The Truth - 2

 オリヴィアの身体をゆっくりと床に下ろしたエドモンドは、そのまま彼女の手を優しく握り、前に進むよううながした。

 興奮と喜びと、それ以外にもなにか説明のつかないもどかしい期待とで、オリヴィアの足下はかつてないほど不安定だった。それでもきちんと夫について歩けたのは、彼の手がしっかりとオリヴィアを支えていてくれたからだ。

 ふわふわ、ふらふらとした感覚がオリヴィアを包む。


 周囲から好奇のまなざしを向けられる覚悟をしていたオリヴィアだが、実際はどの客人も自分の馬車や御者を呼ぶのに躍起になっていて、他人にはほとんど関心を払っていない状況だった。

 それをいいことに、食卓に残った高価な銀食器や珍しいポーセリンの置物をポケットにつめ込んでいる輩までいる。


 それでも二人はどうにか群衆の中をゆっくり移動し、玄関口に近づくことに成功した。夫の長身は、混乱した招待客たちの波をかいくぐるのに一役買っているようだ。その間も彼は、オリヴィアの手を離すまいとしっかり握ったままでいた。

 繋がれた手から上にたどるように、オリヴィアはエドモンドを見上げた。

 ああ、今夜のエドモンドはいつもに増して背が高く、たくましく見える。

 オリヴィアはこのままうっとりと主人の魅力的な横顔を見つめていたい誘惑に駆られたが、なんとか自分を奮い立たせて、混乱した屋敷の出口へ向かうのに集中しようとした。


 しかし、すっかり入り乱れた人だかりを前にして、オリヴィアはふと大事なことを忘れているのに気がついた。


 そうだ……ピート!

 そもそもオリヴィアは、あの人でなしの老執事を捜してファレル家の屋敷を一人でうろうろしていたせいで、恐ろしい危険に巻き込まれたのだ。結果的にエドモンドが助けに来てくれたからいいものの、そうでなければ今頃オリヴィアは、屈辱の中で舌を噛み切っていたかもしれない……。

 それを思い出すと、オリヴィアの胸は急に暑苦しくなった。

 あの老執事は今もきっとどこかにこそこそ隠れているか、それともオリヴィア達のことなどすっかり忘れて、パンチに酔った若いレディたちを誘惑しようとしているに違いない。オリヴィアは繋いでいるのとは別の手でエドモンドの腕に触れて、彼の注意をひこうとした。

 人だかりを進むのに集中していたエドモンドが、すぐにオリヴィアに振り向き、心配げに妻を見下ろす。

「どうした、オリヴィア?」

 エドモンドの低い声がオリヴィアの耳に魅惑的に響く。

 オリヴィアはつい、ピートのことなど口にせず、さっさと馬車を用意してしかるべき場所へ帰ってしまうのも魅力的かもしれないと、考えてしまった。

 しかし──あの老執事は、エドモンドとローナンの祖父でもある。夫婦が馬車を使ってしまっては、帰る手段がなくなって困るかもしれない。まあ、あの老人が困っている姿はあまり想像できないし、ローナンを見つければ二人で貸し馬車を使うことができるのだろうけれど。

「あの、ピートはどこかと思って……。わたし達が馬車を使ってしまっては、困るんじゃないかしら」

 するとエドモンドは、一瞬驚いたような顔をした。

「彼なら自分でなんとかするだろう。いざとなれば上階に部屋が用意されているし、どちらにしてもローナンがいる」

 とまで言って、のぞき込むようにオリヴィアに顔を近づけた。「他にもなにか気になることが、マダム?」

 急に、オリヴィアの胸は高鳴る心臓を収めておくには小さすぎるような気がしてきた。深い緑の瞳に見つめられて、オリヴィアの鼓動はさらに速度を増して、痛いくらいだった。

 うまく言葉を操れなくなっている。

「あの……わたし、実はピートから聞いたことがあるんです。バレット家の、あの、」

 オリヴィアのあいまいな説明を、エドモンドは眉間に皺をよせながら注意深く聞こうとしてくれていた。オリヴィアは懸命に、どう言い表すべきかと考えてみた。

 もしオリヴィアの理解が正しければ、ピートの隠している秘密は、これから二人が行おうとしている愛の営みをずっと素敵なものにしてくれる。はずだ。


 ──『呪いは存在しない。まぁ、多分、な』

 今こそ二人は「呪い」から解き放たれる必要があった。

 そのために、ピートの秘密はきっと役に立つ。今までオリヴィア一人で頑張ろうとしていたから聞き出せなかっただけで、エドモンドが協力してくれれば、状況はいい方に変わるかもしれない。なんとしても聞き出さなくては。


「『バレット家の呪い』について……」


 ここまでオリヴィアが言うと、エドモンドはいきなりビクリと反応し、彼女を握りしめる手を痛いほどきつくした。ハッとしたオリヴィアが夫の顔を見上げると、そこには言葉では言い表せないほど緊張した表情のエドモンドがいた。

 オリヴィアはすぐ不用意なものの言い方に後悔したが、遅いものはもう遅い。

 幸せそうだったエドモンドの顔つきは、見る間におなじみの頑固そうな強ばった形相にもどっていて、広い肩は極度に凍りついている。

 オリヴィアは自分の額に冷や汗が浮かぶのを感じた。

 あれだけ苦労して懐柔した頑な夫の心を、舌足らずの不注意からまた元の強固な要塞の中へと送り返してしまったのかもしれない。馬鹿! どうして計算というものが出来ないの!



「くそ……」

 と、エドモンドは苦々しそうに呟いて、オリヴィアの手に視線を落とした。

 柔らかくて白い、なんの苦労も知らなそうな小さな手が、エドモンドの骨っぽい大きな手の中に包まれている。なにか一つ間違えて力を入れすぎてしまえば、簡単に傷つけてしまいそうな華奢な手。

「わたしは……なにを考えていたんだ。先のことを考えもせず……」

 自分自身への煮え立つ怒りと、それでも溢れて止まらない情熱とがひしめき合い、エドモンドの胃は焼けるように痛んだ。

 これまで、不撓不屈の自制心と、愛する人間を失うかもしれないという本能的な恐怖と、取るに足りない良心とで、なんとかせき止めてきたオリヴィアへの情愛を、彼女を乱暴しようとした男達への怒りに任せて解放してしまったのだ。

 まるでそれが当然のようにオリヴィアを抱きかかえ、彼女は自分のものだと、視界に映るすべての男達に誇示して回った。

 いったいいつから、そもそもどうして、こんなに重要なことを忘れてしまっていたのか。

 エドモンドは荒い息をつき、この一月ずっとそうしてきたように、おのれの中のけだものと戦い続けなければならないと決心し直し、歯を食いしばった。

 なじみのない、しかし、いつの間にか自分の一部になっていた幸福感を、今すぐ遠くに押しやらなければならなかった。


 そうして、エドモンドがオリヴィアの手を離そうとすると、オリヴィアはあわてて首を横に振りつつ言った。

「違います、ノースウッド伯爵……いえ、エドモンド、聞いてください」

 柔らかい妻の声で呟かれた自分の名前は、まるで天国から漏れてくる賛美歌のようにエドモンドの耳に響いた。

 これが初めてだった──これほど幸せなのも、これほど苦しいのも。

「あなたのための馬車を探そう。わたしはこの屋敷に残る──」

「誤解しないでください。わたしは、『バレット家の呪い』が本当はないかもしれないという話を、ピートに聞いたんです。それを伝えたかったの」

 オリヴィアの声は緊張に震えていた。

 大きく開いた襟ぐりから、禁断の果実のごとく豊かな乳房がのぞいていて、早まった息に合わせて大きく上下しているのが見える。エドモンドはいよいよ歯ぎしりした。

「わたしの愚かな衝動をあまり煽らないことだ、マダム」

「いいえ、本当の話なんです! お願いだから、わたしを離さないで。どんな理由があっても、たとえどれだけ深い呪いがあっても、二人なら乗り越えられるわ。そうでしょう? しかもその呪いは、本当はないかもしれないんです」

 潤んだ大きい水色の瞳に懇願されて、エドモンドは一瞬、今自分がどこにいて、どこが床でどこが天井なのか分からなくなるような目眩を感じた。

 両手でエドモンドの手をぎゅっと握ったオリヴィアは、そのままゆっくりと自分の胸元までその手を運んだ。

 エドモンドの手が、そっとではあるが、オリヴィアの胸に触れる。


 全身が炎に包まれたように熱くなり、エドモンドの中で何かが音を立てて崩れていった。

 自制心、忍耐、我慢。

 そんなような名前のものたちが、跡形もないくらい粉々になっていった。


「わたしをあなたの妻にしてください。本当の妻に」


 断崖絶壁に立たされたエドモンドは、危うく笑いを漏らしそうになった。

 オリヴィアはこの懇願がどんな結果を導くのか、分かっていないのだ。もう、呪いがあってもなくても、エドモンドの存在そのものから際限なく溢れ出るこの欲望に、彼女を喰い尽くしてしまいそうだった。

 平穏なひとときなど一瞬たりとも与えてやれないくらい、愛し尽くしてしまいそうだった。


「覚悟はできているのか?」

 と、エドモンドはざらついた声で呟いた。「わたしの想いを受け止めきれるのか? わたしはあなたを最後のひとかけらまで求め続けるだろう。それも貪欲に」

 優雅な貴族風の求愛は期待できないだろう。

 ままごとでもない。

 そして、一度でも愛してしまったら、それは回を重ねるごとにさらに深く激しくなってゆく。


 オリヴィアは一瞬たりともエドモンドから視線を離さなかった。

 数回だけ大きな瞳を瞬いて、こくりと小さくうなづく。


「わたしを信じてください。そして、『わたし達』を信じて。きっと道を見つけられるから」


 しばらくの沈黙ののち、エドモンドの大きな手が、再びオリヴィアの手を握り返した。ぎゅっと。

 二人は、互いの胸に希望が溢れはじめているのを、確かに感じ合っていた。

 舞踏会の混乱はまだ続いていて、時々往来がたたずむ二人を邪魔そうにねめつけたが、エドモンドもオリヴィアもそんなことには一向に構わなかった。


 そして、二人が再び玄関口に進もうとしたとき──突然、玄関の先から黒いお仕着せを着た若い従僕が慌てた様子で現れ、息も荒く転がるようにエドモンドの前に躍り出てきた。

 かわいそうに、大柄なエドモンドの前に立つと、まだ十五足らずであろう少年は小人のようだ。彼は恐る恐るエドモンドを見上げると、あきらかに圧倒されて息を呑んでいた。

「あ、あの、ノースウッド伯爵夫人と、ノースウッド伯爵エドモンド卿であられますか?」

 従僕は怯えていた。

 確かに、今のエドモンドは穏やかとは言いがたい姿ではある。しかし少年のひるみようはそれ以外にもなにかありそうに見えた。

「いかにも」

 と、エドモンドはオリヴィアの肩を抱いて答えた。

 まるで本当に本物の伯爵夫婦となったようで、オリヴィアはときめきを隠せなかった。従僕は当てられたようにモジモジとした。

「実は、その……あなたの執事だとおっしゃる方が、馬車の中に居座って……いえ、馬車の中であなた方を待っているそうなんです」

 エドモンドとオリヴィアは互いを見合わせた。

 従僕が続ける。「問題は、その、彼は玄関口の真正面から動くのを拒んでいるのです。そのため外の馬車付け場は大混乱です。彼が言うには、えぇっと、あなた方お二人さえ来ればすぐにでも出発するとのことですが……」

 どうか断らないでくれと、従僕は今にも泣き出しそうなつぶらな瞳でノースウッド伯爵夫妻を交互に見回した。

 ピート(あの老ギツネ)め。

 エドモンドの覚悟は決まった。エドモンドはゆっくりとオリヴィアの片手を口元まで持っていき、その甲に力強い口づけをすると、小さな従僕に向き合った。


「分かった。案内してもらおう──喜んで」

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