Breakout - 2
私は一体、どんな女性と結婚してしまったのだろうか。
そんな、おそろしく単純でいて、しかし答えのない疑問が、エドモンドの頭から離れない。
オリヴィア・リッチモンドは、
──いや、違う。
オリヴィア・バレットは、不思議な女性だった。
まるで空のようだ。水色の澄んだ空。
空高く、果てしなく広がる美しい原始の恵み。時に輝きを我らに与え、時に気紛れに嵐を起こす。それでも、我々は空がなければ生きていけない。
青い空──。
遠すぎて、手は届かないのに。
*
エドモンドとローナンは、普段どおり食堂で早めの朝食をとっていた。
献立はいつもと変わらないが、卵の数だけが極端に減っている。──奥さまが割っちまってね。と、マギーは苦笑しながら説明した。
しかし、マギーの口調にオリヴィアを責めるような響きは一切なく、それどころか、この状況を面白がっているような感じがした。
──癇癪を起こさないでやってくださいよ、エドの旦那、マダムはマダムで頑張ってるんだよ。
マギーは愉快そうにそう言うと、カカカという可笑しな笑い声を上げた。
むっつりとした顔で豪快にパンを齧っているエドモンドを前に、ローナンはその貴重な卵に手を伸ばす。するとその瞬間、兄がぎろりと厳しい視線を投げてよこしてきたが、弟はただ肩をすくめるばかりだ。
だってどうしろというのだ。
オリヴィアがノースウッド伯爵領バレット家にやってきて、十日になろうとしている。
そして、バレット家の屋敷は早くもオリヴィア色に染まり始めてきていた……彼女の困った努力と、天真爛漫な魅力は、灰色だったバレット家の屋敷に新風を吹かせ、明るく染め上げている。
マギーは新しい女主人を歓迎しているようだった。
屋敷のあちこちでオリヴィアの声が聞こえた。
笑ったり、驚いたり、泣いたりしている。
オリヴィアは明らかに、スプーンより重いものを持ったことがない種類の都会のお嬢さまで、ノースウッドのような田舎屋敷で采配を振るうための知識は、塵ほども持ち合わせていなかった。しかし、彼女の魂は、どこかこの土地の匂いがする。
辛抱強く春を待てる女だ。
冬に冷たく凍える屋敷を、笑顔で暖めることの出来る女性。
努力で得られるものではなく、生来の感性に由来する部分を、オリヴィアは十分に持っているように思えた。──少なくとも、ローナンにはそう思えた。
そして、ノースウッド伯爵、エドモンド・『堅物』・バレットの顔の筋肉に、これほど変化に富んだ動きをさせる女性は二度と現れないだろうと断言できる。
ここ数日のエドモンドは百面相をするようになった。
ローナンは時々、肖像画家を呼んできてスケッチさせたい誘惑に捕らわれる。きっと、面白いノースウッド伯爵像が山ほど出来上がるにちがいない。
今もそうだ。
エドモンドは大げさな勢いでパンとヤギ乳のチーズを交互に食しながら、食堂の入口を苛々と見つめている。
そろそろオリヴィアが食堂に下りてきていい時間だからだ。
「ねぇ、兄さん。昨日、仕事がはかどったせいで今日は少し暇なんだ……」
ローナンは出来るだけ笑いをかみ殺しながら話した。
「空いてる時間、義姉さんの手伝いをしようと思うんだけど、どうかな?」
すると、緑の瞳をカッと燃やしたエドモンドが、素早くローナンを見据える。
そのあまりにも分かりやすい反応に、ローナンは苦笑を禁じえない。さらに悪いことに、エドモンドは分かっているのだ。自分の反応が度を越していて──まさに、嫉妬に狂っている男そのものであると。
「およばない」
エドモンドは喉の奥から押し出すような声で言った。「彼女に助けが必要なら、私がする」
「ふうん……」
疑い深そうにローナンが答える。
その時、
上品に廊下を歩いてくる足音が聞こえた。
育ちのいい女性独特の、ワルツを思わせる小刻みな足音……。兄弟二人は吸い込まれるように食堂の入口へ顔を向けた。
オリヴィアはすぐに現れた。
若草色の細身なドレスに身を包み、髪を後ろで束ねてネットを被せている。はっと息を呑むほど美しかった。疲れからかますます白く見える肌は透き通るようで、触れたら消えてしまいそうなほど幻想的に見えた。
そうだ……エドモンドが触れれば、彼女はいつか消えてしまう。
「おはようございます、ノースウッド伯爵」
オリヴィアは微笑みながら朝の挨拶をした。同時にわずかに腰を落とす仕草をして、夫に敬意を表す。
国中の男が夢見る、理想的な妻の姿がそこにあった。
エドモンドは唸りたい気分を抑えながら、自らも少しだけ頭を下げて、答えた。
「おはよう、マダム」
単調なエドモンドの挨拶に、オリヴィアの水色の瞳が悲しそうに揺れた。
一瞬……泣かれるのかと思った。
しかし、オリヴィアは気丈にももう一度微笑を取り戻して、ローナンに向けて挨拶した。
「おはようございます、ローナン」
「おはよう義姉上。あなたは毎朝毎朝ますます綺麗になっていくね。五十年後が楽しみだ」
そして、最近の習慣どおりローナンの隣の席へつく。
エドモンドは今朝も、そんなオリヴィアの一挙一動を厳しい目で見つめ続けていた。オリヴィアも時々、そんなエドモンドに視線を向ける。そして、頑張って微笑んでみせるのだが、夫の無反応に戸惑ってすぐに目をそらしてしまう。
ローナンはそんな緊張した食卓を和ませようと、陽気に冗談を飛ばす。
まだ十日なのに、うんざりするほどお馴染みになってきている、バレット家の朝食の光景だ。
しかし今朝、オリヴィアはいつもと違いパンに手を伸ばさなかった。
ただ、陶器製のピッチャーに入った水で杯を満たして、それをちびちびと飲むだけだ。心なしか杯を持つ細い指が震えている──。エドモンドは異変に気付き、口を開こうとした。
しかし、その時、オリヴィアが先に話しはじめていた。
「じつは今日……牧草地の先にある森へ行ってみようと思うんです。料理に使えるハーブが沢山あるのだと、マギーが言っていました。彼女も行きたいのだけど、腰の具合が悪くて馬に乗れないのですって。だから私が行ってみようと思って」
「本当かい? 森のハーブをのせて焼いた鶏肉は兄さんの好物だよ」
「ええ、マギーも言っていました。それで……」
オリヴィアの瞳が無邪気に輝いた。
エドモンドの胸は湧き上がる何かで爆発しそうなほど高鳴っていた。森? ハーブ? 馬? そんなものにオリヴィアが近づいて無事でいられるとは思えない。
「駄目だ!」
気が付くと、エドモンドは声を荒げ、きつく握られた拳で食卓を強く叩いていた。
ローナンとオリヴィアが驚いてエドモンドを見つめる。
特にローナンは、いぶかしげに眉を寄せて食事の手を休めた。
「どうしてさ? 兄さん」
「どうしてもだ。マダム、貴女はまだ土地に不案内だ。下手に森などに入っては何が起こるか分からない」
「それは……でも……私」
オリヴィアは困惑に声を震わせた。
そこに、
「僕が一緒に行くよ。そうすれば安心だろう」
と、ローナンが割って入った。
オリヴィアは嬉しそうにローナンへ顔を向けた。が、エドモンドはぎしりと歯軋りをした。
「お前は仕事があるだろう、ローナン。貴婦人のお遊びに付き合っている時間はないはずだ」
「ハーブ狩りは遊びとは違うよ」
「違わない。そんなものがなくても、いつもどおりの料理は出来る」
「分かんないのかな。義姉さんは兄さんを喜ばせたくて行きたがってるんだよ。ちょっと横暴が過ぎるんじゃないか」
「なんだと」
兄弟が口喧嘩をはじめだし、オリヴィアはますます困惑した。
まさか、森にハーブを摘みに行くだけのことが、彼らの口論の種になるとは思っていなかったのだ。森はそう遠くない。……ように見えるから。
ここ数日、オリヴィアは本当に頑張った。
朝も早起きして、鶏に餌をやったり、屋敷中のリネン類の整理をするのを手伝ったりした。時計の時刻を合わせたり、慣れない洗濯の手伝いもしている。──しかし、エドモンドの反応は芳しくなかった。
いくら夕食の席で一日の成果を報告しても、「そうか」とむっつり答えるだけ。
普通の夫婦ならば、夕食の後こそが親密な時間なのだろう。しかし、あいにく二人は寝室を別にしているし、エドモンドは夕食後にサロンでくつろぐことをしない。二人の距離はいっこうに縮まらなかった。
そこで、思い出したのだ。
──夫の心を掴むためには、まず胃袋からだというマギーの台詞を。
オリヴィアはさっそくマギーに助言を求めた。
マギーは誇らしそうに胸を反らし、特製のレバー・スープこそエドモンドが最も喜ぶ料理だと宣言した。オリヴィアは恐れおののき、どうかそれだけは彼女の得意料理として取っておいて欲しいと懇願し、他にエドモンドが好きな食べ物はないかと再度尋ねた。
すると、
「そうさねぇ……森のハーブをたっぷりのせて焼く鶏肉が好きだったよ。ただ最近、私は腰を痛めててね、馬に乗れないから採りに行けなくてねぇ」
オリヴィアの心は決まった。
森にハーブを採りに行き、エドモンドの好物を夕食に出す。
きっと食卓での会話も楽しく弾むはずだ。
無事に森まで行ってハーブを摘み帰ってきた武勇伝を話せば、エドモンドも少しはオリヴィアを見直すだろう。オリヴィアは実際にハーブ狩りをしたことはなかったが、関連する書物を読んだことがある。挿絵付きで詳しい本だった。間違えて毒草を採ったりしない。きっと。まぁ、採ってしまったところで、あとでマギーが見分けてくれるはず……。
「マイ・レイディ」
エドモンドはあらたまった厳しい口調で言った。
オリヴィアははっと我にかえった。一瞬、誰のことを呼んでいるのか分からなかったが、彼の視線が真っ直ぐこちらに集中しているのに気付いて、自分が呼ばれているのだと理解した。
いつもの、マダム、とは違う呼び方。
伯爵の妻であることに対する敬称だ。オリヴィアはどきどきして、背筋を正した。
「はい、ノースウッド伯爵」
「あなたは一人で森へ入ったりはしない。ローナンと二人でも、だ」
「まぁ……」
オリヴィアは肩を落とした……。
こんな風に、厳しい命令口調を受けるのは慣れている。父・ジギー・リッチモンドがそうだったからだ。しかし今回は、いささか理不尽に思えて、胸が痛んだ。せっかくの妙案だったのに。
それに──約束の一月は着々と近づいてきているのにと、オリヴィアは絶望さえ覚えてきた。
隣では、ローナンがまた判然としない顔で口をへの字に曲げている。
「しかし」
エドモンドは静かに言った。
──その瞳は、まぶしいくらいにオリヴィアを凝視している。
「どうしても行きたいなら、昼前まで待ちなさい。私が一緒に行こう」
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