Deep In A Room - 1

 エドモンドは、忍耐の最後のひとかけらを決して手放すまいと努力しながら、肩に置かれたヒューバートの腕を片手でがっしりと掴んだ。

 軽薄なうぬぼれ屋であるヒューバートは、こと肉体的な争いになるとエドモンドに勝てないのがよく分かっているから、わずかに顔をしかめつつもすぐに手を下ろした。エドモンドもすぐにヒューバートを離した。


「そ、そんなに怖い顔をすることはないだろう」

 そう言って、ヒューバートは腕をさすりながら一歩下がった。

 エドモンドはなにも答えずに、熱くたぎった緑の瞳で相手を見下ろしている。ヒューバートは彼から目を逸らさないようにかなりの強がりを強いられた。エドモンド・バレットの鋭い視線は、それが向けられた相手を凍りつかせるだけの迫力がある──。通じないのはオリヴィアくらいだ。

「まったく、隣人を舞踏会に招待しただけじゃないか。礼を言われてしかるべきだと思うね」

「招待には心から感謝しよう」

 棒読みで礼らしきものを言ったエドモンドは、そのまま横に並んでいるオリヴィアの腰周りに手を伸ばして、夫としての所有権を主張しながら続けた。

「もしそれ以上に重要な用事ができなければ、喜んで参加させていただこう。妻と共に」


 パン、パン!

 緊迫していた空気は、マーガレットが数度手を叩いたことで破られた。

「素晴らしいことですわ! きっと興味深い集まりになるに違いありませんわね。ね、オリヴィア? 舞踏会には私のドレスを着てくださるのかしら?」

「え、ええ、もちろんそうしたいですわ。それまでに仕上がるのなら……」

「来週といえば急がなくてはならないわね。一刻の猶予もないわ。さぁ、さっそく採寸にまいりましょう」

 採寸と聞いて、男たちの視線は再びオリヴィアの肢体に集中した。


 手馴れたマーガレットによってエドモンドから引き離されたオリヴィアは、店の奥にある採寸室へあれよあれよという間に連れて行かれる。採寸室は、天井から下がったカーテンで店内と仕切られているだけの空間だったが、中に入るとなかなか大きく、興味深いものが沢山並んでいた。

 大きな全身鏡が三つ、採寸台を囲むように立っている。

 壁には生地やレースの見本が掲げられていて雑然としていたが、板張りの床はよく磨かれていて清潔だった。そしておもむろに壁に掛けられていた皮製の定規を肩に置いたマーガレットは、いくつもの待ち針が刺さった針クッションを手元に置くと、優雅に微笑んで両手を胸の前で合わせた。

「さあ、こちらにいらして!」

 オリヴィアはびっくりして、目の前にいるマーガレットと背後にいる三人の男たちを交互に見回した。 

 ──カーテンは開いたままだ。


 もちろんオリヴィアは、なんども仕立て屋で採寸したことがある。

 オリヴィアの母は早くに亡くなっていたから、多くは姉のシェリーにお目付け役になってもらって、おもに地味で家庭的な仕立て屋を好んで訪れていた。派手好きで流行を追い求めるシェリーは時々文句を言ったが、そういった小さな店で扱う古典的なドレスの方がオリヴィアに似合うことは認めていて、あれこれと色を選ぶのを助けてくれたりした。

 袖の長さや胸元の繕いについて仕立て屋に助言をしたり。

 採寸をするとき、髪を持ち上げてくれたり。


(えっと……それを頼んでもいいのかしら)

 立ち尽くしている大柄な三人衆を眺めながら、オリヴィアは困惑した。いいとしたら、誰に頼むべきだろう?

 最も衣装に詳しそうなのはヒューバートだった。

 最も優しく、理解にあふれているのはローナンだった。

 エドモンドはどう考えても適役とは思えなかった──が、彼はオリヴィアの夫だ。できるなら彼の好みに合わせたドレスを作りたかった。

「あの、ノースウッド伯爵……」

 遠慮がちにオリヴィアが口を開くと、エドモンドがごくりと唾を飲み込むのが遠くからでも分かった。ひるみそうになる自分を叱咤して、オリヴィアは続けて懇願した。

「こちらに来て、手伝っていただけますか? あなたの助言も聞きたいのです」

 できるだけ控え目に聞いたつもりだったが、オリヴィアの願い事は周囲の異常なる関心を引いたようで、その場が短い沈黙に包まれるのが分かった。

 エドモンドが「いいだろう」と低い声で呟いてオリヴィアの前に進み出るまで、かなりの時間が掛かったように思える。残された二人の男たちは物欲しそうな目で彼の後姿を追っていた。

 オリヴィアは早くも自らの選択を後悔しはじめていたが、いまさら言ったことを取り消すこともできない。

 ゆっくりと、弱った獲物に近付こうとしている野犬ような足取りで歩いてくるエドモンドを、受け入れるしかなかった。

 ──マダム、私の忍耐を試すのもいい加減にしたらどうだ。

 そんな風に言ってオリヴィアに癇癪を起こすエドモンドの声がありありと想像できた。──私は婦人のドレス選びに付き合っていられるような暇な男とは違うのだ、マダム!

 しかし、エドモンドに助言を借りて彼好みのドレスを作りたいのは本当だったし、彼以外の男に採寸の手助けをしてもらうのは嫌だった……。

 髪を持ち上げてもらったり。

 下着の紐を緩めてもらったりするのも。

 最終的にエドモンドは、まるで鉄の鉛に足を引きずられているような速度でオリヴィアの目の前にやってきた。

 そしてなぜか瞳を輝かせているマーガレットの前で、エドモンドはゆっくりオリヴィアの耳元に口を近づけると、周りには聞こえないような低い声で呟いた。

「マダム、私の忍耐を試すのもいい加減にしたほうがいい」

 オリヴィアは恐怖のデジャ・ヴに飛び上がりそうになった。そんな彼女の腕を片手で押さえたエドモンドは、苛立たしげに早口で続ける。


「私はあなたを他の男たちと共有できるほど心の広い男ではないんだ、マダム」





 ──カーテンは目にも止まらぬ速さで閉じられた。

 おまけに、閉じられたカーテンの後ろからガタガタと大きな家具を動かすような騒音が聞こえてくる。多分、兄が侵入者を防ぐために裏で防波堤を築いているのだろう。

 長い両手を伸ばして頭の後ろに組んだローナンは、ぽかんと立ち尽くしている兄の宿敵を横目に眺めながら、楽しげに唇の片端を上げて言った。

「どう、わが義姉上はなかなかの美人だろう?」

 ヒューバートは閉じられたカーテンを凝視している。まるで、しつこく目を凝らしていればカーテンの奥を見透かせるようになるとでもいいたげに。

「そのようだな」

 と、ヒューバートは答えた。

「世間知らずだけど一生懸命で可愛いよ。屋敷の女主人としてはまだまだ学ぶところがあるけど、礼儀正しいし優しいし、理想の妻だよね。僕も彼女みたいなのが欲しいな」

「そのようだな」

 と、再び答えたヒューバートは、やっとローナンの方に向き直った。

 神経質そうなサウスウッド伯爵の瞳は、疑わしげにローナンを値踏みしている。対するローナンは、それを楽しんでいるような笑顔を崩さなかった。

「ねえ、僕たちは紳士だし、兄さんのように息を荒げながら守らなくちゃいけない奥さんがいるわけでもない。外に出ようじゃないか」

 そう提案したローナンは、ヒューバートの肩に片手を置いた。


「それはそうと、舞踏会への招待は感謝するよ。バレット家の皆は喜んで参加するだろうね」





 カラン、カランと入り口の呼び鈴が鳴って、二人の男たちが仕立て屋から出て行ったのが分かった。

 ひとまずの敵は消えた訳だが、そうなると今度は、エドモンドは別の戦いに挑まなければならないことになっていた。──自分自身との戦いだ。

 それでなくともエドモンドの忍耐は限界を迎えていて、どうして真っ直ぐ立っていられるのか自分でも不思議なほどなのだ。

 そこに、


「あの、ノースウッド伯爵」


 餌をねだる仔犬のような瞳をしたオリヴィアが、目の前にいる男が何を思っているか知りもしないで、無邪気に声をかけてくる。

「そこにあるスケッチのドレスを選んだんです。どの色を使うべきだと思いますか?」

 オリヴィアは木でできた採寸台の上に立っていて、彼女の背後ではマーガレットが忙しく作業をしている。問題は全身鏡で、背の高い鏡がオリヴィアを囲むように立っているのだ。

 目を逸らそうにも、ほとんど逃げ場がなかった。

「好きな色にするといい。あまり目立たない色の方が好ましいが」

 選ばれたスケッチにはほとんど目もくれず、むっつりと答えたエドモンドに、オリヴィアは悲しそうな表情をした。

 ──ああ、くそ!

 カーテンをびっちりと閉めたせいで、二人 (とマーガレット)は狭い密室の中に閉じ込められた形になっている。

 おまけに、エドモンドがカーテンの前に椅子や足台や生地を巻く棒を並べたてて邪魔者が入って来られないようにしたせいで、もともとたいして広くない採寸室は余計に狭い空間となっていた。

 マーガレットはさすが経験豊かな女主人で、エドモンドの奇行に黙って理解を示していた。

「目立たない色……」

 オリヴィアは考え込んでいるようすだった。「黒……でしょうか」

「マダム、私はそこまで嫌味な男ではない。妻に黒いドレスを着せて舞踏会にでるほど陰気なわけでも」

「では、茶色?」

「…………」

 エドモンドは壁にぶら下がっている生地見本の束を手にとって、ひとまずオリヴィアの存在から気を逸らす仕事ができたことに感謝した。

 四角に切り出された小さな布をまとめた生地見本は、ありとあらゆる種類と色で溢れていた。手触りのよい絹もあれば、肌が傷付きそうなクレープ地まである。エドモンドは男性のうちでも特に服装に無頓着な性質であったから、オリヴィアの喜びそうな布を選ぶのは難しかった。


 しかし──何枚もめくっていくうちに、濃い色が続いていた見本の隙間から一枚、柔らかい桃色の生地が出てきた。

 滑るような感触があるが、肌が透けるほど薄すぎることもなく。カーテンから漏れる明かりに当てるだけで瑞々しく輝く、繊細な糸の流れをもっていた。

 そしてなによりも、オリヴィアが街の中で好きだと言った花と同じ色をしていた……。


「これがいいだろう」

 そう言って、エドモンドは選んだ布をオリヴィアの前に差し出した。

 最初、オリヴィアは布ではなくエドモンドの方を見上げて大きな瞳を揺らしていた。それから、ゆっくりと布に視線を落として……


「これは、花壇にあった花の色ですね」と言った。「覚えていてくれたのですか?」


 一瞬ではあるが、エドモンドは幸せに似た思いを感じた。


「『覚えておこう』と、言っただろう」

 エドモンドがそう言うと、オリヴィアは水色の瞳を嬉しそうに細めた。

 微笑んだオリヴィアを見て、エドモンドは、自分も彼女に微笑み返せたらもっと幸せになれるだろうと──夢を見た。


「そうですね、あなたは約束を守る人です。ノースウッド伯爵……」

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