Let Me Fall - 2

 晴れわたる青空、生い茂る緑の香り、肥沃な大地の感触──。

 馬たちは勢いよく砂利道を駆けぬけ、その手綱を握るローナンの機嫌をますます良くさせた。実際、彼はとても機嫌が良かった。

 あの兄を狼狽させるのに成功したのだ。

 それはローナンに甘い勝利を感じさせたし、傍観者として強く興味をそそられる出来事でもあった。エドモンドとオリヴィア。なんと面白い二人だろう、と。

 おまけにどうやら、ローナンは最高の席で彼らを鑑賞できるようなのだ。

 御者台から後ろを振り返り、背後にある馬車を盗み見るローナンの口元には、悪戯っぽい曲線がかかれている。──この小さな密室の中で何が起こっているだろう? オリヴィアはあの格好だし、エドモンドはこれ以上ありえないほど頭に血が上っている。いや、頭ではなくもう少し下の方かもしれないが。


 ローナンは落ち着いた性格だったし、滅多なことでは興奮しなかったが、今回ばかりは子供じみた興味を抑えきれなかった。


 バレット家の敷地から出て数キロ。

 二またに分かれた道に馬車が差しかかると、ローナンは『左』に馬を向けた。

 ウッドヴィルへの近道は『右』だ。

 ローナンの選んだ道は近道より二倍の時間がかかる。──それこそまさに、ローナンが望んでいることだった。





 オリヴィアは狭い馬車の中でせわしく視線を泳がせながら、どこかに身を隠す場所がないかと探していた。

 救いを求めるように上を仰いでも、見えるのは低い屋根だけ。

 自分がどれだけ狭い箱の中に閉じ込められているのか、思い知らされるだけだった。


 エドモンドはそんなオリヴィアを凝視しながら、この娘を懲らしめる百の方法を思案中だった。何かに考えを集中していないと自分を抑えていられなかったからだ。

 エドモンドはオリヴィアとローナンの二人にたいして大いに腹を立てていたが、それ以上に彼が許しがたかったのは他でもない、彼自身だ。

 ──あの白い肌を見てみろ。

 ──あの柔らかい肢体を。

 歩く男の夢が、薄いレースに身を包んできょろきょろと外をうかがっている。

 エドモンドはオリヴィアにたいして禁欲を誓ったつもりでいたが──死人ではない。呪わしくも人一倍健康な成年男性であり、少なくとも法律的には彼女の夫である。

 彼女に触れるのを我慢するだけでも脂汗がにじむほどの忍耐と努力が必要だというのに、そこに嫉妬が加わっては最悪だった。

 この薄いレースに包まれた生き物をローナンの隣に立たせ、他の街の男たちの目にさらすなど、考えるだけで耐え難いことだった。

 しかしエドモンドは、彼女に触れ、彼女が自分のものだと主張することができない。

 生き地獄とは、業火に焼かれることでも、針のむしろに立たされることでもなく、天国を目の前にしてそれに触れるのを禁じられることなのだと……エドモンドは理解した。


 エドモンドの視線を感じる。

 いや、感じるなんてものではない。エドモンドはまるで悪魔と一晩中戦ったあと、まだ決着がつけられないで苛々している悪鬼ような顔でオリヴィアを睨んでいた。

 今の彼なら素手で彼女の首をへし折ることもできるだろう。

 オリヴィアは恐怖を感じていたが、同時に、彼がすぐ目の前に座っているということで、説明しがたい安心をも感じていた。

 エドモンドがここにいる。

 彼の気を惹くために選んだドレスを、(その気性はどうあれ)、熱心に見つめている。

 ──逃げることができないならば、せめてこの場を和めたり、気の利く会話を始めたりしなければ。そう考えたオリヴィアは、中央仕込みの洗練されたお愛想笑いをにこりと顔に貼り付けて、エドモンドに向けて微笑んでみた。


 エドモンドの心臓は、今にも破裂せんばかりの強さで脈打ちだした。

 嗚呼、神よ。

 エドモンドは信心深い男ではなかったが、オリヴィアの笑顔は……天国と地獄の存在をいっぺんに彼に突きつけてくる。いつもそうだ。

 彼女が可愛らしく繊細な笑顔をつくると、それは朝の太陽のように瑞々しく輝いて、エドモンドの存在そのものを鷲掴みにするのだ──。


『話題に困ったときは、天気の話をしなさい』

 これは、初めて社交界に顔を出しはじめた頃から口を酸っぱくして言われてきたことで、オリヴィアは今こそこの約束ごとを利用するべきだと思った。

「あの……今日はとてもいい天気ですね、ノースウッド伯爵。青空がとても綺麗だわ」

 すると、エドモンドは一層険しい目つきになってオリヴィアを睨んだ。

 オリヴィアはすぐには諦めなかった。

「きっと街を散策をするには最適の日和です。太陽は肌に良くないといって嫌う婦人も多いけれど、私は好きだわ。温かくて……」

「マダム」

「気持ちい……え?」

「マダム、一体何がしたいんだ」

 エドモンドの口調は明らかに苛立っていた。

 驚いたオリヴィアは、しばらく口をぱくぱくさせて何と答えていいのか考えていたが、エドモンドが先に続けた。


「その裸同然のはしたない格好で私の弟と街を出歩いて、一体何がしたい?」


 馬車は相変わらずのんびりとした調子で進んでいて、時々、車輪が小石の上に乗ったり小さな溝に落ちたりして揺れる以外、順調な走りだった。 

 オリヴィアの言うとおり天気のいい日で、閉め切った馬車内は蒸し暑く感じるほどだ。しかし、エドモンドの額ににじんでいる汗は、暑さのせいではない。

 エドモンドとオリヴィアは向かい合って座っていた。

 四人が向き合って座れる形の馬車だったから、いくらかの距離はあったものの、それでもお互いの呼吸を感じられるほどの近さには変わりない。


 オリヴィアは暑さと羞恥とで肌を赤く火照らせて、壁の方へにじり寄った。

 裸同然と言ったエドモンドの台詞には明らかな棘があったし、オリヴィアが始めた天候についての会話を引き継ぐ気がないのは明らかだった。

 エドモンドはひどく怒っているように見えた──それは、とても理不尽なことだ。

 つい昨々夜、愛人を作っていいとさえほのめかしたのは彼なのに。

 それに、敬愛する姉のドレスを悪く言われたのも嫌だった。


「お言葉ですけど……ノースウッド伯爵、このドレスは裸同然なんていう下品なものとは違います。姉のものだったのよ。少し大胆なだけです」

「では言い直そう。その少し大胆なドレスで私の弟にからみついて、何をするつもりだ?」

「からみついてなんていません! 彼は……っ」

 オリヴィアは声を上げた。

「彼は私を慰めてくれているだけです! 夫にかまってもらえない可哀想な義理の姉を、散歩がてらに仕立て屋に連れて行ってくれるだけだわ!」

 言い終わるとオリヴィアはなんだか急に悲しくなって、ついにエドモンドから視線をそらすと、ぷいと小窓の方を向いた。

 しかし、エドモンドが肩を落とすのが目の端に見えて、思わず顔を戻した。

 エドモンドは怒りと悲しみがごちゃ混ぜになったような顔をしていた。


「どうして……そんな顔をするんですか、ノースウッド伯爵?」

 オリヴィアは聞いた。

「あなたには想像もつかないだろう、マダム」

 エドモンドは答えた。

 たしかにオリヴィアにはエドモンドの心が読めなかった。でも昨々夜、バレット家の呪いについて話してくれた時の彼を覚えている。

 彼は、人一倍自分に厳しい人間だ。

 あまり人に弱みを見せようとしない男でもある。そんな彼が悲しみの片鱗を見せるのは、本当につらい時だけのはずだ。

 オリヴィアは自分のドレスに今一度視線を落とし、しばらくきゅっと唇を結んで押し黙った。


「……この服がお気に召さないなら、すぐに着替えます。ローナンに頼んで屋敷に戻ってもらいましょう」


 オリヴィアは小声で敗北を認めて、馬車の中で立ち上がろうとした。

 するとその時、急に馬車が大きく縦に揺れて、オリヴィアの身体が座席から前へ弾かれるように飛んだ。エドモンドはすぐに立ち上がったが、さすがに間に合わず、オリヴィアはゴンと壁におでこをぶつけて正面の席に倒れこみ、そのままずるずると床に落ちた。

「ーーっ、ご、ごめんなさ……」

 目に涙を溜めて馬車の床に座り込んだオリヴィアを見て、エドモンドは心の中で毒づいた。

(くそ、だからこの娘は……)

 もっと強情な女だったら、突き放せたかもしれないのに。

 こんなに美しくなかったら、背を向けられたかもしれないのに。

 しかしオリヴィアはか弱く、やわらかく、そして目を離せないほど綺麗だった。ちくしょう、どうして怪我なんてするんだ。全部、私のせいじゃないか!


 エドモンドは持てる限りの全ての自制心を総動員すると、オリヴィアの側にひざまずき、彼女を頭からすっぽりと抱いて、ゆっくり髪をなでた。

「よし、よし、大丈夫だ」

 オリヴィアの身体は温かくて気持ちがよかった。

 まるで焼きたてのパンのように柔らかくて、うっとりとするような甘い香りがする。「傷を見せてごらん、オリヴィア。痛くはしないから」

 すると、オリヴィアはエドモンドの言うとおりにした。

 小さな顔を上げて、つんとおでこを突き出すと、じっと彼を見つめる。

 傷はたいしたことはなかった。

 少し赤くなっているだけで、もしこれが自分についた怪我なら、エドモンドは怪我とさえ呼ばなかっただろう。しかしそれがオリヴィアの肌についたとなると、ひどく心が痛んだ。


 エドモンドはオリヴィアの顔に張り付いたほつれ毛を両手で払うと、泣きそうな顔をしているオリヴィアを覗き込んで、しばらく見つめた。


 オリヴィアの泣き顔──。

 彼女の笑顔はエドモンドの存在を鷲掴みにしたが、泣き顔は……彼の心を粉々にした。床に落ちたポーセリンのように無残に。どんな修復師も直せないくらい散々に。

 足場の悪い道に差しかかったのか、馬車は相変わらず揺れ続けていたが、エドモンドはこれ以上オリヴィアに怪我をさせるつもりはなかった。

 両腕を使ってぎゅっと華奢な全身を包むと、そのままゆっくりと抱き上げ、席に座らせる。

 オリヴィアは潤んだ瞳でエドモンドを見上げ続けていた。


「オリヴィア。本当に街に行きたいのなら、戻る必要はない。服を作りたいのなら、いくらでも注文すればいい……ただ今度は、もう少し肌の隠れるものにしてもらえると助かるが」


 今度はエドモンドが敗北を認める番だった。

 馬車は走り続けた。

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