Fiery Night - 1

 夜が深まるにつれて、風は強くなっていった。

 雨は豪雨に変わり、もう決してやむことはないのではないかと思えるほど、激しく窓に吹きつけている。舞踏会の騒動はやっと収まりはじめたが、人々はかわりに、熱心に醜聞をささやき合いはじめていた。


「ノースウッド伯爵は頭がおかしいくなったんじゃないか」

 誰かがそう言ったのを、否定するものは一人もいなかった。


 噂話をするために集まった人々の群れは、バルコニーからずぶ濡れで屋敷に入ってきたエドモンドがなぎ倒したレモンの木の鉢植えの残骸を囲んで、神妙そうにうなずき合った。

 大きな鉢は粉々に割れて、無惨に中の土を床にまき散らしている。木は割れ、根っこがむき出しになっていた。

 しかし、犠牲になったのは鉢植えだけではなかった。

 不幸にもエドモンドの行く手に偶然居合わせた人間はみな、彼のたくましい長身の邪魔になった。エドモンドは彼らを鉢植え同様になぎ倒したうえ、振り返りもせずに大広間を突き進み、そのまま四段抜かしで階段を駆け上っていった。

 さきほどの騒動で舞踏会は混乱していたとはいえ、エドモンドの所行は大勢の関心を引きつけた。

 明らかに目を血走らせたエドモンドは、どれだけ控えめに言っても、獲物を追う飢えた肉食獣そのものだった。彼が追う先に誰がいるのか知っているものは少なかったが、それでも、その「標的」はかなり恐ろしい目にあうだろうというのは、誰の目にも明らかだった。

 大広間に灯るきらびやかなシャンデリアが、まるでこの先を予告するように、割れたポーセリンの鉢をきらりと鋭く輝かせていた。





 オリヴィアは危険を察知してゆっくり後ずさりした。

 しかし、扉の前には酔っぱらった男、廊下のすぐ先にはヒューバートがいて、オリヴィアに残された選択肢は部屋の中へ入ることだけだ。

 あまり賢い逃げ方とは言いがたい。

 それでも、オリヴィアはどこかへ逃げなければならなかったから、警戒しながら部屋の奥へ進んでいった。

 後ずさりしつつ、なにか武器になるようなものはないかと、横目で部屋の中を見回す。部屋は思ったよりも広く、大きな四柱式のベッドにナイトテーブル、それから火のついていない暖炉の前に安楽椅子が一つ置かれていた。

 オリヴィアは、暖炉のすぐ横に数本の火かき棒がそろえられているのを見た。

(そうだ!)

 これで彼らを脅かすことができれば、この窮地を自力で脱却できるかもしれない——というひらめきとともに、オリヴィアの目標は定まった。目標がある時のオリヴィアはあきらめないのだ。

「おお。君のようなお嬢さんにそんな強気な目を向けられると、まったく、ますますそそられるな」

 酔っぱらった方の男が、舌なめずりをしながらそう言った。

 君のようなお嬢さん!

 この男は、オリヴィアが広大な土地の領主の妻であることを知らないのだ。オリヴィアは一月にわたってバレット家の屋敷を管理した。多分。まあ、少なくとも、少しはそれに貢献した。お嬢さん、などと子供染みた呼び方をされるいわれはない。

「私にその気はありません、サウスウッド伯爵」

 オリヴィアはきっぱりと、勝ち気に宣言した。「二人ともそこをどいてください。さもないと、今に痛い目を見るわ」

「なんと! 威勢のいいことだ! どうもこの子猫ちゃんは私たちと戯れたいようだ。なあ、ヒューバート」

 この男には英語が通じないようだ。 

 オリヴィアは決心して、用心深く暖炉の方へ足を向けた。あと数歩後ろに下がれば、鈍い輝きを放った銅製の火かき棒に手が届く。そうしたらまずヒューバートより先にこの酔っぱらいの頭に一発お見舞いしてやろう。先ほどの可哀想なメイドも、きっと喜ぶはずだ。

 慎重に、オリヴィアは火かき棒に近づき、手を伸ばした。

 ドレスの裾に手元を隠すようにして、冷たい銅器の感触が手に触れるのを確かめる。よし!

 確かな手応えを感じて、オリヴィアは火かき棒を片手に持ち上げようとした。

「私は本気で——きゃっ」

 と、たたみ掛けようとした瞬間……持ち上げようとした火かき棒の重みで、オリヴィアはそのまま床に敷かれているカーペットに後ろ向きで倒れて、頭を打った。

 ああ!


「おやまあ」

 楽しんでいるような声を上げた酔っぱらいは、倒れたオリヴィアを見て、これ以上ありえないほど嫌らしい笑みを浮かべた。


 オリヴィアは知らなかったのだ。

 いままで暖炉の世話は必ず使用人がしてくれていた……彼らが楽々と持ち上げているように見えた火かき棒は、実はものすごく重かったのだ。





 石畳の階段を駆け上ったエドモンドが最初に見つけた人影は、ガブリエラのものだった。

 妖艶に仕立てられた緑のドレスに包まれた身体をくねらせ、ゆったりと壁に寄りかかっているさまは、見るものが見れば美しいといえるものだったのだろう。

 しかし、今のエドモンドには、墓石ほどの魅力も感じられなかった。

 優雅に肩を流れるガブリエラの金髪も、エドモンドの視界をさえぎるだけで、ますますの苛立ちを誘う。今のエドモンドには、とてもではないが、名前さえうろ覚えだった女性の相手をしている余裕はなかった。


「ようこそ、ファレル邸へ、ノースウッド伯爵。私との約束を覚えていてくださったのね。嬉しいわ」

 ガブリエラは意味不明なことを言った。

 少なくとも、エドモンドにとっては全く身に覚えのない台詞だった。

 そんな訳でエドモンドは、下階での所行同様、このガブリエラも無視してさらに突き進むつもりでいた——が、エドモンドがガブリエラの横をすり抜けようとすると急に、彼女の白い手が伸びてきて、彼の腕を掴んだ。

「焦らなくても、空き部屋はいくつもありますわ。ここはわたしの屋敷……すべてを把握しているのよ」

 指輪で飾られたガブリエラの手が、エドモンドの腕をなめらかになでた。

「すべて?」

 まるで、その言葉が……その言葉だけが、なにか重要な意味を持つとでもいうように、エドモンドはガブリエラの言った台詞を繰り返した。

「ええ、すべて」

 ガブリエラは意味ありげに微笑んだ。「お探しのものは何かしら? わたしなら貴方の欲しいものを差し上げられるわ……欲しいものを、欲しいだけ」

 彼女の手は、ゆっくりとエドモンドの腕を上のぼり、広く逞しい肩にまで届いた。

 そして、最高のご馳走をまえにした猫のように満足げに喉を鳴らしながら、ガブリエラはエドモンドの身体にすり寄ってきた。

「ねえ、わたしたちはお似合いだわ。高貴な生まれのものは高貴な生まれのもの同士で結ばれるべきではなくて……? あんな強欲な成金の娘にこだわる必要はないのよ」

 ガブリエラの金髪が、エドモンドの首元に近づいてくる。

 その時、さすがにエドモンドにも、ガブリエラの意味することが分かってきた。彼女はオリヴィアなど放っておいて自分と通い合おうと言っているのだ。

 なんと愚かな。

 なんという……盲目。


 エドモンドは、胸元をなでるように這うガブリエラの手を左手で掴み、彼女を自分の身体から引きはがした。腕をひねられた痛みで、ガブリエラは信じられない、というように目を見開いた。


「私は妻を捜している」

 オリヴィアを。

 オリヴィアだけを。

 エドモンドの瞳は、その欲望を明々白々と映し出していた。

「——それ以外に欲しいものは一つもない。なにひとつ」


 ガブリエラの表情は、驚き、傷ついたように見えた。

 ——彼女は誰かに否定されることに慣れていない。

 廊下を照らすために設けられた壁際の燭台に、橙色の炎を揺らすろうそくが何本も立っていた。ガブリエラの蒼白の顔が、その明かりに照らし出され、醜くゆがむ。

「ま……まあ……なんて……」

 悔しさに、ガブリエラの声は小刻みに震えている。

 しかし、エドモンドは、平坦で低い声で続けた。「生まれについても、あまり幻想を持つべきではない。私の六代前の先祖は凶暴なハイランダーの侵略者だったそうだ。ノースウッドの土地を奪い、領主におさまった」

 エドモンドの口元がわずかながらに上がり、まさに野蛮なハイランダーの子孫のごとく、残酷な笑みを浮かべた。

「まさに強欲な成金の娘と結ばれるべき男だ」


 彼の声は確信に満ちていた。

 彼の瞳は欲望に燃えていた。

 それを受けて、ガブリエラは生まれてこのかた感じたことのないほどの激しい嫉妬に燃え上がった。


「わたくしを侮辱なさるのね」

 鋭く刺々しい声で、ガブリエラは言った。

「とんでもない。私はあなたの淑女としての名誉を守ろうとしているだけだ」

 エドモンドが静かにそう言うと、ガブリエラは急にヒステリックで甲高い笑い声を上げた。「それこそがまさに、わたしを侮辱するということよ!」


 もう、彼女を相手にしている忍耐がなくなったエドモンドは、そのままガブリエラの横をすり抜けて前へ進もうとした。

 しかし、

 ガブリエラの意味ありげなささやきが、エドモンドの足を止める。

「奥さまの行方を探しているんじゃなくて? ノースウッド伯爵」


 エドモンドは身体を固く直立させ、ゆっくりと肩越しにガブリエラを振り返った。ガブリエラの瞳は、残酷な策略をたくらむ策士そのものだった。

「わたしなら、彼女がどこで何をしているか知っているわ。ええ、よく知っていますとも……」


 そして、相手の返事を待たず、ガブリエラは勝ち誇ったように言葉を重ねた。


「だって、あのあばずれは今頃わたしの兄と一緒にいるはずですもの」

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