Unbreakable - 6

 エドモンドの両手は、オリヴィアの腰周りからゆっくりと上がって、彼女の両頬をはさむように包んでいった……。

 くたりと力が抜けたオリヴィアの身体が、やわらかい曲線を描いてエドモンドの上半身に寄りかかる。すると、エドモンドの唇はさらに貪欲さを増して、オリヴィアの唇をついばみ続けた。


 この、情熱的でロマンチックな伯爵夫婦の口付けは、舞踏室にほとばしる熱気をさらに熱くしたようで、すぐに観衆のざわざわという喧騒を呼び起こした。


 なんてスキャンダラスな……まぁ、ふしだらなこと……そんな非難の声に混ざって、この余興を面白がった明るい声援や、若い婦人たちの黄色い声が聞こえ始める。

 ふんだんに振舞われる良質の酒とカドリールの後で、まともな道徳心を保っているものはそれほど多くないらしかった。しかも二人は、対外的には新婚の夫婦ということになっている。

 曲が終わり、まだ踊り足りないと言わんばかりに舞踏室に残るものと、いそいそと休憩や飲食を求めてその場を離れるものとで周囲は混乱していたが、エドモンドとオリヴィアの周りだけは時が止まったようだった。


 まるで、紅海を渡るモーゼの目前に海が開けたように。

 誰もがエドモンドの決意に満ちた妻への愛情表現を、固唾を呑んで見守っている。

 しかし──どこにでもエジプト王はいるものらしい。


「なっ、なっ、何をなさっているの!」

 最初にヒステリックな声を上げたのは顔を蒼白にしたガブリエラだった。

 青筋のたった白い手を両脇でわなわなと握り締めながら、夫婦の間に割り込もうとするが、エドモンドは石の壁のようにまったく動かず、動じない。

 ガブリエラはこうして存在を無視されるのが我慢ならなく、空気のような扱いをされるくらいなら相手を引っかいてでも注意を惹かなければ気がすまない種類の女だ。実際、ガブリエラの手は今にもオリヴィアの顔をひっぱたいてやりたくて、うずうずしていた。

「私のおと……屋敷で、破廉恥な真似は許されませんわよ!」

 興奮したガブリエラの台詞に説得力は皆無だったが、声だけは大きかった。

 エドモンドは静かに、放漫といってもいいほどのゆっくりした動きでオリヴィアの唇から離れると、ガブリエラを横目で見下ろした。


「失礼する」

 と、言った彼の声はかすれていて、荒い息使いが混じっていた。「しかし、私は夫として当然の権利を行使しただけだ……お許しいただけるだろう」


 夫の言葉に、オリヴィアはクラクラとした眩暈に襲われた。

 そしてガブリエラも、エドモンドの台詞にひどい眩暈を感じた。この男は、今、私に恥をかかせただけではない。私のプライドを傷つけたのだ。それはあってはならないことで、実際、滅多にないことだった。

 ガブリエラは引きつった微笑を顔に張りつけたが、その目は怒りでぎらついていた。

「もちろんですわ、ノースウッド伯爵……。こちらの可愛いお嬢さんには、ちょっとした慰めが必要だったのでしょう?」

 さげすむような瞳にねめつけられているのに気付いて、オリヴィアはハッと我に返って身体を硬くした。

 ガブリエラはオリヴィアよりずっと背が高くて、生まれながらの貴族らしい華麗なる傲慢を完璧に身につけている。彼女がその気になれば、オリヴィア一人を破滅に追い込むくらいなんでもない……むしろ、微笑みながらそれをやってのけるだろうという冷酷さが、ありありと見えた。

 まだ、エドモンドの両手が頬を包んだままだったから倒れないですんだが、そうでなければオリヴィアはこのまま気を失ってしまいそうな気分だった。

 ──目が覚めた後のことを考えると、少し怖かったけれど。


 オリヴィアが見上げると、エドモンドの表情はいつもに増して厳しかった。

 あまり機嫌が良さそうには見えない。彼はいつもの厳格さにくわえて、威圧的な雰囲気を存分にかもし出していて、今にも咆哮を上げようとしている獅子のようにさえ見える。

 オリヴィアは自分の立場がよく分からなくなって、つい、助けを求めるようにヒューバートの方をちらりと見やった。

 てかてかに撫で付けられた金髪を少し乱したヒューバートは、その貴族的な口をまぬけに開いたまま、エドモンドとオリヴィアを交互に見ていた。しかし、オリヴィアと目が合うと、ヒューバートは正気を取り戻したようだった。ごほんとわざとらしく咳をすると、姿勢を正す。

「エドモンド……君が人前でこんな大胆なことをする男だとは思わなかったが」

「私もだ」

 エドモンドは自分で答えた。

 ヒューバートは短いうなり声を漏らし、居心地が悪そうに天井を仰ぎ見た。オリヴィアは助け舟を出してくれそうな人物を失ってますます焦ったし、ガブリエラは土性骨のない兄に憤慨してさらに顔を赤らめた。

「まぁ……まぁ……こんなことが許されるとでも……」

 わなわなと手を振るわせたガブリエラは、いかにも悔しそうに唇をゆがめ、エドモンドに対峙するのを諦めてオリヴィアの方にキッと向き直る。

「あなたは自分のしたことを分かっているのかしら、お嬢さん?」

 ひどく相手を見下した目で、ガブリエラはじろじろとオリヴィアを眺めていた。

「まるでお腹を空かせた猫みたいにあちこちの男にすり寄って、そのくせ夫が他の女性と踊るだけでも気に食わなくて、彼を誘惑したのね。恥というものがないの?」

「なっ、なにを言っているのか分かりません。私はただ……」

「お黙りなさい!」

 ぴしゃりとオリヴィアの抗議をさえぎったガブリエラは、つかつかとおびえる子猫の前に詰め寄った。

「いったいどんな手を使ってエドモンド様と結婚したのかしら。無垢そうな顔をして、きっと誘惑がお上手なのね。それともお金の力があったのかしら」

 オリヴィアは蒼白になった。

 二人の結婚が愛から始まったものでないことをはっきり指摘されて、心臓が鷲づかみにされたような胸の痛みと、動悸に襲われた。

 はっきりと言われたことはないが、エドモンドがこの結婚に承諾した理由は、オリヴィアの持参金だ。

 彼はバレット家の呪いのせいで愛のない結婚と『どうでもいい妻』を望んでいて、そのための相手にオリヴィアを選んだのだ──。いままでずっと田舎に引っ込んでいたせいで気に留めることはなかったが、エドモンドは伯爵という地位を有した、若く魅力的な男性だ。彼に想いを寄せていた女性の一人や二人がいても不思議ではない。

 こんなふうに。

「私は……私はただ……」

 オリヴィアは消え入りそうな声で言おうとした。

 私はただ、ただ、ノースウッド伯爵が好きなだけ。それ以外は、この結婚も、いま受けたこの口付けさえも、夢みたいなもので……。


 急に、エドモンドの両手が、今度はオリヴィアの肩をがっしりと掴んだ。

 彼は自分の腕力の強さをよく分かっていないようで、コルセットを付けたオリヴィアには一瞬、息苦しくなるほどの勢いだった。

「私たちの結婚について、無意味な詮索はやめていただこう」

 エドモンドの声は低く、単調ではあったが、無視できない迫力がこもっている。「……ただし、彼女の誘惑が上手いことは否定しないが」

「ま、まぁ……!」

 なんとかひるむ様子を見せないように、ガブリエラは虚栄心を一杯にして胸を張りながら一歩下がった。


 ざわつく舞踏室は、外の雨と同じくらい騒がしくせわしない。

 それでも、ファレル兄妹とバレット夫妻のやり取りは招待客たちの関心を存分に集めていた。

 踊りと踊りの間を持たす演奏を続けている楽団たちも、屋敷の主人があまり名誉があるとはいえない状況に陥っているのを感じて、急に気の利いた明るいメヌエットに曲調を変えた。

 いくらか聴衆の興味を引き戻した楽団は、さらにペースを上げて演奏し続ける。

 エドモンドはそれも構わず、周囲を無視し、何かにとりつかれたような真剣な目でオリヴィアを見下ろしていた。


「そして、マダム。私たちは……少し話し合う必要がありそうだ」

 と、エドモンドに言われて、オリヴィアはなんとか首を縦に振ってうなづくのに成功した。


 今のエドモンドに冷静な話し合いの余地があるようには見えなかったが、それでも、この混乱した状況を整理するためには文明的な手段を選ぶのが賢そうに思える。

 ──そうでなければ、彼はこのまま良識を捨て去ってしまいそうだった。

 ガブリエラの首を素手で絞めてしまうとか。

 ヒューバートの横っ面に拳を放つとか。

 それともまた……オリヴィアを強く引き寄せて、再び聴衆の前で情熱的な口付けを続けるとか。




 怒ったガブリエラが早足で二人から離れていったのと、妹の後を追ってヒューバートが隣からいなくなったのに、オリヴィアはほとんど気を払うことはなかった。

 そして、周りに邪魔者がいなくなったとたん、オリヴィアを見下ろすエドモンドの表情は複雑なものになった。

「あなたのその眼差しのおかげで──」

 眉をゆがめたエドモンドは、彼自身に言い聞かせるような口調で言う。

「私はまともに物を考えることができなくなっている。今だけじゃない。あなたと結婚してからもうずっと」

 うまい返事が見つからず、オリヴィアはじっと彼を見上げ続けていた。

「くそっ、眼差しだけじゃない。髪も、肌も、唇も、声も、すべてだ。あなたのすべてが私を狂わせる。するべきでない事をしたり、今も言うべきでない事をベラベラと……もう、」

 オリヴィアから両手を離したエドモンドは、そのまま混乱したように髪をかきあげた。

 きちんと整えられていた前髪の房がいくつか額に落ちてきて、彼の男性的な魅力をさらに輝かせている。オリヴィアはたまらなくなって、つい、手を伸ばしてその髪に触れようとした。

 止められるのを覚悟していたのに、エドモンドは眉をひそめたままそれを受け入れた。

 苦しんでいるのか、喜んでいるのか、よくわからない顔をしたまま。


「ノースウッド伯爵……私たちは今、その……」

 慎重に言葉を選びながら、オリヴィアはまるで言い訳するように言った。

「すこし……親しくなったのですよね?」

「マダム!」

 エドモンドが苛立った声を上げたので、オリヴィアは肩をすくめて小さくなった。手を離し、もじもじとドレスの胸元についた刺繍を指先でいじり始めてみたりしたが、あまり落ち着きは得られない。


 ──私たちは口付けをした、と、オリヴィアは確認するように胸の内で繰り返した。

 その驚くべき事実と、あの甘い感触の名残だけが、混乱したオリヴィアの心の中に強く残っている。突然のことだったけれど、二人の間に熱いなにかが流れていたのを確かに覚えている。

 二人は間違いなくお互いを求めていたし、あの刹那、周りの世界のすべてがどうでもよくなっていった。

 そしてそれは、エドモンドも同じだったのだと思いたかった……きっと、きっと。

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