Farrell's Temptation - 2
彼はゆっくりと時間をかけてオリヴィアの手の甲に口付けをした。
一見──ヒューバート・ファレルの欠点を見つけるのは簡単なことではない。
彼の身のこなしは都会風に洗練されており、優雅に巻かれた金髪は古代ローマの美神像のようだし、少し神経質そうな印象を与える細い鼻筋をのぞけば、なかなかの美青年でもあった。
瞳は青で、貴族の生まれを主張するかのような鈍い輝きを放っている。
身長は、特筆するほどではないが、平均よりは高いようだった。
「まったく冷たいものだね、エドモンド。こんなに可愛らしい奥さんをもらったというのに、一言の知らせも送ってこないとは? 僕だったら世界中に公言して回っているところなのにな」
そう言ってヒューバートは、オリヴィアの全身に意味ありげな視線を走らせると、エドモンドと向かい合うべく背筋をうんと伸ばして立ち上がった。
ヒューバートの足元はかかとのある洒落た靴で決められていたが、それでも長身のエドモンドには届かない。
座ったままのオリヴィアは、二人の男を交互に見上げながら混乱していた。
二人の伯爵は熱心にお互いを見つめ合っている。
サウスウッド伯爵……。
たしかにこの地方は、大雑把に北のノースウッド領と南のサウスウッド領に分割されていて、それについてはオリヴィアもよく知っている。
ただ、結婚して間もない上に、エドモンドが社交ごとにほとんど興味を示さないので、実際の交流はまだ何もなかった──が。
(もしかしたら、これが理由だったのかも……!)
と、ひらめいて、オリヴィアは瞳を輝かせた。
社交ごとは、なんといっても妻の度量が試されるまたとない機会だ。
界隈の有力者を気持ちよくもてなし、気の利いた会話を円滑にすすめられるよう夫の手助けし、春風にも負けない爽やかな笑顔を振りまくことで、夫を引き立てる。
しとやかで愛らしく、また控えめながらも馬鹿ではない妻がいるとすれば、エドモンドの評判も高まるはずだ。
これこそが、ローナンが彼女のために計画してくれた「機会」なのでは?
一点の染みもない完璧な伯爵夫人ぶりを演じてみせる。
そうすればエドモンドの頑なな心もいくらか解けて、オリヴィアを妻として認めてくれるかもしれない……。そうだ!
そうと心が決まれば、オリヴィアの行動は早かった。
今日まで、エドモンドはこの気取り屋の隣人ヒューバートについて、かなり忍耐強く接してきたつもりだった。
ことある毎に張り合ってくるファレル家の若主人に、バレット家の当主は寛容をもって対処してきていた。──エドモンド三十六歳、ヒューバートはその一つ年下の三十五歳とくれば、幼い頃から比べられ続けたのも自然の成り行きのようなものだ。
そのうえノースウッドとサウスウッドは大昔、人為的に二つに分けられた領地だったから、今も境界線のあたりの所有権を巡って大小のいざこざがある。
特にエドモンドの父が領地の管理を放棄していた十年間、敵の不在をいいことに、ファレル家はやりたい放題だった。
しかし、エドモンドが伯爵として領地を継承してからは、それらの問題について一応の決着がつけられていた。
──そう、エドモンドはファレル家にとって手強い交渉相手となったのだ。
だから数年前、サウスウッド伯爵の地位を得たヒューバートがエドモンドを目の敵にするのも、ある程度は仕方がないことだと思っていて、気に留めてさえいない。
正直なところ、他人が自分をどう思っているかなどエドモンドにはどうでもいいことだった。特にヒューバートのような頭の軽い男が相手とくれば。
「そちらこそ色々と噂は聞くが、知らせを受け取ったことがないな、ヒューバート」
そう言って、エドモンドは一歩前に進み出た。
都合のいいことに、オリヴィアは自分よりずっと小さいから、そうすることですっかり背後に隠れてしまう。
エドモンドはとにかく早く、オリヴィアをこの場から遠ざけたかった。ヒューバートの好色な視線が彼女を吟味しているのが明らかだったからだ。
領地を争うのはいい。
評判を競うのも、気は進まないが、必要なら受けて立とう。
しかし、オリヴィアを巡って争う気だけはなかった──。彼女は、阿呆な男二人が矜持をかけて争う対象になるような下卑たものではなく、
もっと神聖なもので、
かたくなに護らなければならないもので、
そしてなによりも……エドモンドの妻だった。
「結婚したとなれば話は別じゃないか。君の場合は特にね、一生独身を貫くんじゃないかと皆が思いはじめていたところだったからね」
対抗するようにぐっと首を引いて、ヒューバートは言った。
「私の私事について興味のある人間がいるとは思わなかった」
と、エドモンド。
「我々貴族はお互いの近状について興味を持ち合うものだよ、エドモンド」
エドモンドはもう少しで、ふんと相手をあざ笑うところだった。結局のところ、近状とは醜聞に他ならない。現実主義者のエドモンドにとって、社交界の醜聞など紅茶の一葉ほどの価値もない。
愚かにも扉の外にばかり気を取られていたせいで、採寸室にこんな厄介な敵がいるとは思ってもみなかったエドモンドは、じりじりと威圧的に相手に歩み寄って不快感をあらわにした。できるならローナンが気を利かせてオリヴィアを外に連れ出してくれるのを期待したが、のん気な弟は片手を口元にそえて場面を楽しんでいる。
すると望みは、オリヴィア自身が不穏な空気に気付いてこの場を離れてくれることだった。
(外に出なさい、マダム)
エドモンドはちらりとオリヴィアを振り返ると、そう、素早く唇だけ動かして意向を伝えた。
(ここは安全ではない──ローナンと外に出るんだ)
──それは伝わったかに思えた。
座ったままだったオリヴィアはひらめきに水色の瞳を輝かせると、いっそ勇ましいといっていいほどの勢いですくっと立ち上がったからだ。
オリヴィアは喜び勇んで立ち上がった。
普段のエドモンドの動向は概して難解であったが、今回は分かりやすいサインだった。
こちらを振り返ったエドモンドは、素早く唇だけを動かしてなにかを言った──はっきりと全てを見分けられたわけではないが、「出る」、「ここ」という二つの単語だけはオリヴィアも理解することができた。
さしずめ、
『ここに出てきなさい、マダム。きちんとヒューバート氏に挨拶をするんだ』 というところだろう!
オリヴィアの胸は躍った。
夫の横に並び、印象のよい初対面の挨拶をする心構えは万端だった。
オリヴィアが椅子から立ち上がりエドモンドの横に進むと、彼女のレースのドレスは煌めかんばかりの輝きを放ち、その魅力的な肢体の線をしっかりと強調した。もちろん、その光景はヒューバートの目を存分に楽しませた。
胴にぴったりと張り付いた布は薄く、彼女が腰周りにコルセットを付ける必要がないほどほっそりしていることを証明している。
そして胸元にいたっては……おお、神よ、あなたの恵みに感謝します。
白く柔らかい胸がレース地を押し上げ、今にもこぼれそうにオリヴィアの呼吸にしたがって上下している。
彼女の顔つきは、派手好きのヒューバートからすれば少し大人しすぎる気もしなくはなかったが、繊細なつくりはひじょうに魅力的で、大きな水色の瞳は吸い込まれそうだった。
そして極めつけに、彼女は鈴の音のような声をしていた。
どんな男も降参せずにはいられない種類の、貞淑さと甘さをあわせ持った声──。
「こちらこそお目にかかれて幸福です、サウスウッド伯爵」
エドモンドのすぐ横に並んだオリヴィアは、そう言うと膝をかがめて挨拶をした。
本来ならここで片手を出して口付けを受けるところだが、それは気の早いヒューバートがすでに済ませているので、オリヴィアは軽く頭を下げるだけにとどめた。
その際、柔らかな胸元が高級なプディングのように揺れて……仕立て屋に集まっていた三人の男たちの瞳を大きく見開かさせた。
エドモンドは憤慨していた──これ以上ありえないくらいに。
他の男にオリヴィアを引き合わせると考えただけでも我慢ならないというのに、相手がヒューバート・ファレルというのは最悪だった。くわえて今日のオリヴィアは、忌々しいレースの薄着に身を包んでいて、その純潔が道行く全ての男のものであるかのように愛想を振りまいている。
浮気者で女好きなヒューバートが、こんな格好の獲物を放っておくはずがない。
しかも、長年の宿敵であるエドモンドの妻となれば、これ以上の旨味はないではないか。
とにかくどこでもいい、ここではない何処かへ──それも今すぐ──オリヴィアを追い払わなくては。そう思ったエドモンドは、オリヴィアを見下ろして厳しい視線を浴びせることで意思表示をしたが、彼女はひるまずにっこりと微笑み返してくるだけだった。
「お知らせが遅れてしまって申し訳ありません、サウスウッド伯爵ヒューバートさま。どうか近いうちに、うちへいらして下さいませ。歓迎いたしますわ」
なんだと!
エドモンドはもう少しでオリヴィアの肩をひっつかんで揺さぶってしまうところだった。
しかし彼女は、言い終わるとエドモンドを見上げて微笑む。理想的な妻、夫の社交を助ける忠実な伴侶……そんなものにオリヴィアがなろうとしているのは、明らかだった。
冗談ではない。そんなものは切り刻んで犬の餌にしてくれる。
今、必要なのは、オリヴィア……その呪わしいほど柔らかい胸を隠して、さっさとカーテンの奥に引っ込むことだ!
エドモンドが興奮しているのは傍目にも明らかで、ヒューバートは愉快に胸を躍らせた。
「それはまたとない光栄……いつか必ず伺わせていただくとしましょう。しかし差し当たっては来週、我がファレル家で舞踏会が催される予定なので、ぜひあなたにもいらしていただきたい」
ヒューバートは胸に手を当てながら言った。
「ああ、もちろん君もね、エドモンド」
と、付け加えはしたが、その青い目には優越感のようなものが光っていた。
──エドモンドの舞踏会嫌いをよく知っているからだ。
これまで沈黙を守ってきたローナンが、「僕も行っていいのかな」と口を挟むと、ヒューバートは肩をすくめて「もちろんだとも」と答えた。
「それに、我が家の舞踏会には中央からも多くの客が来ますよ。ミルランド夫妻をご存知かな? バート家の若者たちは? 噂のリンドン姉妹は? 皆、うちの客なのですよ」
「まあ、ミルランド夫妻は小さい頃から存じ上げています。彼らも来るのですか?」
「他にも色々と来ますよ。それも何日か泊まっていただくのが常ですから、舞踏会に料理、ゲームなど、思う存分楽しんでいただけると思います」
「大きな集まりになりますのね、お屋敷は大変でしょう」
「なに、これも伯爵としての勤めというもの」
「そうでしょうか」
弾んできた会話に気をよくして、オリヴィアはにっこりと微笑んでいた。
ヒューバートはにんまりとほくそ笑んでいる。
マーガレットはすまして傍観していて、
ローナンは楽しそうに腕を組んで立っている。
そして、エドモンドは国中の困難を抱え込んだかのように、眉間に深い皺を寄せて仁王立ちしていた。
「そんなわけで、エドモンド」
わざと気軽な風を装って、ヒューバートはエドモンドの肩に手を置くと言った。「君にはぜひ奥さまをつれて屋敷に来てもらわなくちゃいけないな。きっと皆、君が来るのを首を長くして待っているよ」
くそったれが、とエドモンドは思った。
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