Unbreakable - 4
やわらかな霧雨が降り始めた初夏の夜は、しめやかに、そして延々と続くようだった。
しかしここに、そんな情緒的なことに気が付いている人間は少ない。
ファレル家の屋敷は、軽薄で愉快なお祭り騒ぎに包まれていて、誰もが興奮気味に頬を高潮させながら踊り、歩き回っているばかりだ。雨など遠い異国で起こっている出来事のように曖昧で、ときどきお喋りの話題に困った人間が外を指差して指摘するくらいだった。
──こんな夜に、空模様を気にかけるのは馬鹿げている。
かくいうエドモンドも、降り出した夜の雨にはまったく気付いていなかった。
彼の目の前にあるのは、ある、唯一つの現実だけだった。オリヴィアという名のその現実は、窓際に立って彼の方をじっと見つめ返しながら立っている。
彼の目には、彼女の周りだけが輝いて見えた。
いくら離れて立っていても、エドモンドには彼女の香りが嗅げる気がした。優雅なバラと、甘くて若い桃のような香りだ。もっと彼女に近寄って豊かな髪に顔をうずめれば、今度は石鹸の爽やかな香りが立ち上がってくるのを知っている。
あの手を、とって。
その細い腰を引き寄せ。
お互いの熱を感じるほど、寄り添って……そして……。
エドモンドの中の妄想は、瞬時に燃え上がった。
腹部のあたりが急にカッカとしてきて、心臓はありえないほど速く脈打ち始め、喉がからからと渇いてくる。それでなくとも、彼女が二人の男と延々としたワルツを踊るのを見届けたあとで、エドモンドの頭の中には嫉妬という名の悪魔が踊りはじめていた。
悪魔はますますエドモンドをイライラとさせ、なけなしの自制心をこれでもかと揺さぶる。
それを知ってか知らずか、舞踏室の端に立ったオリヴィアは、落ち着きなくもぞもぞと身体を動かしながらこちらを見ている。
動くな!
と、エドモンドは叫びたかった。
彼女の身体の動きの一つ一つがエドモンドの情欲を誘うように、他の男たちも誘われていくのが容易に想像できるからだ。そうなったらどうすればいい?
くそ、猟銃を持ってくるんだった。一人残らず撃ち殺してやる。
「ノースウッド伯爵? まぁ、どうしたのかしら、手が震えていらしてよ」
急に、細くて白い女の手が腕に触れたのを感じて、エドモンドは一瞬だけ我に返って声のした方を振り返った。
クジャクかと見まごうほど豪勢な緑のドレスを着た女が、いつの間にか、エドモンドの腕にしなだれかかるようにして立っている。エドモンドは不機嫌に眉を寄せながら女を見下ろした。
誰だっただろう──見たことはあるような気がするが、名前までは思い出せない女だった。
ただなぜか、エドモンドは彼女の神経質そうな細い鼻筋に妙な不快感を感じた。
見たことのある感じ……ああ、そうだ、ヒューバート!
奴の妹だ。
やはり名前は思い出せないが。
といっても、今のエドモンドは自分の名前もよく思い出せないような状態であったので、多分彼女に罪はないのだろう。そんなエドモンドに対し、ヒューバートの妹はしつこく五本の指をからませてきた。
「興奮していらっしゃるのね。無理もないわ、ずっと領地で地味な妻としか過ごしていらっしゃらなかったんでしょう? でも、今夜は違うわ……」
女が意味不明なことを呟きだしたので、エドモンドは彼女を無視してオリヴィアの方へ視線を戻した。
それは、ほんの一瞬の出来事だったはずだ。
ほんの一瞬、目を離したに過ぎないのに、オリヴィアの横にはすでに見知らぬ男が立っていた。若くて線の細い、真面目そうな青年だった。しかしその服装は洗練された上等のもので、立ち居振る舞いにも迷いがない。
青年はオリヴィアに微笑みかけ、オリヴィアもぎこちなく微笑み返している。
二人は笑いながら、なにか会話のようなものを始めた。
グラスを持つエドモンドの手が、病的なまでに震え始める。
どうして私はこんなところで、まるでおあずけをくらった犬のように、妻が他の男と笑い、踊り、語り合うのを眺めていなくてはならない?
いや、そもそも、どうして舞踏会になど来る気になったのだろう?
いや──違う。
それよりもずっと以前に、どうして自分はオリヴィアを愛してしまったのだろう。
最初から分かっていたはずだった。バレット家の呪いが存在する限り、エドモンドに彼女を愛する資格はない。分かっていたのに抗えなかった罰が、今のこの状況なのだとすれば、すべては自分自身が蒔いた種なのだ。
何を。
何を待っていたのだろう? 奇跡か? 神の慈悲か?
何かが起きて、二人の運命に光が差して、彼女をこの腕に抱ける日が来るのを待っていたというのか?
だからこうして、今日この日まで決別の日を先延ばしにし続けてきて、それで最後にもがき苦しむはめにおちいっているのだ……。
エドモンドは奥歯からギリギリと音がしてきそうなほど強く歯軋りをした。今なら牛の骨だって生で噛み砕ける。
この手で月を掴めと言われたら、そうしただろう。
どんなことでも受け入れられる。
もし、本当に奇跡が起きるのなら。
ガブリエラはたしかな手ごたえを感じて、勝利の笑みを漏らしつつさらにエドモンドにすり寄った。
(私の誘惑と、良心との間でもがいていらっしゃるのね)
昔から、エドモンドは規範的で真面目な人物で、そこに野性的な男らしさが混じっている対比にはなんとも惹かれるものがあるのだ。
今だってほら……。
彼は手を震わせてまで、ガブリエラの魅力に抗おうとしている。
こういう男性が一度、箍たがを外したが最後、めくるめく情熱と愛情の世界が待っているに違いない。期待にせり上がってくる唾をごくりと飲んだガブリエラは、ゆっくりと妖艶な仕草で彼の肩に手を置いた。
「あせってはいけませんわ」
ガブリエラはエドモンドの耳元に囁きかけた。「あなたは今夜、きっとお望みのものを手に入れるでしょう。二階に静かな部屋を用意してありますの……」
「部屋?」
エドモンドがぶっきらぼうに聞き返した。
「まぁ、伯爵。あせらないでと言ったばかりではありませんか」
くすくすと低い笑い声を漏らしながら、ガブリエラは微笑んだ。
エドモンドは沈んだ瞳で妻のほうを見ている。
(ふふ、なんて素直な人なんでしょう)
ガブリエラはほくそ笑み、きたるべき夜に期待を馳はせて胸をおどらせた。
舞踏室はシャンデリアの明かりと人々の熱気を受けてきらきらと輝き、音楽は華やかで、だれひとりとしてちょっとした火遊びの楽しみを批判したりはしなさそうだった。大勢の客が小さな群れを作ってあたりを賑わせている。
楽団が典型的なワルツを演奏し終わると、踊っていた者もそうでない者も、楽しげに拍手をした。
音楽はしばらく止まったが、しばらくするとカドリールが始まった──人々はふらふらと吸い込まれるように舞踏室の中央に流れ出した。
「カドリールですわ! さぁ、踊りましょう、リードしてくださいますわね?」
当然、ガブリエラも興奮気味にエドモンドを踊りに誘った。
エドモンドの視線はまだ、監視するかのようにオリヴィアの一挙一動を追っている──。
ちょうどその頃、戻ってきたばかりのヒューバートがオリヴィアの隣にいる青年になにやら小言を言ったようで、オリヴィアは再びヒューバートと二人きりになっていた。
二人がカドリールのために再び舞踏室の中心に進み出すのを見ると、エドモンドの身体はもう勝手に動いていた。
カドリールは男女が一組になって踊るものだったが、途中でどんどんパートナーが変わるのが特徴だ。
何を待っていたのだろう?
何が欲しかったのだろう?
──決まっている。本当はもう、心など最初から決まっていたのだ。
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