Unbreakable - 7

 いま、目の前に立っている水色の瞳をした魅力的な女性は、エドモンドの従順な妻であり、どんな男が見ても強くそそられるであろう胸元が大きく開かれたドレスを着て、こちらをじっと見据えている。

 エドモンドは、男たちが噂をしているのを聞いた。

 彼女のほっそりとした腰をそれとなく褒めそやしたり、輝く黒髪やその隙間からのぞく華奢な首を賞賛したり、そして極めつけには──柔らかそうで豊かな胸に物欲しそうな視線を這わせながら、彼女と結婚したエドモンドは、なんとも幸福で賢い男だったと称たたえるのだ。


 しかし、エドモンドは言いたかった。

 この『なんとも幸福で賢い男』ほど、苦しみと我慢を強いられていた人間は、国中を探してもそうはいないだろうと。

 ここ一ヶ月の彼ほど、自分が男であることを後悔した人物がいれば、ぜひ顔を拝んでみたいものだった。


 どうにかして彼女から心をそらそうとするほど、エドモンドの中の彼女への想いは膨らんでいく。

 それはひどく生々しい痛みをともなうもので、まるで生きたまま野生の獣に食われていくような感覚ですらあった。それも、存分にいたぶられた後に、ゆっくりと。


 しかも、この試練はまだ始まったばかりらしかった。


「とても素敵でした」

 と、オリヴィアは恥じらいと喜びの混じった小さな声でささやいてきた。

「まるで……夢に見ていたみたいで。嬉しくて、頭がおかしくなりそうなくらい……ずっと、ずっと、したかったんです。こうしてあなたと……その、その、」

 続きを言葉にするのはためらわれるようで、ここでオリヴィアは言葉をにごした。しかし、彼女がなにを言いたいのかは、エドモンドにもよく理解できた。

 オリヴィアはエドモンドの衝動的な想いの暴露を喜んでいて、それを褒めてさえいるのだ。

 一方、当のエドモンドは、自分の頭を斧でかち割ってしまいたいほどの後悔の念に襲われているというのに……この違いはなんだ。

 彼女には常に、こんな浮世離れしたところがあって、まったく同じ問題を前にしてもそれに捕らわれないでいられる強さがあった。──そうだ、強さだ。エドモンドは自分が弱い人間だと思ったことはなかったが、それでも彼女が持つような、しなやかな強さは持っていない。

 くそ、素晴らしい妻ではないか。

 どうして私はこの期ごに及んで逃げ続けなくてはならないのだろう? そう、エドモンドは強く自分を呪いつつ深く息を吸った。


「マダム……いや、オリヴィア」

 エドモンドはまず周囲に鋭く目配せし、それから妻を見下ろして静かに言う。

「私はしてはならないことをした。頭がおかしくなったのは私の方だ……こんなことがあってはならなかったんだ。それを私は、自分を抑えられなかった」

「でも、私は嬉しかったわ。きっとこれでよかったんです」

 そう言いきったオリヴィアの瞳は、純粋な確信に満ち溢れているようだった。エドモンドは低いうなり声を上げながら、この可愛いらしい分からず屋の妻の腕を引いて、早足で部屋の端のほうへと移動しなければならなかった。

「よく聞くんだ、オリヴィア。私は何度も同じことは言わない。私たちは別れなければならないんだ……そしてその理由は、あなたもよく分かっているはずだ」

 予想はしていたことだが、それを聞いたオリヴィアは悲しげに目を曇らせてじっとエドモンドを見つめている。


 ──ああ、泣くな。泣かないでくれ。

 エドモンドは祈った。


 それは、まったく無駄な祈りであるように思えたが、驚いたことにオリヴィアはしばらく耐えた。そして彼女は、おもむろに唇をきゅっと引き締めると、突然、威勢良く胸を張った。

「……分かりました」

 と、オリヴィアはハスキーな声で短く答えた。

「何だって?」

 エドモンドは聞き返してしまった。


 予想外の答えに、胃の中のものが急激に逆流してくるような嫌な反感を感じて、エドモンドは激しく眉間に皺を寄せる。分かりました? 分かりました、だと? 

 この娘が正しく理解していることといったら、パンにバターをぬる方法くらいのはずではないか。

 突然せり上がってきた反感が自分の言っていることと矛盾しているのはエドモンドもよく分かっていたが、彼女がこんなに簡単に納得してしまうのは、受け入れがたい気がして頭かぶりを振った。

 エドモンドは思わず、確認するようにオリヴィアの瞳をまっすぐに覗き込む。

 まるで春の草原に浮かぶ空のような澄んだ水色の瞳が、同じようにまっすぐエドモンドを見据えていた。彼女は真剣だった。彼女は、確かで頑固な決心でもって、エドモンドの言葉にうなづいているのだ。

 ──私たちは別れなければならないという、エドモンドの言葉に。

 そのあまりの驚きに、エドモンドは一瞬、我を忘れるほどの衝撃を覚えた……。


 ずっと逃げていた。

 ずっと、『バレット家の呪い』に彼女を失うのが恐ろしくて、逃げ続けていた。

 これでいい、これが最善の策なのだと自分に言い聞かせて。


 しかし、心の底では、それでも自分の後を追ってくるオリヴィアに安心していたのでは……? 本当に別れを納得していなかったのは、自分の方で……。

 その証拠に、オリヴィアの一言にひどく狼狽している自分がいる。

 ひどく──憤慨している自分が。


「オリヴィア」

 それでも、剛鉄の自制心はエドモンドの声をなんとか落ち着いたものに抑えていた。ただし、聞く者が聞けば、その声に不穏な揺れが存在するのに気がついただろう。

「一体……あなたが何を分かっているのか、説明して欲しいものだが」

「それは……」

 夫の低い声に、オリヴィアは少しびくついたが、彼から目を離すことはなかった。

 急にほっそりとした首を伸ばして、二人の身長差を埋めようとするようにまっすぐに背を正す。その姿は威勢のいい狐のようだった。


「あ、あなたが、いつまでも私たちは別れるべきだと決め付けていることが、です! あんな……あんなことがあった後でもまだ同じように考えていらっしゃるなら、私はもう、覚悟を決めるときが来たんだわ。見ていてください!」


 そう言い切ったオリヴィアは、ぽかんと呆気に取られたエドモンドを残して、素早くきびすを返した。

 ドレスのスカートの裾を両手で軽く持ち上げ、踵のついた細い靴で歩けるうちで一番早い速度で、つかつかとエドモンドから遠ざかっていく。

 突然の予想外の展開に、エドモンドはしばらく立ち尽くしていた。





 あの、嫌味で意地悪な老執事……もとい、義理の祖父の狡猾さを恐れて今まで遠慮してきたけれど、どうもそうも言っていられなくなったのだと、オリヴィアはついに決心をした。

 ──『呪いは存在しない。まぁ、多分、な』

 あの言葉の裏づけを取らなくてはならない。それも今すぐに!


 オリヴィアは歩きやすいようにスカートの裾を少しだけ持ち上げながら、群集の間を縫うようにして舞踏室を横切ろうとしていた。時々、驚いたような顔をした人々がそんな彼女をじろじろと見ているが、オリヴィアは構わずに先に進む。

 かなり人が多いし、ドレスでは走り難いので、あまり早くは歩けない。

 それでもオリヴィアは威勢の限りを張って、どんどんエドモンドから離れていった。


 まったく、バレット家の男たちときたら、代々かなり頑固に生まれついているようだ。


 あれほど情熱的な口付けがあった後で……あれほど、二人の心が通い合ったと思ったあとで、それでもまだ別れなければならないなんて、オリヴィアにはもう信じられなかった。そんな未来は考えたくないし、考えられない。

 二人の想いの妨げになっているのが『バレット家の呪い』なら、それを解かなければならない。

 幸い、その鍵を握っているのはピートらしいと分かっている。

 不幸なのは、そのピートが、孫エドモンドよりさらに頑固で扱いづらいことだが……。怖気づいている場合ではない。二人の未来のために!


 オリヴィアはもう少しで広い舞踏室を抜けることができそうだった。

 しかし途中、

「おっと」

 という、男性の声と一緒に、肩をつかまれて足を止められてオリヴィアは振り向いた。

 勢いづいていたので、歩みを邪魔されたことに短い苛立ちを感じたが、それも一瞬のことだった。見上げるとそこには親しみのあるローナンの笑顔があった。


 焦っていたオリヴィアに比べ、ローナンは到着したときと変わらない整った姿で、片手には飲み物のグラスを持っている。

 オリヴィアは足を止め、面白おかしそうな笑いを口元に浮かべている義弟に向かって、声を抑えて言った。

「ローナン、どこにいたの? 大変なことがあったのよ」

「そうみたいだけどね。でも、僕の出る幕なんてこれっぽっちもないように見えたからさ、舞踏室の奥に隠れてたんだ」

「じゃあ、あなたは全部見ていたの?」

 何を、とオリヴィアは言わなかった。

 もちろん言う必要もなかったようだ。ローナンは肩をすくめてみせ、何を言わせるんだといわんばかりに眉を上げて、オリヴィアの耳元にささやく。

「それはもう……口にするのもはばかれるくらい情熱的な口付けだったね。兄さんは落ちたと思っていいのかな? それともまだ難しいことを言ってるの?」

「ええ」

 オリヴィアは諦めたように答えた。「あなたのお兄さんは時々とても分からず屋よ。私はこれからピートと話をしてくるつもりです」

「ピート? 兄さんの代わりにするには少し歳を取りすぎてるんじゃないの?」

 わざとからかうように言って、ローナンは手にしていた飲み物のグラスを近くにいた給仕係に手渡した。そしてうやうやしくオリヴィアの片手を取ると、無骨な兄よりはずっと滑らかな仕草で、舞踏室の中央へ戻るようにうながす。

「でもその前に、たった一曲で構いませんから、マダム、この寂しい若者とも踊っていただけませんか?」

 役者な彼は、本当に寂しくて可哀想な表情を顔に浮かべていたので、オリヴィアは思わず声をもらしてクスクスと笑いながらそのリードに従った。

 一曲くらいなら仕方がない。

 それに、この義弟からは時々とても為になる助言をもらっている。

「では一曲だけですわよ。わたくし、とっても忙しいの」

 たとえばガブリエラのような女性がするような、気取った喋り方を真似してオリヴィアは答えた。

「ああ、なんたるご慈悲。光栄のあまり、喜びでひざが震えてしまいそうだ」


 ちょうど陽気なメヌエットが始まったところだったので、二人はなんの難もなく踊りの輪の中に溶け込んでいくのに成功した。ローナンは気軽な踊りの相手としてとても適役で、すいすいとオリヴィアをリードしていく。

 当然のなりゆきとして、ローナンの片手はオリヴィアの腰辺りに触れていたし、オリヴィアの手もローナンの肩に置かれていた。

 姿かたちは似ているのに、兄と弟ではだいぶ感覚が違う。オリヴィアは、人当たりのいい義弟に上手くリードされることに安心を覚えていたが、エドモンドとの時のような精神の高揚はまったく感じない。やはりオリヴィアにとっての特別な男性はエドモンドだけで、ローナンは親しみのある家族にすぎないのだ。

 ただし……オリヴィアがそうは思っていても、他人の目に映る彼らはそれなりに意味深だったようだ。

 特に──


「ねえ、兄さんがこっちを見てるよ」

 と、ローナンは踊りながらオリヴィアの耳元に忠告した。

「僕を……そうだな、殺す以外のことなら何でもしかねないような目でね。まるっきり見込みがないってわけじゃないみたいだ」

 オリヴィアはちらりと、ローナンの肩越しに言われた方を見た。

 探すまでもなく……エドモンドは確かに、ローナンが言ったような険しい顔をしてこちらを見ていて、今にもこちらに踏み込んできそうだった。オリヴィアはごくりと息を飲んだ。

「誰か、彼の頑なさを砕くことはできる人はいるのかしら」

「君じゃなければ、誰もできない。だから君には頑張ってもらわなきゃ……ほら、次の曲が始まる前に行っておいで。幸運を祈るよ」


 曲が終わりに近づくのを見計らって、エドモンドが人々の間を縫うように二人に近づいてきた。その歩みは、無防備な獲物に接近しようとする野獣のようだ。

 ローナンは機微よくオリヴィアを離すと、彼女を舞踏室から押し出すようにうながした。

 そして、慌てて走る彼女の背中を見送ったあと、眼光炯々と近づいてくる兄と対峙するべく、後ろを振り返った。

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