The Tipping Point - 1

 オリヴィアは勢いよく階段を駆け上がって、二階の寝室へ飛び込むとあわてて扉に鍵をかけた。

 ──なぜか、そうしなければいけないような気がしたのだ。

 自分と、外の世界との間に、しっかりとした境界線が必要な気がした。


「……ふ……っ」

 頼りない声がオリヴィアの唇のあいだから漏れて、水色の瞳からは、涙が小さな水晶のかけらのようにぽろぽろと落ちてくる。視界が、霧に包まれたようにぼんやりと霞んだ。

 嗚咽を押しとどめようと口元に手をあてたまま、オリヴィアは床に座り込んだ。

 今のは、なんだったんだろう?

 エドモンドに叩かれた手が、ヒリヒリと痛んだ。

 彼に言われた台詞が、鋭利な矢となって、容赦なくオリヴィアの胸を突き刺す。あの怒りに満ちた緑色の瞳に、今にも焼かれてしまいそうな気がした……。

(どうして……?)

 何がエドモンドの気に触れたのかは分からなかったが、彼をひどく怒らせてしまったことだけは確かだった。

 震えるほど強く握られた拳に、歯軋りが聞こえてきそうなほどきつく結ばれた口、燃えるような瞳。ただの癇癪と呼ぶには、エドモンドの怒りは鋭すぎた。

 そして──


『サー・リッチモンドの屋敷へ戻り、彼に伝えなさい。私は、貴女のような荷物を背負うことはできない、と』


 エドモンドははっきりと言った。

 帰れ、と。

 オリヴィアはお荷物であり、彼には必要ないのだと。

 彼の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返し反響する。オリヴィアはしばし呆然として、生気のない視線を寝室に泳がせていた。

「荷物……」

 気がつくと、オリヴィアは無意識にエドモンドの台詞を反芻していた。

「『彼に伝えなさい……私は、貴女のような荷物を背負うことはできない』……」

 ありえないほど、屈辱的な言葉だ。

 エドモンドはオリヴィアを叩き帰そうとしているだけでなく、彼女自身に一々その理由を告げる必要が無いと言ったも同然だった。もしくは、オリヴィアは言っても分からない、頭の弱い女であると。

 確かに自分が賢いと思ったことは一度もないが──それにしたって、エドモンドの台詞は厳しすぎた。

 オリヴィアは何度もまばたきをして、止まらない涙をなんとかしようとした。しかし、止めようとすればするほど、それに抗うように次の涙が零れ落ちてくる。

 ひっ叩かれてヒリヒリする手の甲で涙を拭うと、ますます悔しくなって涙が溢れた。


 ──せっかく、義理の弟と仲良くなれたのに。

 ──あの恐ろしいスープだって、頑張って飲んだのに。吐いてしまったけれど。


 オリヴィアはうなだれ、落ち込んだ。

 こんな時、姉のシェリーだったらどうしただろう。多分、エドモンドに平手打ちを食らわせ、こんな野蛮な屋敷はこちらこそ御免だと言ってすぐに帰り支度を始めたはずだ。そうする理由は十分にある。

(わ、私だって……!)

 オリヴィアだって、そうできる。

 いや、しなくてはいけないのだ。この屋敷に留まっていたら、いつ自分があのスープの中身にされてしまうか分かったものではない。

 今だって、できもしない労働をしろとほのめかされているうえに、夫は自分とはろくに口も利かず、寝室を別にしている。大きいだけのボロ屋敷、不気味なスープ、変な老執事……。

 ゆっくりと立ち上がったオリヴィアは、ぎゅっと涙を呑み、同時に強く手を握った。

 ──逃げ出さなくては。ここから。

 ノースウッドは呪われた土地だ。



 オリヴィアの荷物はまだ衣装箱に入ったままだったから、今朝使ったブラシや寝着を箱におし返すだけで十分だった。

 問題はこれをどうやって運ぶかだ。

 これを持ち帰らなくても実家に帰れば必要なものはすべて揃っているが、それでも三日に渡る道中があるから、置いていくわけにはいかない。

「ジョー。ジョーはどこにいるの?」

 廊下に出て、昨日知り合ったばかりの小姓の名を呼ぶ。

 返事はなかった。

 それどころか、屋敷はがらんとしていて、人の気配を感じない。まだ午前中だから、主人の寝室のある階では、使用人や女中が忙しく歩き回っていてしかるべきなのに。

「ジョー! お願いよ、どこにいるの」

 今度は、少しヒステリックに声を上げた。

 すると突然、すぐそばにあった扉が勢いよく開いて、オリヴィアは驚きに飛びのいた。開いた扉から出てきたのは、なんと、例の老執事──ピーター・テラブだった。

 ぼさぼさの白髪が、それは勢いよく四方に広がっていて、羽を広げたオス孔雀のような迫力を放っている。

 しかし、服装は昨日のような執事の格好ではなかった。

 黒地のゆったりとしたガウンに、ふわふわとした白い室内履き……そして、寝起きの人間独特の細められた瞳。どう見ても、彼は目を覚ましたばかりだった。

「……何をしておる、小娘」

 老執事は、地獄から聞こえてくるようなしわがれた声で、ゆっくりと言った。

 そのあまりの迫力に、オリヴィアはひるんで立ち尽くした。

「あ、あの……」

「わしは寝起きの機嫌がよくない。邪魔をするなと言わんかったか……」

 言われた覚えはないが、オリヴィアはとりあえず首を縦に振った。「申し訳ありません、執事さま」

「うむ、まぁいい……ところで何をしておる、娘。キンキン声を出しおって。わしの寝込みを襲いたかったのなら、もっと女らしくやってもらわんと、その気にならんぞ」

「そんな恐れ多いことはしません」

 オリヴィアがきっぱり答えると、老執事は皺の寄った目じりをパッと開いて、次の瞬間、背を反らすと屋敷が揺れだしそうな大きな笑い声を上げた。

 いかんせん声が低く、しわがれているので、本当に周りの空気が揺れるようだ。

 オリヴィアは憮然とした。

 しかし、心の奥で確信を深めた──この屋敷は間違いなくおかしい!

 大体、どうして執事が主人と同じ階で寝起きをしているのだ。それも、主人──この家の主人であるだけでなく、この地方の伯爵である──エドモンドよりも悠長に朝寝坊ときた。

 オリヴィアは気立ての穏やかなお嬢さま育ちではあったが、弱虫ではない。

 おろしていた両手をきゅっと結ぶと、老執事と対峙する英気をゆっくりと養った。

「実は、お願いしたいことがあるんです。執事さま」

 おごそかな口調でオリヴィアが言うと、老執事は笑いを止めた。

「ほう?」

「私、実家に帰ることにしました。それで、荷物を下ろしたいんですけど、人手が足りませんの。誰かを呼んできていただけませんか」

 オリヴィアは持てる限りの威厳をかき集めて、背筋を伸ばしながら言った。

 すると途端に、老執事の瞳がきらりと鋭く輝く。

「……いつかそうなるだろうと思ってはおったが、まさか、一日も経たんうちに逃げ出すとはな」

 その声と口調には、軽蔑が混じっていた。

 オリヴィアはカッとなった。

「逃げ出すんじゃありません! ノースウッド伯爵がそうしろと仰ったんです!」

「だからどうした。帰れと言われてのこのこと帰るような脆弱な女では、どのみちノースウッドではやっていけん」

「わ、私は脆弱なんかじゃありません!」

「じゃあ、根性なしとでも呼ぶか。あの石頭がなんと言ったか知らんが、お前さんはここに嫁に来たんだ。バカンスじゃない。そう簡単に諦めてもらっては困る」

「な……っ」

 ますます全身がカッカと熱くなって、オリヴィアの舌は思うように動かなくなった。

 帰れと言われたり、帰るなと言われたり、この屋敷は滅茶苦茶だ。

 まるで、オリヴィアはバレット家に新しく到着した玩具で、皆が好きなように弄り回してるようじゃないか。

「あ、あなたはノースウッド伯爵が何と言ったかご存知じゃないのよ! 私は背負うことのできないお荷物で、頭の弱い馬鹿娘なのですって! だから帰るんです。私にもプライドがあります!」

 オリヴィアはそれだけ叫ぶと老執事に背を向けて、自分の寝室へ戻ろうとした。

 もう、こうなれば、衣装箱は自分の背に担いででも下ろすつもりでいた。それが無理なら、このまま出て行ってしまってもいい──。

 出来るだけ大股で足を前に出したオリヴィアだったが、しかし、すぐに大きな壁にぶつかって、行く手を遮られた。


 ──壁?


「ピート。いくらあなたでも、私の妻にそこまで言う資格はない」

 壁、が。

 喋った。それも、低く張りのあるバリトンの、明晰な声で。

 それに、いつのまにか、オリヴィアの両二の腕は誰かにしっかりと握られている。力強く、しかし同時に優しい腕だった。

 オリヴィアは驚いて顔を上げた。


「エドモンド」

 背後で、老執事の声がする。

「お前は父親よりも愚かな男になりそうだな」


「そうかも知れませんね。あなたが、そうだったように」

 と、エドモンドは答えた。

 オリヴィアを抱く彼の腕に、さらに力が入った気がした。

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