭きつつ、エドモンドはオリヴィアの隣に立った。

 オリヴィアは彼を見上げ、彼がオリヴィアをじっと真剣な目で見下ろしているのに気付いて、小さく数度うなづいた。




 その日の朝食が終わると、エドモンドはオリヴィアを外の散歩へ誘った。


 二人は手をつないで、屋敷から菜園へつづく砂利道をゆっくり歩いた。

 道すがら、何気ない会話をする。しかし実際、喋っていたのはオリヴィアだけで、エドモンドは適当な相づちを時々うってはくれたが、自ら話題を提供することはなかった。

 オリヴィアも、出来るだけ二人の間に横たわる繊細な問題には触れずにいた。

 しっかりと繋がれた手を、エドモンドは、何度も確かめるようにぎゅっと握り直しながら歩く。歩調はゆっくりで、彼女を気遣ってくれているのが十分に伝わってきた。

 胸に熱いなにかが上ってきて、オリヴィアはむしょうに泣いてしまいたい気分になった。

 幸せとは、こんなに繊細で、切ないものだっただろうか?

 大丈夫と言い続けてきたのはオリヴィアのはずなのに、いざ時が近づいてくると、不安に溺れそうになる瞬間が何度もあった。

 それでも、レイディとその母馬を見たあとは、少し心が落ち着くのだけれど……。


 途中、生気いっぱいに緑の葉を茂らす大木の下で、二人は腰を落として休むことにした。

 最近のオリヴィアは疲れやすい。

 すぐウトウトしてしまうし、そんな妻をエドモンドは常に注意深く気遣ってくれている。エドモンドが大木の幹に背を預け、オリヴィアは彼の胸に身体全てを預けるようにして座った。

 暑い日だったが、空気は乾いていて、爽やかな風が吹いている。


 しばらくは静かだった。

 朝日はすでに昇り、木漏れ日が二人の間にちらちらと落ちて踊り、オリヴィアの眠気を誘う。

 エドモンドの右手は、いつもそうするように、オリヴィアの髪を無造作にいじっていた。そして左の手は大きく開かれ、オリヴィアのふっくらとした腹部にそっと当てられていた。


「本当ならあなたは、こんな場所でわたしのような男に抱かれているべきではないのだろう」

 ささやくような低い声で、エドモンドが言った。

 オリヴィアは驚いて彼を見上げた。

 綺麗にそられた髭跡と、男らしい顎の線が目の前にくる。彼からは石鹸の香りがした。それから、大地で生きる男の匂い……干し草、土、銅。

「いいえ」

 オリヴィアは答えながら、エドモンドの頬に片手の指をすべらせた。「わたしはこの場所で、あなたに……あなただけに、抱かれているべきなんです」

 エドモンドはオリヴィアを見下ろして、わずかに微笑んだ。

「あの頃のわたしにもっと忍耐と良識があったならと思う。例えば、こうなる前にあなたを実家に帰すとか、他の男に──いや、これだけは許し難いが、それでも、なんとか、遠ざけるべきだったと」

 エドモンドがこんなことを言ったのは、二人が結ばれて以来、はじめてだった。

 厚くたくましい胸に顔を寄せ、オリヴィアは何も言わずに目を閉じた。やはり、不安なのは彼も同じなのだ。それどころかこういうとき、より辛いのは置いていかれる方だ。そんなことは起らないと信じていたいけれど、心細いのはどうしようもない。

 オリヴィアは頭の中でいくつも、緊張している夫を慰める言葉を探した。

 難しかった……しかし、そのとき。


 トン!


 エドモンドは大きく目を見開き、オリヴィアの腹部に当てていた左手に素早く視線を落とした。するとまた、


 トン、トン!


 今度はオリヴィアもそれを強く感じた。

 二人はまるで、それが世界一珍しくて、世界一値打ちのあるとっておきの宝石であるかのように興奮しながら見下ろし、そして目を合わせた。

 オリヴィアは、蹴られた場所がエドモンドの手のひらの真ん中であるのを理解して、思わず満点の笑みを浮かべた。そして……感じたのだ。これが答えだと。


「もうすぐですよ」

 と、オリヴィアは宣言して、エドモンドの左手の上に自分の手を重ねた。「もうすぐ、わたし達がこうして寄り添っているすぐ横で、この子が走り回るようになります。きっと元気な子よ」

「ああ……そしてわたしは過保護な父親になるだろう」

 オリヴィアはくすくすと笑った。「過保護な夫であるだけでは満足できないんですか?」

「その通りだ」

 オリヴィアの頬に手をあて、エドモンドは力強くも優しい口づけを彼女にした。最初は額に、次にまぶたの上をなぞるように、そしてゆっくりと時間をかけて、唇に。


「わたしはあなたを守るためにここにいる。どこにも行かせないから、覚悟するんだな」





 オリヴィアはそのまま、エドモンドの腕の中で眠ってしまった。

 本来なら今日は終わらせてしまわなければならない領地の仕事がいくつもあったのだが……フン、知ったことか。エドモンドにとって今、最も、そして唯一、大切なものは、彼の腕の中に眠っているのだから。


 気持ち良さそうに目を閉じているオリヴィアの肌をなで、髪をいじり、肩を抱きしめながら、エドモンドはこの瞬間を一刻でも長く、ほんの少しでもさらに深く、感じ、覚えようと努力した。

 大丈夫だ。

 わたしは彼女をいかせない。

 絶対に、絶対にだ。



 近くに誰かが近づいてくる足音が聞こえて、エドモンドは気だるげに顔を上げた。

 ちょうど、前からローナンが近づいてくるところだった。

 眠っているオリヴィアに気が付いたのか、ローナンは数メートル手前で少し回り下って、二人が寄りかかっている大木の横にたどり着いた。

 大木の幹に片腕を置き、寄り添っているエドモンドとオリヴィアを見下ろしながら、ローナンは顔をほころばせた。


「ねえ、兄さん。恋に落ちるのは簡単だけど、面倒なのはその後だよね」


 エドモンドは片眉を上げ、弟をねめつけた。

 しかしまた、オリヴィアと、彼女の中で育っている赤ん坊のふくらみを見つめ直して、静かに答える。


「お前にもいつか分かるさ。そのうちに、な」

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