Barret's Secret - 3

 すべては突然だった。

 隣で料理を教えてくれていたローナンがふっと消えたと思うと、大きな音を立てて床に叩きつけられていたのだ。

 オリヴィアは動転して、抱えていた調理ボールを放り出してしゃがみ込んだ。

「ま、まぁ、大丈夫ですか、ローナン!」

「ああ、大丈夫……というか」

 ローナンは片手で荒っぽく、口元から頬にかけてを拭いた。何が起こったのかオリヴィアにはさっぱり予想もつかなくて、しゃがみ込んでおろおろしたまま、赤くなったローナンの頬に触れようとした。

 ローナンは少しばかり困ったような表情と、嬉しそうな表情とを交互に浮かべて、オリヴィアの白い手を受け入れようとしていた──が。

 パシっ!

 乾いた音が、無情に響いた。

 またしても、何が起こったのかオリヴィアにはよく分からなかった。ただ、ローナンの頬に触れようとしていた手が急にジンジンと熱く痛み始めて、その慣れない感覚にショックを受けた。

 知らない痛み。感じたことのない、熱さ。

 その時やっと、オリヴィアは二人の前にもう一人の人物がいるのに気が付いた。

 床にうずくまったローナンとオリヴィアを、王さながらの威厳と迫力をもって見下ろし、威圧的にたたずんでいる大男の存在を──

「ノースウッド伯爵……」

 オリヴィアの空色の瞳がエドモンドを見上げる。

 エドモンドがオリヴィアを見下ろしている……それも、相当な怒りでもって。なぜ? なぜ? 言われたとおりに仕事をしていなかったせいで? でも、刺繍しか出来ないと言ったばかりだし、そもそもオリヴィアを食堂に置いていったのは、エドモンドなのだ。

 おまけにローナンを殴り倒したのも彼らしい。

 エドモンドの眉は怒りにつりあげられていて、くっきりと深い皺が眉間によせられ、頬と唇は今にも誰かに噛みつこうとしているかのように、ぴくぴくと震えていた。


 こういう顔をする男を、オリヴィアはよく知っている。父のジギー・リッチモンドだ。

 彼はひどい癇癪持ちで、暴力を振るったことこそ一度もなかったが、怒らせるとちょうど今のエドモンドのような顔をして、その後でものすごい説教の洪水を降らせるのだった。

 こういうとき、反論や言い訳をしても無駄であることは、間違いない。彼らのような男は、言いたいことをすべて言い切るまで止められないのだ。火山のようなもので。


「兄さん、何か誤解してるんじゃないかな」

 いてて、と少し情けない声を出しながら、ローナンが割って入った。

「僕らは一緒に、彼女の朝食の用意をしようとしただけだよ。今朝はじめて顔を見せ合ったんだから、挨拶もかねてさ」

 エドモンドは答えなかった。

 立ち上がろうとするローナンに手を貸そうともしないところを見ると、出来るならもう数発殴ってやりたいと思っているようだ。その証拠に、エドモンドの拳は固く握られたままだった。ローナンは長くて逞しい手足を器用に折り曲げたり伸ばしたりしながら、ゆっくりと立ち上がった。

 兄弟が対峙すると、兄であるエドモンドの方がほんの少し背が高いようだった。ローナンの方が少し色白で、線も細い印象がある。あくまで、エドモンドの隣に立つと、だが。

 対するエドモンドは、口を一文字に結び、何を言うか決めかねているようすだった。

「兄さんがそんなに嫉妬深いとは知らなかったよ。でも、本当に何でもないんだ、義理の姉弟だろう? 少し会話をしながら料理していただけで……」

「嬉しそうなところを悪いが、彼女がお前の義姉でいる期間は、恐ろしく短くなるだろう」

「はぁ?」

 と、ローナンは素っ頓狂な声を上げた。

 まさか、義理の弟と一緒に仲良く料理をしていただけで、妻を離縁したくなるというのだろうか?

 それは、恐ろしくエドモンドに似つかわしくない横暴に思えた。エドモンドはいつだって、それこそローナンの物心がついたばかりの幼い頃から人一倍、我慢強く、常に冷静で何事にも平常心を失わず、それでいて熱心にバレット家を守ってきた堅物だった。

 彼の冷淡さは、特に色恋ごとに発揮された。ローナンの覚えている限り、エドモンドは、男が感じる婦人への情愛を、欲望が見せる幻想であると断じていた。そんな彼が、嫉妬から、迎えたばかりの妻を拒否しだすとはとても思えない……。

 しかし、恋が、強情な男を簡単に変えてしまうこともある。

「兄さん……?」


「マダム」

 エドモンドは、食いしばった歯の間から絞り出すような擦れた声で、言った。


「貴女は寝室へ戻り、荷物をまとめるべきだ。サー・リッチモンドの屋敷へ戻り、彼に伝えなさい。私は、貴女のような荷物を背負うことはできない、と」





 調理場で二人きりになった兄弟は、しばらく無言で、お互いを探るように見つめ合いながら立っていた。

 こういう時、沈黙を破るのは大抵ローナンの方だ。

 呆れたような目でエドモンドを見やりながら、ぽつりと呟くように言った。


「可哀想に。説明くらいしてやったらどうなんだい? まさか、本当に僕たちに嫉妬したからなんて言わないだろうな。あの顔を見たかい? きっと今頃、一人で泣いているだろうね」


 エドモンドに荷物をまとめろと言われた後、オリヴィアはしばらく石像のように固まっていた。

 青い瞳を揺らし、懇願するようにエドモンドを見つめていた。

『嘘だと言って』と、言われている気がした。

 それはそうだろう──どこの誰が相手かは知らないが、不貞を働いたおかげで妊娠した『つけ』を、エドモンドに払わせようとしていたのだ。計画が破れて、今頃さめざめと泣いていても不思議ではない。


 エドモンドは弟を睨みつけると、低い声で言った。

「彼女は妊娠しているらしい。そして、相手は間違いなく私ではない」

「ええ!?」

 ローナンは体重を預けていた調理台の端から落ちそうになった。

「何だって急にそんなことになるんだい? あんなに細っこいのに……まぁ、胸は確かにあるけども」

「ローナン!」

「怒鳴るなよ、事実じゃないか! それに、どうしていきなり、そんな事が分かったんだよ。まだノースウッドに着いて昨日の今日で、医者を呼んだわけでもないんだろう?」

「マギーが言っていたんだ。彼女には経験がある。それで十分だ」

「マギー? マギーが何を言っていたっていうんだ。僕は影から見てたけど、あのクソ不味いレバー・スープを彼女に出して、彼女がそれを吐いたら、走って外へ逃げただけだぞ!」

「その前に何かあったのかも知れない。とにかく、マギーはそうだろうと言うんだ!」

「だけど……」

 ローナンは言葉に詰まった。

 ノースウッド……北の荒野。本も医者も少ないこの僻地で、未婚の男性に女性の妊娠の神秘や、その特徴や兆候を知るすべはない。すべては母から娘へ口伝されるばかりで、男は断片的な知識を持っているだけだ。

 大体、種のまき方さえ知っていれば、それで十分じゃないか!

「……妊娠した女性は、吐きやすくなると聞いたことがある。ちょっとした強い匂いでも気分が悪くなる、とか。オリヴィアがスープを吐いたから、マギーは誤解したんだよ」

「どうして誤解だと分かる? それが本当だとしたら、妊娠してるから吐いたということもある……」

 エドモンドは頑固にそう言い張った。ローナンが反論する。

「あのスープだよ! あれを出されて吐かないでいられるのは、兄さんくらいだぞ!」 

「女の勘というのもある」

「兄さん!」


 ローナンが怒声をあげると、調理場には再び沈黙がおりた。

 エドモンドは何かを考えているようだった。眉間に皺を寄せたまま、何もないはずの床に忙しく視線を走らせている。

 ──なんとも意外な展開だった。

 別の男ならともかく、他でもない、ノースウッド伯爵エドモンド・バレットが取り乱しているのだ。

 明日は嵐になるのかもしれない。矢が降ってきたり、豚が空を飛んだりするかも……。


「とにかく、医者を呼んで調べてからにしたらどうだい? 離婚するのは、それからでも遅くないだろう。それに彼女の言い分も聞かなくちゃ駄目だ」

 ローナンの言葉に、エドモンドは再びむっつりと唇を引いた。しかしローナンは続ける。

「なぁ、せっかくノースウッドに嫁さんが来てくれたんだよ。羨ましいくらいだ。そう簡単に手放しちゃいけない」

 すると、

「……どちらにしても、私は、彼女を追い払いたかった」

 呟くように、エドモンドがそう言った。「これはただのきっかけだ。私は彼女を妻にするべきじゃなかった……バレット家の呪いがある限り」


 ローナンは黙った。

 ──兄は、バレット家の呪いを信じている。ローナン自身は「呪い」という言葉を使うのは嫌いだったが、兄がそれを信じるに至った現実があるのは、理解している。

「それはつまり」

 ローナンは、真面目な教師のようにもったいぶった口調で、兄に向かって言った。「兄さんはそれなりに彼女へ愛情を感じているわけだ」

 エドモンドは驚いたように眉を上げた。

「まさか」

「そうかい? じゃあ、どうして僕を殴ったりしたんだい?」


 ニヤニヤと口元を緩ませる弟に、エドモンドは渋い顔をした。しかしその渋面も、弟の饒舌を妨げはしなかったようだ。


「僕に嫉妬したからだろう? そしてね、兄さん、嫉妬というのは、恋する人間の理性を狂わせるものなんだよ……ちょうど、今の兄さんみたいにね」

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