Breakout - 1

 ノースウッド領バレット家での二日目の朝は、冷たく心地よかった。


 窓を閉めていても感じる澄んだ空気に、カーテン越しでも分かる青い空。

 こんな静かで美しい朝──愛する夫の力強い腕に抱かれて目覚めることができたなら、どれほど幸せだろう。普通に考えれば、オリヴィアにはその権利があるように思えた。なんといっても新婚なのだ。

 しかしオリヴィアは、いつも通り一人ぼっちのベッドで目を覚ました。

 一人部屋の。

 独身女性向けのベッドで。

(な、泣いちゃだめ……っ)

 遠くから聞こえる鶏の朝の雄叫びが、空しく響いていた。



 なんとか一人で着替えをすませたオリヴィアが食堂へ降りると、エドモンドとローナンが朝食をとっているところだった。

 兄弟は同時にオリヴィアに顔を向ける。

 並んで似たような表情をされると、一瞬、どちらがどちらか分からないほど似ている二人だ。しかし、数秒後に兄は無表情、弟は笑顔になるので、すぐに区別がつく。

「おはようございます、ノースウッド伯爵」

「おはよう、マダム」

 エドモンドは単調に答えた。

「ローナンも、おはようございます。ご機嫌はいかが?」

「すこぶるいいよ。朝からこんな美女の顔が拝めるなんて、結婚とは素晴らしいものだね」

 ローナンは歌でも歌いだしそうな調子で答えた。そして、隣の席をすすめる。

 オリヴィアはちょっと躊躇したあと、すすめられたとおりにローナンの隣に座った。エドモンドは、そんなオリヴィアの一挙一動を観察するように見つめている。

 エドモンドの服は、胸の開いた麻色のシャツに、茶色のズボンをおなじみの黒のブレイシーズで吊っているという簡素なものだった。しかしそれが彼の男性的な魅力を強調していることは、反論しがたい。ありていに言って、エドモンドはとても魅力的だった。

 まぁ、刺すような厳しい目つきを除けば。

「ところで」

 ローナンがまず口を開いた。

 テーブルの上には、切り出された田舎風パン、ゆで卵、紺色な「なにか」のジャムに、数種類のフルーツが乗ったバスケットと、質素ではあるが普通の食事が並んでいる。オリヴィアはとりあえずパンに手を出した。

「義姉上、今朝から仕事をすることにしたんだって? これは面白い物が見られそうだな」

「あ、ええ、それは……まあ……」

 オリヴィアは曖昧に答えて、斜め前に座るエドモンドをちらりと見やった。

 視線が合った瞬間、エドモンドはオリヴィアから顔を背けた。見てはいけないものを見てしまった時に人がする反応──その、あまりにも分かりやすいエドモンドの態度に、オリヴィアの胸はちくりと痛んだ。

 ローナンもそれに気付いたようで、困ったなというように肩をすくめて見せる。

 しかし、オリヴィアは決めたのだ。

 強くなろうと。

 エドモンドの妻として出来るだけ頑張ってみようと。


 エドモンドはあのあと、渋々ながらも、オリヴィアが申し出たとおり一ヶ月の猶予をくれたのだ。しっかり現実を据えなければ。


「まずはマギーにお願いして、色々と教えてもらうつもりです」

「新しい女中じゃないんだから、そんなに畏まることはないじゃないか。義姉上は女主人だよ。マギーたちを監督するのが役目なんだから」

「ええ……それは、その、いつかそういう風になれればいいと思うわ。でも今は、本当に何をしたらいいのか分からないんです。だから、色々と知らなくちゃいけないと思って」

「ふうん。まぁ、屋敷がどうやって動いているのか知るのは大事だよね」

 ローナンは潰したゆで卵を乗せたパンをかじりながら言った。「僕に協力できそうなことがあれば、何でも言って欲しいな、義姉上。領地の果てにいても飛んで戻ってくるよ」

「ありがとう、ローナン」

 オリヴィアは微笑みながら答えた。

 エドモンドは黙っていた──そして、食堂の壁に掛かっていた小さな肖像画をじっと見つめていた。小さな、栗色の髪の貴婦人が描かれた肖像画だった。





 コッケコッコー!

 赤い鶏冠とさかを猛々しくゆらした雄鶏の大群が、オリヴィアを見るなりものすごい速さで突進してくるさまは、かなりの迫力だった。オリヴィアは水色の瞳を大きく見開いたまま、その場に硬直した。

「きゃー!」

 オリヴィアが甲高い悲鳴を上げるやいなや、鶏たちは地を蹴ってオリヴィアに飛び掛ってくる。

 羽根を広げ、オリヴィアの視界を完全に覆って襲い掛かってくる鶏の群れ……鶏が飛べない鳥だというのは嘘だったらしい。飛んでいる! オリヴィアの頭の高さくらいまでだけれど!

 コケーーー!

「嫌ーっ、痛い、痛いっ」

 鋭利なくちばしに腕をつつかれて、オリヴィアは抗議の声を上げた。

 それでも鶏たちは容赦なくオリヴィアに突撃してくる。

 私が何をしたっていうの? そう、オリヴィアは混乱した。ただ、餌を持ってきてあげただけなのに!


「いけないよ、マダム。いけないよ! 早く餌をまいちまいな。そうしないと鳥どもは、マダムの持ってる籠を狙って飛び掛ってくるんだよ!」


 マギーの叫びが後ろから聞こえた。

 籠?

 そうだ、たしかにオリヴィアは鶏の餌を入れた籠を手に提げている。

 この堪え性のない腹をすかせた鶏たちは、それを目がけてオリヴィアに飛び掛ってきているのだろうか。もしくは、オリヴィアが彼らの餌を横取りしたと勘違いしているのか。

「は……離れなさい……でないと、餌があげられないわ!」

 雪のように舞い散る鶏の羽にまみれながら、オリヴィアはなんとかそう言ってみた。

 しかし、いくら鶏冠は立派でも、彼らの頭に人間の言葉を理解できる能力はないのだ。もしくは、分かっていても無視されているのか。

 オリヴィアが腕に下げた籠を隠そうとすると、怒れる鶏たちはさらに怒気を上げた。

 コケーッ! コココココケーッ!!

「きゃーー!」

 中でも一番大きな茶色と黒のまだらの鶏が、オリヴィアに体当たりを食らわし、彼女を土の上に転ばせた。

 餌の入った籠が遠くに飛んで転がる。

 すると鶏たちは、オリヴィアなどもう用無しだといわんばかりに餌の方へ駆けつけていった。

「あ……」

 オリヴィアが転んだのは滋養豊かそうな湿った黒い土の上で、着ていた水色のドレスは真っ黒に汚れていた。一応、白いエプロンを前にかけていたのだが、たいした慰めにはならない。エプロンを掛けていないところまで真っ黒なのだ。

「大丈夫かいマダム、だから私がやるって言ったのにさ……」

「ええ……マギー……ごめんなさい」

「マダムが謝ることじゃないよ。でも本当に、こんな事までする必要はないだろうねぇ」

 気が付くとマギーが隣に立っていて、餌に群がる鶏たちをやれやれといった感じの顔で眺めている。

 オリヴィアはなんとか立ち上がって、ドレスについた泥を手ではたいた。──落ちないけれど。

 一息つくと、オリヴィアも少し冷静になって、鶏の群れを見ることが出来た。

 意地汚く餌にがっつく彼らは、まるで小悪魔の一軍だ。

「お行儀の悪い子たちだわ」

 つん、と顔を上げてオリヴィアは言ってみた。

「ありゃ鶏だよ、マダム。一列にならんで席について飯を食ったりはしないのさ」

「でも、餌をあげる人に襲い掛かるなんて、獰猛です」

「もっと獰猛な家畜は山ほどいるよ。今にあのトサカ頭が天使に見えてくるからね。誓ってもいい」

 その時……オリヴィアは少し気が立っていて、マギーの言葉を聞き流していた。

 とにかく、どんな形にせよ、鶏に餌をやるという仕事を一つ終えたのだ。

 その満足感の方が大きかった。


 オリヴィアはエドモンドに相応しい妻になるため、立派に女主人の役割を果たしてみせようと決心した──オリヴィアは甘やかされたお嬢さまだったけれど、ジギー・リッチモンドの娘でもある。

 そう簡単に目標を諦めたりはしないのだ。


 オリヴィアは大きく息を吸うと、マギーの方へ向き直り、言った。

「とにかく、鶏に餌を上げるのは終えました。次はもっと上手に出来るように頑張ります。だから、マギー、次に何をするのか教えてちょうだい」

 すると、マギーは心底呆れた顔をしてオリヴィアを見つめ返した。

「本気なのかい? 前の女主人がやっていたことを、あんたも全部やるって?」

「これほど本気だったことはありません」

「でもねぇ……前のノースウッド伯爵夫人は、この土地の生まれで、かなりの働き者だったんだよ。あんたみたいな都会育ちの細い娘が、真似できるとは思えないねぇ……」


 エドモンドに相応しい妻になると決めたとき、具体的に何をするべきなのか全く分からなかったオリヴィアに、唯一思いついたのが、これだったのだ。

 ──前ノースウッド伯爵夫人がしていたことを、すればいい、と。

 それだけじゃない。

 オリヴィアはいつか、彼女よりも優れた夫人になる。目標は常に大きくというのが、オリヴィアの実家の家訓だ。


「やってみなければ分からないわ、マギー。私、頑張ります」

「そりゃ、いいけどねぇ……」

 マギーは肩をすくめながら言った。


「マダム、あんた、本当に妊娠はしてないんだね?」







 夕焼けが眩しかった。

 広大な牧草地に続く、やせた森──その奥に落ち入っていこうとする橙色の太陽の、なんと大きいこと。

 オリヴィアは立ち尽くし、そして、夕日を眺めながら涙を流した。


 身体中が痛い。

 筋肉という筋肉が悲鳴をあげ、あちこちに出来たすり傷が、ひりひりと痛む。

 風が──都会とは違い、一切障害物のない、生の風が──吹きつけ、オリヴィアの不安定な足元をすくってしまいそうだった。

 手にはむしりかけの雑草がある。

 雑草とはいえ、先が鋭利で、何度も指を切ってしまった。


 あれからオリヴィアは、洗濯女について川で洗濯の手伝いをしに行き、川に落ちた。

 幸い浅場だったので大事には至らなかったが、なぜかひどいショックを受けた。そして、午後の調理場の手伝い。オリヴィアは生まれてはじめてパンが焼かれる経過を見た。……パンは、木になっているわけではなかったのだ。

 野菜の土を洗い落として、ジャガイモの皮をむいて。すべてオリヴィアには初めての体験だ。

 そして、日が落ち始めると、家庭菜園の雑草抜き……。

 オリヴィアはくたくただったが、マギーによれば、前ノースウッド伯爵夫人がこなしていて仕事は、この倍近くあったという。

 週の別の日には、屋敷にやってくる行商人から必要なものを買い付けなければならない。

 そのためのリストを作り、忘れないように、洗濯石鹸や塩や香辛料を注文しなければいけないし、間違って腐った肉や魚をつかまされないように気をつけなければいけないらしい……。

 他の家畜の世話。

 屋敷の掃除の管理。


(で……でも……こんな事をして……)


 エドモンドの心が掴めるのだろうか。

 彼と一緒に生きる資格を、得られるのだろうか。


 理由は沢山ある。

 エドモンドの側にいたいと思った。ローナンと仲良くなれそうなのが嬉しかった。老執事に根性なしと呼ばれたのが悔しかった。実家に帰れば、きっと父をますます失望させる……。

 でも、倒れそうに疲れきったいま、そのどれもがこの努力に値しないような気がしてくる。

 帰りたい。

 帰って、社交新聞を読みながら優雅に紅茶を飲んで、庭のバラの心配をすればいいだけの生活に戻りたい……。

 オリヴィアは溢れる涙を拭いもせず、ぼんやりと夕日に向かって立ちつくしていた。

 その時──


「マダム」


 後ろから、エドモンドの声がして、オリヴィアはぴくりと背筋を伸ばした。ずいぶん近くから聞こえる気がする。

 でも、オリヴィアは振り返らなかった。

 振り返る力がなかったのだ。


「そろそろ屋敷に戻りなさい。私は貴女に、こんな事をしろとまでは言わなかったはずだ」

 エドモンドの言葉に、しかしオリヴィアは、夕日を眺めたまま、首を横に振った。

「他に、どうすればいいんです? 刺繍をしていれば、あなたに認めてもらえますか?」

「……いいや」

「そうでしょう? だから、頑張ることにしたんです。私はたしかにあなたの仰るとおりのお荷物で……何をしたらいいのか分かりません。でも、他の女主人がする仕事を、ちゃんとしてみようと決めたんです」

 マギーに、前ノースウッド伯爵夫人がしていた仕事をやりたいと頼んだことは口に出さなかった。

 普通に考えれば、それはエドモンドの母なのだ。


「私はやはり、貴女は実家に帰るべきだと思っている」

 しばらくの沈黙のあと、エドモンドはそう言った。「言ったはずだ……私が貴女を帰したいのは、貴女が仕事をできないからではない」


「でも、理由は教えてくれないのですね」

 オリヴィアはゆっくりとした口調でたずねた。

 エドモンドからの答えはなかった。


 たまらなくなって、オリヴィアは後ろを振り返った。

 すると、エドモンドは思ったよりもずっとオリヴィアの近くにいた。 

 夕日をその身に受けて、エドモンドの濃い金髪が秋の穂のように輝いている。深い緑の瞳に、オレンジの夕日が染み込んでいる。──堂々たる、若き領主の姿だった。

 でも、その表情は明るくない。

 ──寂しそう。

 というのが、オリヴィアの受けた印象だった。


 不思議な男性ひとだ。

 こんな風に、オリヴィアの心を攫っていくのだから、ひどい人だ。でも、オリヴィアの心は間違いなくおどった。


「一月」

 オリヴィアはそう言って、自分の手で涙を拭いた。


「約束してくれたはずです。一月だけ、私に時間をくれるって。私を見ていてください」

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