The Truth - 3

 雷雲はわずかに遠ざかり、しつこく降り続ける雨だけが夏の夜をどんよりとさせている。

 従僕に案内されて玄関口を出たエドモンドとオリヴィアが最初に見たものは、確かに、正面の馬車付け場を堂々と占拠したバレット家の馬車だった。

 あまり豪華な仕立ての馬車ではないのに、このときばかりは厚かましいほどの威厳を振りまき、他の馬車の交通を妨げている。穴があったら入りたいような気分で、オリヴィアはエドモンドの腕の下に隠れるように身を寄せた。しかし当のエドモンドは、この状況がまるで当然であるかのように、堂々と振る舞っている。


 実際エドモンドは、やり方はどうあれ、さっさと自分たちの屋敷に帰れる手はずを整えたピートを讃えてやりたいくらいだった。

 理由は、多分、エドモンドのそれとは違うのだろうが、まあいいだろう。

 とにかくエドモンドの頭にあるのは、出来るだけ早くこのふざけた屋敷から抜け出し、妻とともに我が家に凱旋することだけだった。その手段などなんでも構わない。

「あのぅ……どうなさいますか」

 先の従僕が、恐る恐るといったようすで夫婦を交互に見回しながら聞いた。

「ああ、乗るさ。もう心配しなくていい。わたし達は今すぐ喜んでここから出発する」

 エドモンドが答えると、従僕は安堵のあまり踊りだしそうなほどだった。

 夫の横で小さくなっていたオリヴィアも、今すぐ出発するとの言葉を聞いて、顔を上げる。するとすぐにエドモンドと目が合って、オリヴィアの心臓はどくんとはぜた。

 ──エドモンドは愛情深い、優しいといってもいいような微笑みを浮かべ、オリヴィアを見下ろしていた。

 このひとは自分を愛していると、確信を持っていえるような表情だった。


 決心したのも、それを誘ったのもオリヴィアだったはずなのに、いつのまにかエドモンドの方がこの状況の手綱を握っている……ような気がする。

 それでも。

 オリヴィアは夫が差し出してくれた力強い腕をとり、玄関口から馬車に向かった。

 周囲の群衆のうらやましがるような視線を受けて、はじめて、オリヴィアはなんだか自分がやっと本当の伯爵夫人になったような気がした。


 二人が漆喰塗りの乗車口の前まで来ても、中で待っているはずの建前『執事』は伯爵夫妻に扉を開かなかった。

 エドモンドはそれを気にする様子もなく、片手でオリヴィアを過保護なくらいにリードしたまま、もう片方の手で扉を開いた。

 エドモンドの助けを借りながら、オリヴィアは馬車に乗り込んだ。続いてすぐ、素早い身のこなしでエドモンドが乗り込む。

 オリヴィアは目を凝らしたが、馬車の中は明かりがなく薄暗くて、しばらく暗闇の中を手探りして座席を見つけなければならなかった。なんとか椅子らしきものを確認し、急いで腰を落ち着けようとすると、突然、どこからともなくしわがれた声が聞こえてきた。

「どこをほっつき回っていたんだ、この阿呆どもが」

 本当に呆れているような、ピートの口調だった。

 オリヴィアは暗闇に向けてむっと口をとがらせ、この意地悪く融通の利かない老人に反論した。「わたしはあなたを探していたんです。ところが部屋を間違って、お酒に酔った紳士達に襲われそうになったところを、エドモンドに助けてもらったんです」

「おお、やっと名前を呼びおったな。次は床入りか」

 あからさまな物言いに、オリヴィアは真っ赤になった。

 薄闇の中、オリヴィアの隣にエドモンドが座ったのが、気配で伝わってくる。エドモンドはしばらく口を開かなかったが、慎重にオリヴィアの手を探りつつ、暗闇に目を慣らしているのが分かった。


 扉が閉められると、ピートは杖を使って上部の板をドンドンと数回叩いて出発の合図をした。

 すぐに、がくんと馬車全体が揺れ、馬はゆっくりと前進しはじめる。

 オリヴィアはもう、優雅な舞踏会にも、華やかな屋敷にも未練はなかった。ただエドモンドと共にバレット家の屋敷へ帰りたい。そして、二人の愛を確かめ合いたかった。


 エドモンドはしばらく沈黙を守っていたが、オリヴィアの手を握っているのとは逆の方の手を膝の上で固く握りながら、じりじりとした思いで祖父を見据えていた。

 ──バレット家の呪いは、ないかもしれない。

 そんな告白を聞いてから、エドモンドの世界はぐるりと一転したも同じだった。子供の頃から身肌に感じ、恐れ、苦しんできた家族の悲劇の連続。オリヴィアと出会ってからは、ひと時も忘れられないほどの恐怖を、この呪いのせいで味わされてきた。今の今まで。

 それをずっと、ピートは隠してきたというのか?

 確かにエドモンドとピートは、世間でいう祖父と孫息子のような、温かい愛情で結ばれた関係を築くことはできずにいた。

 しょせん、エドモンドにとってピートは、大人になってから突然現れた晴天の霹靂で、寝耳に水も当然の存在だったのだ。

 二人の関係はどこか他人然としていて、エドモンドはピートに寝食を提供し、ピートはエドモンドにそれなりの敬意を払い、領主としての権利を侵さないという暗黙の了解のうえに、あやうく成り立っている。

 しかし、たしかに……エドモンドは一度も、ピートと『バレット家の呪い』について話し合ったことはなかった。

 本当は聞くべきだったのだろうか。

 そうすれば、なにかが変わっていたのだろうか。

 どちらにしても、真実は今、明らかになろうとしている。



 砂利道に入ったのか、がたがたと揺れる座席に居心地の悪さを感じながら、オリヴィアは息をひそめていた。

 エドモンドの熱い体温が、しっかりと握られた手から伝わってくる。ある意味、オリヴィアはピートの存在に感謝していた。

 もし今この馬車の中で、エドモンドと二人きりだったら。

 お互いに、どれだけ情熱を抑えておけるかは、神のみぞ知る謎だったから。


 三人はずいぶん長い間、黙り続けていた。

 誰が最初に口を開くことになるのかは、いよいよ忍耐の競り合いのようになり、暗闇の中でお互いの出方を探っているような状態だった。特に、エドモンドとピートは。

 オリヴィアはだんだんと居たたまれなくなり、あと五分……と、心の中で決意した。あと五分しても誰も話し出さなければ、自分が話題を切り出そう。


 そんな時だった。

「……お前ら二人を見ていると、わしは自分の愚かな過去を思い出す。特にエドモンド……お前は危うくて見ていられんことがあった」

 先に喋りはじめたのはピートだった。

 その声は驚くほど落ち着いており、いままでのしゃがれ声がつくり声だったのではないかと思えるほど、はっきりとしていて明瞭だった。オリヴィアは素早く隣のエドモンドに顔を向けたが、彼はじっとピートを見据えたままだ。

 ピートの流暢な独白は続いた。「お前のその、頑固に現実を受け入れようとしない姿勢は、まさにバレット家の愚かなる男たちに代々受け継がれてきたものだ。わしも、息子も、お前も、形さえ違えど全員同じ穴のムジナだ」

 愛する夫を愚か者呼ばわりされて、オリヴィアはもう少しで反論に口を開くところだった。しかし、エドモンドの手がぎゅっとオリヴィアの手を握り、それを止める。

 オリヴィアは身もだえしてしまいそうなほどだったが、大人しく彼の無言の願いに従った。

 いや、従おうとした。

「お前は露骨にそこの小娘に熱を上げていたくせに、それを認めようとしなかった。お前の父親は、妻の死を認められなかった。そしてわしは……」

「え、ちょっと待ってください!」オリヴィアはつい口を挟んだ。「露骨に? 熱を上げていた? それは本当ですか?」

「うるさいんだお前は。ちょっと黙っておれ」

「でも、それはぜひ聞かせていただきたいところです。どうしてあなたの目にはそう映った──」

 と、言いかけたところで、エドモンドの手がさっと伸びてきてオリヴィアの口をぐっと覆った。まるで焦っているように。「マダム、他人などに聞いて確認しなくても、後でいくらでもわたしが教えてあげよう。今は黙っていてくれないか」

「ん──っっ」

 オリヴィアのくぐもった声が狭い馬車内に響いたが、男たちはいわば、それを無視した。

 馬車はいくぶんか速度を上げているようで、雨降りの夜中にしては早い走りをしている。このぶんで行けば、屋敷に着くまでそう長くは掛からないだろう。

 ピートは今一度、尊大に咳払いをした。


「そしてわしは、妻が生まれたばかりの息子を残しわしから逃げたのを、認められなかった。そういうことだ」


 エドモンドの手に口を押さえられたまま、オリヴィアは大きく目を見開いた。

 今、ピートはなんと……?


「逃げた? 亡くなった、ではなく?」

 オリヴィアが感じたのと全く同じ疑問を、エドモンドがゆっくりと、一語一語をはっきり発音しながら言った。いつのまにかエドモンドの手はオリヴィアの口を解放していたが、オリヴィアは何も言えなかった。

 ピートはすぐには答えず、ふいと横の窓に顔を向けると、暗すぎて見えるはずもない夜景を見つめるふりをしていた。


「わしの母は確かに出産で亡くなっているという話だ。乳母から聞いた。お前の母親とその妹のことは疑いもない。彼女らも同じ理由で亡くなっている。しかし……あの馬鹿女は違う」

 ピートの声はわずかに震えているように聞こえた。「あれはわしから逃げおったのだ。しかも、わしが目をかけてやっていた馬丁の息子とともに」



 重い沈黙が流れた。

 エドモンドは、ピートの告白の意味を正しく理解するために、数秒なにも言わずに祖父の輪郭を見つめていた。ふざけた男ではあるが、こんなふうに冗談を言う性質たちでないのは、エドモンドもよく分かっている。

 言葉を失って固まっているオリヴィアの手を握ったまま、背筋を伸ばしたエドモンドは、喉にこみ上げてくる唾液をごくりと飲み込んだ。

 これが……?

 こんな単純なことが、バレット家の真実だと?


 聞きたいことは五万とあったが、今この瞬間に大切なことは、それほど多くない。

 エドモンドは短いため息をつくと、祖父の暗い思い出にはできるだけ手を出さないようにしようと心に決めた。それらはいつか、ピート自身が語りたくなった時に、知ることが出来ればいい、と。

 たとえ永遠に知ることができなくても、過去はもう変えられないのだから。

「ひとつだけ、教えてください」

 エドモンドの穏やかな声が狭い馬車いっぱいに響いても、ピートは小さな窓から視線を離さないままだった。

「あなたは、息子とは……わたしの父とは、会ったことがありましたか」

 ピートは外を見たままわずかに頷いた。

「……むこうは気づかなかっただろうがな。まあ、わしによく似た、頑固そうな子だった……少なくとも、あれの父親は間違いなくわしだった訳だ」

「どうして息子の元に帰らなかったんです?」


 しかし、ピートはもう答えなかった。

 エドモンドも、重ねてもう一度聞こうとはしなかった。ピートは行方不明だった間、一体どこにいたのか。逃げた妻を追っていたのか、それともただ傷心に暮れて放浪していただけなのか、なにか問題に巻き込まれて帰れなかったのか……。

 謎は残るが、その孤独な横顔を見るかぎり、彼が深く後悔しているのだけは確かだった。エドモンドは静かに目を閉じて、深く息を吸った。


 再び瞳を開いたとき、エドモンドの手の中にあるオリヴィアの手が、かすかに動いているのが見えた。

 顔を上げると、大きな水色の瞳にじっと見つめられているのに気が付く。

 薄い暗闇の中でも、その瞳は、まるで希望の象徴のように明るく輝いている。──ああ、今だけじゃない。これまでもずっとそうだった。そうやって、エドモンドの苦しみに一筋の光を投げかけてくれていたのが、彼女だった。

 そして、これからも。


「オリヴィア」

 と、エドモンドは彼女の名前を呼んで、彼女の両頬をしっかりと手の中に収めた。

 前でピートがなにがぶつぶつと文句を垂れている。

 馬車が忙しく揺れて、車輪がぎしぎしと音を立てる。でも、そんなことはどうでもよかった。


「初めて見た瞬間から、あなたを愛している。この想いは募るばかりだ。そして今、あの頃とは比べものにならないほど、強くあなたを求めている」

 オリヴィアは両手でそっとエドモンドの手首に触れ返した。

 互いの熱い血潮が、どくんどくんと、感じられるような気さえ、する。

「この分では、わたしは今にあなたを愛し尽くしてしまうだろう。あなたを壊してしまうかもしれない。どこまで自制できるか、自信はない。あなたは悲鳴を上げて逃げ出すかもしれない。そのくらい激しい愛だ」

 その台詞に、オリヴィアはひるむことさえなかった。そして、

「ええ……もしかしたら」

 逃げ出すどころか、甘く微笑んで、夫の前に不器用に唇を差し出す。「でも、あなたは追ってきてくれるでしょう、ノースウッド伯爵……?」


 そして、オリヴィアは世界で一番優しい口づけを受けた。

 それはずいぶん長い間続き、堪忍袋の緒を切らしたピートが邪険な咳払いをするまで、止むことはなかった。

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