The Truth - 1

 一階の方から人が、それも少なくない人数が、慌ただしく階段を上がって近づいてくる音がする。それでもエドモンドの両腕は、ぎゅっとオリヴィアの身体を抱きしめたまま離さなかった。

 オリヴィアが身動きしようとすると、エドモンドの手は少し動き、まさぐるように彼女の肌を、腰を、髪をなで、さらに強く引き寄せようと力を入れる。


 まるで永遠に続くかに思えた激しい抱擁のあと、エドモンドはオリヴィアの耳元になにかをささやいた。

 ざらついた低い声で、よく聞き取れなかったが……オリヴィアには「すまなかった」と言っているように聞こえた。


 おもてはまだ強い雨が吹き荒れている。

 割れたガラス窓から、水気をふくんだ風が吹き込んできて、オリヴィアはぶるっと身震いした。人々が近づいてきているし、ずっとこのままでいるわけにはいかないだろう。

 たとえ永遠にこのままでいたくても。

 その思いはエドモンドも同じだったのだろうか……少しだけオリヴィアの上半身から距離を置いたとおもうと、名残惜しそうに彼女の瞳をのぞき込んで、言った。

「帰ろうか、わたしたちの屋敷に」

 その言葉に、オリヴィアは喜びに目頭がつんと痛く熱くなってくるのを感じた。

 ──わたしたちの。

 あの、大きくて素朴で、それでいて重厚なあのバレット家の屋敷に。


 そう。

 エドモンドがついに彼女を本当の妻として迎える決心したということは、つまり、あの大きな屋敷に受け継がれる数々の悲劇と、対峙するということだ。

 それはきっと、楽な戦いにはならないだろう。

 かきむしるようにオリヴィアの背中をぎゅっと抱いているエドモンドの腕は、まさにその不安を象徴しているようでもあった。

 でも。


「ええ……帰りましょう、あのお屋敷に。わたしを連れて帰って」

 答えは、オリヴィアの口を自然についてでた。

 決心ならもうずっと前からついている。あの、エドモンドから『バレット家の秘密』 を明かされた夜すでに、オリヴィアの心は決まっていたのだから。

 エドモンドの瞳は相変わらず、じっとオリヴィアの瞳を見つめ続けていた。


 しばらくの沈黙のあと、エドモンドはやっと少しだけ表情をやわらげて、またオリヴィアの耳元に何事かを呟いたと思うと、「では」と言って彼女の横にかがみこんだ。そして、オリヴィアが疑問に思うより先に、豪華なピンクのドレスごと彼女の身体を抱き上げていた。

「ノ、ノ、ノースウッド伯爵……、人がっ、人が来ますっ」

「今夜、わたしすでに十分スキャンダルを振りまいたよ。カドリールの後に妻に口づけ、舞踏室で乱闘騒ぎを起こし、二人の男に火をつけた。あと一つや二つ増えたところで、なにも変わらないさ」

 あっという間に童話の姫のように横抱きにされたオリヴィアは、恥ずかしさと喜びで見る見るうちに顔を紅潮させた。

 たくましいエドモンドの腕が、オリヴィアの全身を抱えている。

 それだけでももちろん嬉しい驚きだが、ああ……今の、オリヴィアを見つめるエドモンドの優しい表情ときたら! それだけでもオリヴィアは失神してしまいそうな気分だった。

 その深い緑の瞳に見つめられると、オリヴィアは彼にとって最も愛しく、世界一大切な宝物なのだという幻想を抱かずにはいられなくなった……。ああ、本当に。

 もしかしたら、本当に……?


 すると、人々のけたたましい足音と騒音が部屋の入り口までたどり着き、オリヴィアはやっと現実に取り戻された。

 なんと!

 いつの間にか、入り口の向こうに大きな人垣ができている。

 本来ならプライベートを守ってくれるはずの扉は、当のエドモンドがなぎ倒したせいで存在していないので、すでにいくつもの好奇に満ちた視線が二人に注がれていた。

 オリヴィアの顔はさらに赤く染まっていった。

 老若男女が混じったひじょうに色彩豊かな人垣の中に、頭一つ背の高いローナンの顔が混ざっていたが、そのローナンも驚愕の表情で両目を大きく見開いているだけだ。

 こんなに気恥ずかしい思いをしたことはいまだかつてなかった。できる限り身を縮めたオリヴィアは、エドモンドの胸にすがりつくようにして人々の視線から逃れようとした。

 もちろん成功したとは言いがたかったが、雨の匂いとエドモンドの胸から伝わる体温に、つかの間の幸せを味わうことができたのは事実だった。

 オリヴィアはエドモンドの胸元に顔を押し付けた。

「そうだ、マイ・レイディ」

 エドモンドは満足そうな低い声でオリヴィアに呟いた。「そうやってわたしに抱きついていなさい。あなたは今、わたしの保護欲と優越感を見事に満たしてくれている」

 身体の芯まで響くようなバリトンでそう言うなり、エドモンドは妻を抱えたまま前へ歩き出した。

 オリヴィアはますます縮こまり、この身の置き所がない状態から一刻も早く抜け出せることだけを祈って、すべてをエドモンドに任せることにした。

 幸い、夫は取り立てて社交的なタイプではないから、この状態で周囲と世間話をはじめることはまずないだろう。

 オリヴィアの予想通り、エドモンドは無口だった。

 そして観衆も、エドモンドが近寄ると静かになった。彼らは無言で横にしりぞき、エドモンドが通りやすいように道をあけた。なにかの魔法を見ているようだった。



 二人は一階の大広間にたどり着いたが、そこには今までの華やかな舞踏会の面影はほとんどなくなっていた。

 それもそのはず、屋敷の主人であり舞踏会の開催者であるヒューバートが火だるまになって二階の窓から落下し、腕の骨を折ったのを目撃した後で、のんきに踊り続けられる者はほとんどいなかったからだ。

 大広間、そして玄関口は、帰りを急ぐ紳士淑女でごった返していた。

 さらに都合の悪いことに、彼ら貴族には馬車や従者や装飾品といった余計なものがついて回っている。混乱はさらに混乱を呼び、降りつける雨はいっそう彼らを不機嫌にさせていた。男性たちの怒鳴り声や、女性の神経質な金切り声がそこここから上がっている。

「どうしましょうか……馬車を呼ぶのは時間がかかりそうですね」

 オリヴィアはうかがうように夫の顔を見上げた。

 エドモンドはなにかを考えているようだったが、今までの緊張感はすっかり解けているように見える。ただ、思慮深い目で玄関に入り乱れる騒動をしばらく眺めたあと、口元に柔らかい微笑みさえ浮かべて、オリヴィアを見下ろした。

「このまま何もなかったように、上の部屋に引っ込むのも悪くない案かもしれないな、マダム?」

 悪戯を企む少年のようなエドモンドの口調に、オリヴィアはまた頬を赤らめた。

 この新生エドモンドは……どうも、オリヴィアが夢に見ていたよりずっと……ずっと、なんだろう? かたくなだった殻がむけて、厳しく険しいノースウッド伯爵の中から、とびきり優しくて甘い恋人が現れたようだった。

「いや……やめておこう。この腐った連中と同じ屋根の下であなたと愛を交わす気はない。わたし達には別の場所が必要だ」


 愛を、

 交わす。

 誰と、誰が?


 その答えが分かったとき、オリヴィアの心臓はありえないほどに飛び上がった。喉から出て来てしまわないのが不思議なくらいの強さで脈打ち、期待と不安を訴えるオリヴィアの胸……。


 エドモンドは情熱的な瞳でオリヴィアを見つめ、オリヴィアはエドモンドを愛にあふれた瞳で見上げた。

 なにがしかの答えを求められているような気がして、オリヴィアは小さくうなづいた。


 今夜。これから、二人は永遠になる。

 それが何処どこであろうとも。

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