Unbreakable - 1

 舞踏会や夜会と聞いてまずエドモンドが思い浮かべる言葉は、『退屈』 とか、『下らない』 とか、そんな面白くもなんともないものばかりだ。

 肩や胸を露出した派手なドレスをまとった婦人たちのあいだを、真っ黒な礼服を着た男たちが物欲しそうに歩き回り、ちょっとした楽しみや賞賛を得るために甲斐甲斐しくリキュールやカクテルを婦人たちの元へ運んでは、気の利いたところを見せようと躍起になる。若者たちは広間でメヌエットやワルツを踊り、年配の男たちは談話室で葉巻を吸いながら政治や狩猟の話をして、一人身の女性は壁際の椅子に座って誰かがダンスに誘ってくれるのを待って落ち着きのない顔をしている。

 醜聞や噂話が熱く会場を飛び交い、誰も彼もがこの場で一番美しく賢い存在であると証明したくて、うずうずしている。

 こんな飽き飽きするような集いがさも大儀に──それも定期的に──催されるのは、彼ら貴族たちが精神を病んでいるからではないかとさえ、エドモンドは訝しがっていた。

 しかし、そんな彼らも、今のエドモンドと比べればだいぶまともな存在なのだろう。

 なによりも今夜の舞踏会が『退屈』 とか『下らない』 と表現するものに終始するとは……到底思えなかった。


 ぱりっとした礼服を着込むと自分で袖口のカフリングを留めて、エドモンドは鏡と向き合った。

 自分で自分の葬式をあげに行くような気分ではあったが、心のどこかではまだ、正体の分からない炎が消えずに火の粉を散らしているのも感じる。

 鏡に映った緑の瞳は、かつてないほどに熱を帯びていた。





 いままでオリヴィアは舞踏会や人々の集まりについて、ある一つの信念を持っていた。『微笑みが肝心』というものだ。

 ダンスの誘いを受け入れるのも、断るのも、噂話や遊戯の輪に入ったり出たりするのも、どれだけ円滑に進められるかはすべて微笑みにかかっていた。オリヴィアは人々の熱気が苦手で、大きな舞踏会に行くと必ず壁際に避難するはめになる。そこでいわゆる壁の花になるのだが、再びオリヴィアを広間に連れ戻そうとする魔の手から逃げるには、この微笑みが欠かせないものであった。

「ごめんなさい、気分が優れないの。またの機会に誘ってください」

 と言って、にっこり微笑めば、大抵の場合は許された。

 舞踏会や夜会が嫌いだと思ったことはなかったが、もっと短ければいいのにと、いつも思う。大規模な舞踏会は、午後から人が集まりだし、日の暮れる頃に始まって夜の闇が消えるまで続いた。オリヴィアはいつも疲れて眠くなってしまう。可能なら控えの小部屋で寝入ってしまうことも少なくなかった。酒が苦手なのも理由の一つだろう。ラム入りのパンチが一杯あれば、オリヴィアはもううとうとしてしまう体質だった。

 でも今夜は──今夜だけは、宴は、長ければ長いほうがいい。

 壁の花に甘んじているつもりはなかった。

 今夜は、

 今夜だけは。







 自室の小さな化粧机の前に座りながら、オリヴィアは鏡に映る自分にじっと見入っていた。

 当然のことだが、水色の瞳がじっとこちらを見つめ返している。普段はほんの少し自然なウェーブを描いているだけの黒髪はこてを当てられて魅惑的な巻き毛になっており、細い三つ編みが王冠のように頭の後ろに回されていて、残りの毛はそのまま背中に流されている。

 ドレスに合うよう薄い下着シュミーズを着て、その上にガウンを羽織ったオリヴィアの肌は、緊張でほんのり桃色に染まっていて、まるで誰かがその禁断の実をもぎ取ってくれるのを今か、今かと待ち望んでいるようだ。

 しかし水色の瞳は真剣そのものだった。

 ベッドの上には新しいドレスが広げてあって、布に縫い付けられた繊細なビーズ模様が窓からの光を受けて輝いている。


 バレット家の屋敷からファレル家の屋敷までは、馬車で数時間の旅になるらしい。

 エドモンド、オリヴィア、ローナン……そして、なんとピートが付いて来るという。四人は朝のうちに屋敷を出発して、舞踏会の夜はファレル家に泊まり、次の朝か昼ごろに帰る予定でいた。

(最後になるかもしれない夜に、初めて同じ部屋で休むことになるのね)

 と、気が付いて、オリヴィアはつい、微笑んだ。

 いままで寝室を別にしていたエドモンドとオリヴィアだが、それでも二人は夫婦なのだから、他人の屋敷に行けば間違いなく二人用の客室をあてがわれるはずだ。それも大勢の客が同屋敷に宿泊するとなれば、あまり広い部屋は期待できない。エドモンドはきっと嫌がるだろうが、オリヴィアは嬉しかった。どうせ最後になるなら、できるだけ近くに彼を感じたい。


 ──空には薄い灰色の雲が漂っていて、夕方には雨が降りそうだった。

 オリヴィアは静かに空に見入った。

 涙は零れてこない。少なくとも、今は、まだ。


 コン、コンと部屋の扉が叩かれる音がして、オリヴィアは「はい」と短く答えた。

 相手はマギーだと確信があったので、扉が開いて誰かの足音が近づいてきても、オリヴィアは振り返らずに相手に背を向けたままでいた。最後の仕上げにドレスを着るのに、彼女の手伝いを頼んだからだ。

「マギー」

 オリヴィアは相手に背を向けたまま立ち上がって言った。「髪はこれで大丈夫かしら。ノースウッド伯爵が気に入ってくれるといいんだけど……頬をつねったほうがいいと思う?」

 しかし、なかなか答えがないので後ろを振り返ったオリヴィアは、驚いて短い悲鳴を上げた。

 部屋の中央にエドモンドが立っていた。

 すでに黒の礼装に身を固めていて、髪も大部分を後ろになでつけている。正装したエドモンドは、信じられないほど背が高く、そして堂々として逞しく見えた。

「頬をつねる必要はない。十分に桃色に染まっているように見える」

 エドモンドはそう言って、オリヴィアの全身に素早く視線を走らせた。オリヴィアは慌ててガウンの前ごろ身を合わせたが、エドモンドは特に動揺したようすを見せなかった。オリヴィアはごくりと息を飲んだ。

「そして……私が、その髪を気に入るかどうかという質問については……イエスと答えておこう。あなたはいつも美しい」

 大きな一歩でオリヴィアに近づいてきたエドモンドは、片手に掴んでいた小さな箱をオリヴィアの前に差し出した。緑の装飾紙が張られた木箱で、オリヴィアはすぐにその中身に思い当たった。──これは宝石箱だ。

 初めて二人で参加する舞踏会の前に夫が妻に宝石を贈るのは、しきたりのようなもので、国中の若い娘が夢見る場面だ。オリヴィアにだって、そんな幻想がなかったわけではない。でも、かりそめの二人には望むべくもない夢だと思っていた。

 恐る恐る一歩前に進み出たオリヴィアは、夫の差し出す木箱に手を伸ばした。

「私が開けてもいいのですか?」

「あなたのものだ。今日に間に合わせるのは簡単ではなかったが、丈は合っているだろう」

 オリヴィアは木箱を受け取り、目の前のエドモンドをじっと見上げた。

 彼の瞳はどちらかといえば無表情に見えたが、ずっと覗いていると、その奥に得体の知れない熱が篭っているのが分かる。彼もこの最後の夜に何らかの葛藤を抱いているのだろうか……。そうだとしたら、オリヴィアは希望を抱いていいのだろうか。

 木箱は思ったよりも重く、小さな鉤型の留め具で閉じられている。

 視線を落としたオリヴィアはゆっくりとした動作で木箱を開いた。出てきたのは、大きな緑色の石をいくつもあしらってある金製の首飾りと、それに合わせた小さな耳飾りだった。オリヴィアは驚いてもう一度エドモンドを見上げた。

 エドモンドもオリヴィアを見下ろしていた。

「これを……私に?」

 にわかには信じられなくて、オリヴィアは震える声でたずねた。

 宝石は大きく胸元を飾るつくりで、それが細い金の鎖に続いている。宝石の価値だけでなく、見事な職人の仕事が随所に施されており、それだけでもかなりの値打ちがありそうだった。

 こういってはなんだが、エドモンドは特に裕福な男というわけではない。しかしこの首飾りはかなり高価な品のはずだった。オリヴィアが心配げな表情をしていると、エドモンドは口元に薄い笑いを浮かべて、手短に説明した。

「石はもとから屋敷にあったもので、それを金細工職人に作らせただけだ。昔から私に借りのある男で、ただ同然の値段で仕事を引き受けてくれた」

「でも、大変だったでしょう」

「あなたがこれを気に入らなければ、確かに、彼は大変なことになるだろうな」

 そんなことがあるはずもない。

 首飾りは息を呑むほど美しく、そしてエドモンドの瞳と同じ色をした宝石はどんなものより輝いて見えた。オリヴィアは喜びに溢れそうになる涙をこらえながら、なんとか微笑んだ。

「いいえ、とても綺麗だわ。ありがとうございます……。私にもなにか、あなたに差し上げられるものがあればいいのに」

「必要ない」

 エドモンドは短く答えた。「あなたは十分なものを私に与えてくれた」

「そうでしょうか」

 と、オリヴィアは呟いた。


 二人はそのまま、ずいぶん長い時間と思われる間、静かに見つめ合っていた。

 お互いに言いたいことがいくつもあったのに、なぜか口に出すのが躊躇ためらわれて、沈黙が続く。その間も、屋敷の一階からはガヤガヤとした雑音が響いてきた。そう、伯爵と伯爵夫人が舞踏会に出発する朝の使用人たちの浮かれようときたら、可笑しいほどだった。長い間バレット家には華が欠けていたから、余計なのだろう。

 オリヴィアは再び首飾りに視線を戻し、きゅっと唇を結んだあと、顔を上げた。

「ノースウッド伯爵、これが私たちにとって最後の夜になるなら……一つだけ、教えてください」

 毅然とした声に、エドモンドはさらに背筋を伸ばして顎を引いて見せた。すると彼はますます大きく見えて、オリヴィアはますます自分を小さく感じた。しかし、臆病な気持ちにはならなかった。大きなエドモンドの方が、小さなオリヴィアよりずっと複雑で傷つきやすく見えたからだ。

「もし……バレット家に呪いがなかったら、あなたは私を愛してくれたでしょうか。私は……あなたの妻になれたでしょうか」

 エドモンドは微動だにしなかった。

 ただ、乾いた緑の瞳がまっすぐにオリヴィアを見下ろしている。

 古い銅像でさえも、今のエドモンドより柔らかいのだろう──そう思えるくらい、エドモンドの身体は固く、筋肉という筋肉が緊張しているようだった。

 エドモンドの答えは、短く、そして明確だった。

「今、この瞬間にでも」


 バタン!

 と、突然、扉が大きな音を立てて開いたので、二人ははっとして部屋の入口に顔を向けた。

 マギーが肩で息をしながら立っていた。

 階段を走って上ってきたのか、すっかり顔が紅潮している。手には毛のからまったままのブラシが握られていて、彼女自身の髪もぼさぼさだった。

「あの老いぼれた野獣ときたら!」

 怒りに声を震わせて、マギーはブラシを持った片手を高く振り回した。「腹をすかせた熊よりも始末が悪いね! ああしろこうしろと文句ばかり! 私にはマダムのドレスの世話があるんだから自分でやりなと言ったら、エドモンドにやらせておけと言うんだよ。どうも本当にそれでも良かったみたいだけどねぇ……」

 意味ありげなマギーの視線が、エドモンドとオリヴィアの両方をじっくりとねめつける。

 オリヴィアは真っ赤になり、エドモンドは一歩オリヴィアから離れた。

「ああ、離れる必要はないよ。もうすぐ出発だ。仕上げにドレスを着せるだけだからね、マダム、あんた本当に綺麗だよ」

 と言って、マギーはオリヴィアに歩み寄りながら両手を差し出した。マギーからの温かい抱擁を受けたオリヴィアは、安心に目を閉じて彼女を抱き返した。──エドモンドと別れるということは、バレット家やノースウッドと別れることをも意味している。こんなに彼らを好きになりはじめたのに。オリヴィアは鼻のあたりがツンと痛むのを感じて、それを周りに悟られないように我慢しなければならなかった。

 マギーはオリヴィアから身体を離すと、あらためてまじまじと彼女を見つめて、頭を振った。

「エドモンドの旦那、あんたはとても素晴らしいものを手放そうとしているよ」

 離縁宣言を聞いてからここ数日のマギーは、常にエドモンドに辛辣だった。無理もない。マギーはいつの間にかオリヴィアを実の娘のように可愛がり始めていたのだから。

「さあ、ドレスを着せてあげようね、マダム。今夜は誰もがあんたの虜になるよ、誓ってもいい」


 桃色のドレスを着終わるまでの間、エドモンドは部屋の壁に肩を寄りかからせてじっとオリヴィアを見ていた。

 今日の下着は薄いから、日に透けると身体の線がくっきりと見えるはずだ。エドモンドはいっそ恐ろしいほどの無表情で、魅力的な曲線を描いている華奢な妻の身体を眺めている。オリヴィアはどぎまぎしたが、彼に部屋を出て欲しいとは思わなかった。

 ドレスが着終わり、マギーが満足して部屋を出ると、エドモンドはゆっくりとオリヴィアの方へ近づいてきた。

「私が付けよう。後ろを向きなさい」

 化粧机の上に置かれていた首飾りを手に取ったエドモンドは、妻の後ろに立ち回り、意外にもとても器用に留め具を外してオリヴィアの首に腕を回した。オリヴィアは彼を助けるために自分の髪を上に持ち上げて、首飾りが付け終わるのを待った。

 それが終わるとエドモンドは耳飾りを手に取ったが、今度はそう簡単にはいかなかった。

「これはどうなっているんだ……くそっ、こんな小さい穴にどうやって──」

 耳飾りの仕掛けが小さく複雑だったこともあるが、エドモンドはどうしても、オリヴィアの肌になにかを刺すという考えに前向きになれなかった。

 こんなに柔らかい肌に。

 こんなに愛しい生き物に……どうしてそんなことができる!

 しかし、

「貸してください。大丈夫、簡単ですよ」

 と、オリヴィアは言って、夫の手から耳飾りを取ると、素早く自分の両耳に宝石を付けた。

 エドモンドは憮然としたが、ドレスと宝石で美しく飾られたオリヴィアを見下ろしているうちに、わだかまりは少しずつ溶けていった──。

 こんなに美しいものは見たことがなかった。

 そしてこれからも、見ることはないだろう。


「では、行こう」

 エドモンドはひじを曲げて、正式な紳士の仕草でオリヴィアに腕を差し出した。オリヴィアは彼を見上げ、その腕を取った。

「ええ、行きましょう」

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